DEEP RISING




(一)

 シェリーは白濁した霧の中を、泳ぐように走り抜けていた。回廊の床を叩く足音以外、何も聞こえない。
 腐った人間のうめき声や遠雷のような発砲音、時折混じる人々の悲鳴――喧騒と言う言葉では言い表せない、命が砕け散っていく音の数々。
 それらは、つい先ほどまで聞こえていた筈なのだ。怪物も何も、全ては霧の中に溶け込んでしまったというのだろうか。
 湖は、警察署から北東に存在していた。以前見ていた、ラクーンシティの地図にそう書いてあったはずだ。北の公園や西の動物園にも目を惹かれたものだが、パパやママが彼女を連れて行ってくれることはなかった。
 手を繋いで公園の森を散歩したら、どんなに気持ちよかっただろう。公園でなくてもいい。長い時間、一緒に居てくれるだけでもよかった。
 パパとママに会いたい。その気持ちは益々膨れ上がり、今にも胸が弾け飛んでしまいそうだった。息が苦しいのは、走り続けているせいだけではない。
 今、パパとママは一体どうしているんだろう。警察署にいない彼女を、ちゃんと探してくれているのだろうか。
 テレビに映る『家族』のように、ママは抱き締めてくれるだろうか。パパは抱き上げて、優しくキスをしてくれるだろうか。
 それとも――。
 シェリーは激しく首を横に振った。怖いことは何も考えたくなかった。大丈夫だ。ママは待ってくれている。
 後ろを振り返ると、水面から伸びて来ていた手は消えていた。まるで、夢か何かを見ていたかのように、僅かな痕跡すら残さずに。
 だけど、シェリーは足を止めなかった。おばけは、ただ隠れているだけだ。獲物が立ち止まるのを待っているに違いない。そんな企みなど、シェリーにはお見通しだ。
 回廊の先、ミルクを垂らしたような濃霧の向こうに、建物らしき影が見えた。意外と、この船は岸に近い所を漂っているらしい。もしかしたら、着岸しているのかもしれない。
 この船から抜け出せば、警察署に行ける。そこでならば、ママに会える。
 そのことを考えると、疲労で重くなってきていた足が驚くほど軽くなった。軽やかに、靴底が床を蹴っていく――。
 突然、シェリーの前方で水音が上がった。同時に、飛沫を纏った影が回廊に飛びん込んで来たのが分かる。ひた、ひた、ひたと、粘っこい足音が耳に入った。ゆっくりと、だが確実にそれは近づいてくる。
 シェリーは踵を返して、走り出した。あれは見てはいけないものだ。眼にすれば、きっと走れなくなってしまう。
 船の出口は遠のいてしまうけど、またぐるりと回ってくればいい。それだけでいい。あともうちょっとだけ我慢すればいいのだ。
 シェリーは手の甲で目元をぬぐった。駄目だと自分を叱咤する。
 ――パパとママに会うまで我慢しなくちゃ。
 また水音が上がる。今度は、すぐ近くだった。白い霧を裂いて、大きな影がシェリーの行く手に飛び込んだ。それはのっそりと立ち上がると、顔をシェリーに向ける。
 丸みを帯びた青色の身体から垂れた雫が。足元に水溜りを作っていく。それには目がなかった。にも関わらず、それはシェリーを補足していた。それは喉を震わせ、甲高く鳴き声を上げた。
 シェリーの悲鳴が、回廊を駆け抜けて行った。


(二)

