cosmichistory @ ウィキ
«マルクス»
最終更新:
cosmichistory
-
view
社会に安定実装されている思想は思想として意識されません。例えば、何かを買
う時にはお金を払う、というのも安定実装されている思想ですが、もはや思想と
は呼ばれません。
う時にはお金を払う、というのも安定実装されている思想ですが、もはや思想と
は呼ばれません。
マルクスの思想はそういう思想の1つになりつつあり、アメリカ人も日本人も多
くは無自覚なマルクス主義者です。
くは無自覚なマルクス主義者です。
人類の思想史上のスーパースターの第1位をイエス・キリストだとすると、第2位
はマホメット、そして第3位はカール・マルクスでしょう。いずれの教えも民族
国家を超越しています。
はマホメット、そして第3位はカール・マルクスでしょう。いずれの教えも民族
国家を超越しています。
これら3人のスーパースターの共通点は、多いに誤解されていることです。
イエス・キリストは宗教の創始者でもなく、教会の創設者でもありません。桑の
木の挿話や「あなたの信仰があなたを癒したのです」という言葉にあるように、
彼は人間の中に眠る霊性や神性、あるいは主体性について語っています。神の王
国に入るには敬虔さを必要とするが、地上で何事かを成し遂げるには信仰 ― こ
れは、神への信仰ではなく、単なる信仰です ― さえあればいい、というのがキ
リストの教えでした。いうなれば、キリストは宗教家というより脱宗教家です。
木の挿話や「あなたの信仰があなたを癒したのです」という言葉にあるように、
彼は人間の中に眠る霊性や神性、あるいは主体性について語っています。神の王
国に入るには敬虔さを必要とするが、地上で何事かを成し遂げるには信仰 ― こ
れは、神への信仰ではなく、単なる信仰です ― さえあればいい、というのがキ
リストの教えでした。いうなれば、キリストは宗教家というより脱宗教家です。
マホメットはキリストの脱宗教的な教えをもっと体系的に展開しました。マホメ
ットの本来の教えでは、妻の姦通罪とユダヤ教時代からの伝統的な石打ち刑が成
立するには、3人の証人がいて、妻本人が罪を認めることを必要としています。
盗人に対する処罰は手の切り落としですが、盗人本人が反省すれば処罰を免れる
ことができるとしています。しかも、念入りに、「アッラーは何度でも赦したま
う」という言葉まで付け加えています。
ットの本来の教えでは、妻の姦通罪とユダヤ教時代からの伝統的な石打ち刑が成
立するには、3人の証人がいて、妻本人が罪を認めることを必要としています。
盗人に対する処罰は手の切り落としですが、盗人本人が反省すれば処罰を免れる
ことができるとしています。しかも、念入りに、「アッラーは何度でも赦したま
う」という言葉まで付け加えています。
マルクスも、「聖書は神聖だが、宗教はアヘンだ」とし、共産主義を標榜し、原
始キリスト教的な共有の社会を理想としました。
始キリスト教的な共有の社会を理想としました。
マルクスの『ヘーゲル法哲学批判序説』には、「宗教的悲惨は現実的悲惨の表現
でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。宗教は追いつめられた者の溜息
であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。それは人民
の阿片である」という宗教批判があります。彼の宗教批判は人間の霊性の否定で
はありません。また、マルクス・エンゲルス全集第40巻にある、「神が人類およ
び人間自身を最高たらしめる普遍的な目的をあたえたのであるが、神はこの目的
を達成しうるための手段をさがしもとめることを人間自身にゆだねた。神は、人
間にもっともふさわしい。そして人間が人間自身と社会とを最もよく高めること
ができるような立場を社会の中でえらぶことを人間にゆだねたのである」という
言葉は、地上世界における人間の主体性の認識という点で、キリストの考えとほ
ぼ同じです。
でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。宗教は追いつめられた者の溜息
であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。それは人民
の阿片である」という宗教批判があります。彼の宗教批判は人間の霊性の否定で
はありません。また、マルクス・エンゲルス全集第40巻にある、「神が人類およ
び人間自身を最高たらしめる普遍的な目的をあたえたのであるが、神はこの目的
を達成しうるための手段をさがしもとめることを人間自身にゆだねた。神は、人
間にもっともふさわしい。そして人間が人間自身と社会とを最もよく高めること
ができるような立場を社会の中でえらぶことを人間にゆだねたのである」という
言葉は、地上世界における人間の主体性の認識という点で、キリストの考えとほ
ぼ同じです。
キリストもマルクスも、人間の霊性の搾取者として宗教を批判しているのです。
そして、いわゆるニューエイジ運動というのは、反マルクス的ではなく、むしろ
マルクス主義の反宗教性の延長線上にあります。あるいは、マルクスは宗教の衰
退と個人の霊性の回復を予言したといってもいい。ニューエイジ運動や最近のス
ピリチュアリズムでは、人間の霊性は各個人の私的な案件であり、霊的な実践は
各人の主体的な裁量にゆだねられます。
マルクス主義の反宗教性の延長線上にあります。あるいは、マルクスは宗教の衰
退と個人の霊性の回復を予言したといってもいい。ニューエイジ運動や最近のス
ピリチュアリズムでは、人間の霊性は各個人の私的な案件であり、霊的な実践は
各人の主体的な裁量にゆだねられます。
宗教組織とは無関係に何かスピリチュアルなことをやっている人は、スピリチュ
アルなマルクス主義者です。
アルなマルクス主義者です。