釈迦が悟りを開いた時、仏教はまだ存在していなかった。
釈迦は仏教の創始者ですが、仏教の産物ではありません。
ゆえに、仏教の実践だけでは、釈迦の境地に至れなくても全く不思議なことではありません。
釈迦は最後の「自灯明」という言葉を残し、仏教に大きな修正を加えています。釈迦がたどりついた境地に至るには、まさに釈迦がそうしたように、いずれは自らを灯明として歩むより他はありません。
偉大な体現者は必ずしも優れた指導者を兼ねません。自らより優れた人材を世に送ることがなければ、体現者として偉大であっても、指導者としては凡庸であるか、あるいは、どこかで間違えているのです。
真に効果的な実践体系は、偉大な体現者と優れた指導者の両方を数多く輩出するものです。
残念ながら、現実には、そういう実践体系などほとんど存在しません。例えば、サーカーの弟子にも、サーカーと同等あるいはそれ以上になった人はいません。
ならば、道を志す人は、複数の体系のいいとこどりをするよりほかはありません。ケン・ウィルバーはチベット仏教も、ACIMもやったようですよ。
強いて挙げれば、仙道には大きな可能性があると思われます。釈迦の人生とも縁があり、ヨガとも関連性が深く、師と弟子の関係はある程度流動的です。伝統的には、弟子が師のところに赴くのではなく、弟子が師を必要とする時に師が現れ、必要がなくなれば去っていきます。