 レオン・S・ケネディは、藤田と名乗った日本人警官の後ろを歩いていた。霧に包まれた湖畔は、驚くほど静かだ。
 ふとすると、自分がしっかりと地面を歩いているのかさえも実感できなくなる。幾度か、ブーツで地面を蹴って確かめた。
 視界だけでなく、聴覚や触覚までが霧によって遮られているような錯覚を覚える。
 ラクーンシティに湖はない。
 いやあることにはあるのだが、ヴィクトリー湖に訪れるには市街地から北東へ離れねばならなくなる。加えて、自分の車は、町の南西に続く道を走っていた。ラクーンシティに入ったのにも気づかずに市街地を走り抜け、道に迷って北東の山道まで行ってしまった。
 あまりに馬鹿げている。
 これから署に出勤して、遅刻の原因を正直に述べた所で相手にされないだろう。もっとマシな言い訳を考えろと言われるはずだ。道に迷わなくても遅刻だったことは、この際無視する。
 レオンは、先程行ってきたホテルを見上げた。大きな庭園の先に佇む建物は、もう霧の中で影としか映らない。
 最高の立地であろうに、この濃霧では台無しだ。豊かな水音に耳を傾けながら、テラスでワインを飲むと言うのも味気ないに違いない。
 しかしだからといって、濃霧で営業を停止するはずもない。それなのに、入口に立つボーイの一人どころか、ここから見えるホテルの影には照明すら灯っていなかったのだ。たった今乗り越えて来た門扉は固く閉ざされていて、何者の侵入をも拒んでいるようだった。
 まるで、打ち捨てられた廃墟のような佇まいだ。ただし、仮にそうだとしても、それはそれでおかしいことになる。そうであるならば、もっと荒廃していて然るべきだ。このホテルは、まだ綺麗なままだ。手入れされた芝生が何よりの証拠だ。
 また、ラクーン市長のマイケル・ウォーレンは町の発展に非常に執心と耳にしている。人の賑わう湖畔に佇む廃ホテルを、そのままにしておく理由もない。自然と縁が深い土地であるからこそ、そういった部分には気を配っているものだ。
 それに、ホテルといった施設は、市中央のアップタウンかダウンタウンに集められていた筈だ。湖の傍の豪奢なホテルなど、聞いたこともない。

 ――ここは、本当にラクーンシティなのか。

 根本的な疑念が膨らんでいく。違うとしたら、ここは何処になるのだ。霧にいざなわれ、異界へと迷いこんでしまったとでも言うのか。
 夕刻を過ぎ、辺りは夜闇に包まれようとしている。
 九月下旬の夜だ。これから気温は下がる一方だろう。霧が晴れるのは、夜明けを待つより他になさそうだ。視界が利かないせいだろうか。酷く落ち着かない気分になる。
 妙な想像に思考が向いてしまうのも、それで気弱になっているからか。まるで、ベッドの下に潜むおばけに震える子供のようだ。
 馬鹿馬鹿しいと、レオンはかぶりを振った。
 それでも、やはりホラー映画の一場面に取り込まれてしまっているような感覚は拭えない。現し世とは違う空気に肌が総毛立っている。
 生き物のように蠢く霧に包まれた町――。霧の中に浮かび上がる、子供の亡霊――。
 これは『這いまわる眼』というよりも、『ザ・フォッグ』の世界に近いか。
 この霧では、自分たちがどの方角に向かっているかすら分からない。霧の中をもがき、いつの間にか溺れて行く。そんな想像に陥りそうになる。
 前方を歩く、藤田の足音が止まった。いつの間にか立ち止ったレオンを訝しんだらしい。首を傾げて、藤田がこちらを振り返っている。

「なんか、カーペンターの『ザ・フォッグ』を思い出すよ。現実感がない。夢の中に居るみたいだ」

 一言詫びてから、苦笑と共にレオンは呟いた。その様子に、藤田は肩を竦めた。やれやれといった具合だ。

「それじゃ、ちゃんと足元は見ておかなくちゃな。『ざ・ふぉっぐ』が何か知らないけれど」
「結構古い映画だし、話も然程新鮮味もはなかったから記憶に残らなくても無理はないかな」
「映画、か。どんな話なんだい?」
「霧に町が覆われて、霧の中に住む亡霊に住民が殺されていくって話だよ。霧に覆われた町っていう状況が似てると思ってさ。そこは海沿いの港町だったけど。公開は80年だったかな」
「なんだ、言うほど古くないじゃないの。ま、暇がなかったからなあ。ってのも、言い訳か。そういうのを妻や娘と一緒に見に行く甲斐性でもあればよかったんだろうなあ」
「あの映画に、奥さんや娘さん連れて行くのはどうかと……」

 藤田ぐらいの年齢になると、十八年前も然程過去ではないらしい。
 話を聞く限り、藤田は家族と上手く行っていないようだ。とはいえ、あの手の映画を見せに行ったら余計に拗れてしまうだろう。他人事としてなら只の喜劇だが、本人にとっては大問題だろう。
 レオンが追い付くのを待ってから、また藤田は歩き出した。

