2013.08.16
(あらかじめ云っておきますが、私は左巻きであり、もしも首相の地位にあるとしても、靖国には参拝いたしません。言論の自由が著しく制限されていた戦中において、徴兵された人々が靖国への合祀を望んでいたかどうかは不明であり、遺族会の会長であった時の古賀誠氏も、国立墓苑の設置を提言しています。この件で政治家は自らの心に従うよりほかはありません。私が戦中に徴兵されていたとしたら、私は決して靖国への合祀を望みません。ゆえに、私は靖国へ参拝いたしません。しかし、他の人が個人としてあるいは政体以外の何かを代表して靖国神社に参拝するのはその人の自由であり、政府や政体を代表してのという形を取らない限り、靖国に参拝する政治家を擁護し、同じく、参拝しない政治家を擁護します。)
終戦記念日であった昨日、安倍内閣総理大臣は靖国神社への参拝を避けました。
安倍内閣のハイポリティクスは前回も、そして今回も今のところ、支離滅裂です。従軍慰安婦問題ではアメリカと対立し、アメリカ議会から抗議決議を突きつけられるほど、日米関係を戦後最悪の状態にしてまで突っ張ったのに、終戦記念日の靖国参拝を取りやめるのは、行き当たりばったりの感が否めません。
戦後日本のハイポリティクスには大きな亀裂があります。先の大戦末期に政体があまりにも暴走してしまったため、外国から日本をどう守るのかという案件と、政体(の暴走)から国民をどう守るのかという案件が鋭く背反しています。
日本人は自らをどれくらい信用できるのか? — この疑問を解決できていないため、日本はハイポリティクスにおいてうまく意思決定ができません。
為政者である安倍氏にとっても、自らと自民党員をどこまで信用できるかよくわからない。進むべき方向に進み、止まるべきところで止まることができるかどうかわからない。だから、アメリカに進めと云われて進み、アメリカに止まれと云われて止まるのです。この慣行に従わない政権は長持ちしません。
晩年には失策が目立つものの、西ドイツ初代首相アデナウアーの口癖である「ドイツ人は信用できない」は的を射ぬく発言でした。ナチスを暴走させたドイツ人が自らをどう信用できるのか、それこそが戦後ドイツのハイポリティクスの原点だったのです。