「ところで、ケネディさん。ここはラクーンシティってところなんだよな?」
「そのはずだ。だけど……無責任なようで悪いが、自信が無くなって来た。もし、ここがラクーンシティなら、"S.T.A.R.S."が壊滅したっていうラクーンフォレストに近いことになるかな」
「すたーず?」
「ラクーン市警が擁する特殊部隊だ。都市型テロや組織犯罪を解決するために集めた、戦闘のスペシャリスト集団さ。とてつもなく優秀だって評判だった」
「ああ。そういうのなら警視庁にもあるらしいなあ。SAPって名前の」
「今、森近辺で連続猟奇殺人事件、及び不可解な行方不明事件が多発しててな。二か月前かな。調査に乗り出した"S.T.A.R.S."までが犠牲になってしまった。具体的な真相は公表されてない」
「行方不明、ねえ……。神隠し……」

 顎に手を当て、藤田が唸るのが聞こえた。

「どうしたんだ?」
「傍目から見たら、俺も神隠しに遭った風に見えるよな?」
「……そうだな。日本からボートごとアメリカへ流れついちまったなんて、普通は想像がつかないだろう」
「それなんだがさ。仮に俺が、いつの間にか潮流に捕まって漂流していたことにも気付かない大間抜けとしてもだ。俺がここに来られるはずがないんだよ。ここは内陸部だ。ラクーンシティであるか否かは別にしても、そいつは動きようがない事実だ。川でも逆流ししない限り、無理ってもんだな。それに、津波に呑まれたと言ったが、この通り。ちっとも濡れちゃいない」

 藤田が振り返って、制服を引っ張って見せた。
 彼は、自分が超常現象に遭遇したと言っているのだ。「X-FILE」で描かれているような事件の被害者だと。
 そういったオカルト話に胸をときめかせた時代は誰にでもある。世界は、まだ照らされていない未知の部分があると、本気で信じ切れていた。信じて、そしてそれに眼を惹きつけられていた。
 メアリー・セレスト号やバミューダ海域に、人並みに興味を持ったことはある。
 だが、やがて気付くのだ。未知の部分など、もうない。あったとしても、それは単に自分が知らないだけだ。それはつまり、知る必要がないということだ。そして、そんなものに執心する暇など何処にもないのだと。そんなことよりも大切なことは山ほどある。
 レオンはわざとらしくため息をついて見せた。つい先ほどまで似たようなことを考えていたからこそ、否定したかった。

「それで、神隠しか。宇宙人にでも連れ去られたとでも言いたいのか? 警察にあるまじき言動だよ、藤田さん。この世に完全な謎なんてもんは無い。絶対に何か理由があるもんさ。オカルトとされている事件だって、考えるのが面倒だから解決しようがない分野に押し付けているだけだ。それに、俺からすれば、あんたが嘘をついている可能性から考えなくちゃならない」
「ケネディさんは正しいよ。まったくだ。神隠しとされている事件なんて、不慮の事故に遭ったか、犯罪に巻き込まれたか、逃げ出したか。そのどれかだ。証拠が出てこないから、妙な憶測を持っちまうんだろう。理由だけなら、いくらでも思い付く。先入観に囚われるのは間違いだが、狐狸妖怪の仕業とするよかましだ」

 思いがけずあっさりと同意され、レオンは鼻白んでしまった。藤田は一つ大きく息を吸って、だけどなと付け加えた。

「そんな理由が思い付かない事件を、俺は知ってるんだ。俺が夜見島に向かったって話はしただろう?」
「……ああ」
「そこは、俺の故郷なんだよ。十年前、その島の住人が全員消えちまった」
「消えた?」
「そうだ。島に送電している海底ケーブルが切断された日、その一夜の内にな。太田のおやっさんや、そのお嬢さん。他の幼馴染たちも皆、綺麗さっぱりだ」
「ちょっと待ってくれ。全島民が消えたなんて話、聞いたことないぞ」
「そりゃ、あんたは外人さんだろ。日本の事件なんて知らなくて当たり前当たり前。夜見島住民消失事件って、日本じゃ結構騒がれたけどさ」
「………………」

 藤田は笑うが、レオンには納得がいかなかった。他愛ない事件ならいざ知らず、全島民が消えるなんて衝撃的な事件はアメリカにだって伝わるはずだ。
 それも中世なんて大昔でも、治安の整っていない第三世界でもない。つい十年前の、日本で起きた事件だ。自分が十一のときにそんな事件を耳にすれば、多分記憶に残っている。
 藤田は続けた。

「ボートに乗った小さい男の子が保護されただけで、あとは死体の一つも出てこなかった。よりによって、その男の子は記憶を失っていてな。結局、未だに何も分かっちゃいない」

 レオンは唾液を無理やり飲みこんだ。

「なあ、ケネディさん。一人なら分かるよ。一家族でも想像は出来る。だけど、一つの島に住む人間が一度に消えちまった理由は思い付くかな?」
「………………」

 レオンは黙ることしか出来なかった。藤田の眼差しから逃れるように、眼を伏せる。
 殺すだけなら、道具さえそろえば皆殺しというのは可能かもしれない。最初に脱出の足さえ奪ってしまえば、後は時間の問題となる。
 しかし、個人では無理だ。体力が持たない。相当数の人数が必要だろう。孤島とはいえ、完全に人が途絶えたわけではない。現に、事件はすぐに発覚している。ことは迅速に進んだのだ。
 組織ぐるみ。軍隊か何か、そうした手慣れた集団なら可能だろうか。
 だが、これは消失事件なのだ。殺人に繋がる証拠すら見つからなかったということだろう。
 死体はどうやって処分する。コンクリートを抱かせて沈めた所で、浮き上がって来てしまうものなのだ。埋めるにしても燃やすにしても、大掛かりな準備と手間がかかる。
 そして、そうした手間をかけて「神隠し」を演出する意図が見えない。殺人を誤魔化す必要がない。死体があろうとなかろうと、事件性は明白だ。
 それとも、警察捜査への挑戦状か。
 そんな酔狂な人間がいるものか。ましてや、組織ぐるみで。
 加えて、これらは可能かもしれないと言うだけで、荒唐無稽には変わりない。

「……あるとすれば、島民が自分たちの意志で出て行ったって真相かな。逃げなきゃならないような、そんな不味いことが起きた。そして、隣国に逃げこんだ。それぐらいしか、思い付かないな。だが、住民全員が逃げるぐらいなら、島ぐるみで事件を揉み消してしまった方がずっと楽だ。災害とかなら、それこそ現場検証で分かるはずだし」
「だろうな。太田家の人間なら、多分そうするよ。島から離れることを選択するはずもない」
「太田家?」
「島の網元だよ。ちょっとした殿さまみたいなもんさ。島のことは、全部太田家が管理している。特に人の生き死にはな。……殿さまと言うより、神官、祭祀って表現が一番近いかもな。俺も、父親の葬式で世話になったよ」
「……嫌な家なんだな」
「いやいや。少なくとも、常雄さんや娘のともえさんは面倒見の良い人だったよ。島外に対する……なんていうのかな、警戒心は強かったけれど」

 少し懐かしそうに藤田は顔を綻ばせた。

「話が逸れちゃったな。俺が言いたいのはさ、消えた人間ってのは別に消滅するわけじゃないってことだ。どこかに移動しちまうだけなんだよ。俺みたいにな。それで、その移動先ってのが、ここなんじゃないかってな。夜見島の連中も、ここに来たのかもしれないって、ふとそう思ったんだ」
「ラクーンシティが神隠しの移動先か。今頃、世界有数の大都市になってるだろうな」
「違うかもしれないんだろう? さっき自信が無くなってきたって言ったの、ちゃんと憶えてるぞ。ま、ちょっとした思いつきだからね」
「その“ちょっと”に、大分時間をつか――」
「――おい、ケネディさん。あれ……」

 皮肉の一つでも言おうとしたが、藤田の声に遮られた。藤田はレオンの肩越しに何かを見ている。振り向くと、霧の中に人が佇んでいた。
 黒髪に、青のツーピース姿――あの少女だ。暗闇に沈みつつある霧の中で、少女は浮き上がって見えていた。瞳には、やはり悲しみと苦しみを湛えている。

「……なあ、お嬢ちゃん。おまわりさんたちに何か用があるのかな? 言葉にしてくれないと、おまわりさんたちも困っちゃうんだ」

 この少女が煙のように消えたことを見ていたにも関わらず、藤田が優しく声を掛けた。彼は中腰になって視線を合わせながら、ゆっくりと近づいていく。
 その後ろに控えるようにして、レオンも歩みを進めた。ホルスターの銃把には手を添えていた。
 少女は、今度は消えなかった。だが、ある程度まで近づくと、霧の中へと駆けだして行ってしまった。
 藤田が小さく舌打ちする。行くぞと告げて、藤田は少女が走って行った方に走りだした。彼は意外にも俊足だった。レオンも、藤田の背中を見失わないように必死に地を蹴る。
 辿り着いた先は桟橋の入り口だ。逃げ道などないと言うのに、少女の姿は何処にもない。桟橋の先まで行ったのだろうか。霧のせいで全く見えないが。

「桟橋の先に遊覧船が泊まっているんだが、その中に入っちまったのかな……。そんなわけないか。幽霊が相手じゃ、やんなっちまうな」

 藤田が愚痴をこぼした。
 と、耳に入ってきたのは悲鳴だった。桟橋の先の方から、小さい女の子のか細い叫びが聞こえてくる。その声には、切迫した恐怖が含まれていた。
 あの少女のものかどうかは分からない。常ならば、そう考えるのが普通だが、消える人間が相手では違う場合も大いにあり得る。しかし、ただ一つ言えるのは、自分達以外にも人間が居るということだ。
 二人は桟橋を駆け抜けた。桟橋には、少し古めかしい遊覧船が停泊していた。少女の声は、この遊覧船の中から聞こえてくる。

「おまわりさんが来たぞ! もう安心だからな!」

 藤田の声を背中に聞きながら、レオンは遊覧船に踏み入った。客室のドアを開ける。藤田が懐中電灯で客室を照らし出すが、人影はなかった。自然な水音と共に少女の悲鳴が上がる。

「外だ、藤田さん!」

 レオンは叫んだ。
 慌ただしい足音が、回廊から湖へと抜けていく。少女の悲鳴はまだ聞こえている。それに混じって、カエルのような鳴き声も。
 外周をぐるりと回ったレオンの眼に飛び込んできたのは、顔を恐怖に引き攣らせ、立ち往生している金髪の少女――そして、囲むようにして彼女へとにじり寄っていく、カエルのような三匹の異形だった。
 毒々しい青色の肢体から水を滴らせ、互いを牽制するように鳴き声を上げる姿に、レオンは眩暈のような感覚を覚えた。藤田も同様に身体を強張らせている。
 確定した。ここはラクーンシティではない。アメリカですらないかもしれない。
 霧に包まれた町――。
 霧の中に潜む異形の者たち――。
 そもそも、これは――現実のことなのか。
 目の前で起きていることが、俄かに信じられなかった。少女の悲鳴が聞こえる。これもまた夢か――。
 レオンは唸るような息を吐いた。自分は警官だ。たとえ夢の中だろうと、市民を守るのが自分の務めだ。市民を守るために警官になったのだ。
 目の前に、脅威に曝されている少女がいる。相手は、言葉による説得は通じそうにない。ならば、やることは一つだけではないか。
 逃避したくなる衝動を噛み砕くように歯を食いしばると、レオンは銃を構えた。黒髪の少女がレオンたちを導いたのは、このためなのだろう。この金髪の少女を助けてほしい――と。

「動くなよ!」

 少女に一番近い怪物に向かって、引金を引く。胸部に銃弾を受けた怪物がよろめいた。構わずに、別の怪物にも銃弾を放つ。
 レオンとは別の銃声も響く。藤田だ。こちらに向けられていた怪物の背中に血の花が咲く。
 怪物が怒りの声を上げた。それに構わず銃弾を叩き込んでいくが、怯むだけで倒れない。藤田が毒づき、空薬莢が床に散らばる。
 しかし、少女からこちらに怪物の注意を移すことはできた。
 レオンの銃弾が怪物の頸部に突き刺さる。怪物はようやくもんどりうって倒れた。そうして生まれた隙間に、少女が身体を滑り込ませる。少女はこちらを振り返ることもなく、回廊を走って霧の中に紛れていく。

「あ、おい――!」

 すぐ傍の湖面で水しぶきが上がった。湖から何かが飛び出してくる。反射の発砲で宙にいた一匹を湖に叩き返すことに成功したが、一匹は船内への侵入を許してしまった。
 さらにもう一匹、怪物が飛び込んできた。銃声に引き寄せられたのか、数が増えているようだ。霧で姿は見えないが、水面から音や鳴き声が聞こえてきていた。

「藤田さん、追ってくれ!」

 再装填の終わった藤田に叫ぶ。

「分かった!」

 駆け出していく藤田の行く手を遮ろうとする異形に銃弾をお見舞いし、レオンはホールドオープンとなったVP70を投げ捨てた。代わりにブローニングHPを引き抜く――。
 突然、黄昏の余韻を喰い破るようにサイレンの音が響いた。

「な、何だ!?」

 レオンは上擦った声を上げた。
 深く伸びゆく不穏な音色が辺りを包んでいく。それは、謠のように空気を震わせ、霧を霜刃で裂いていくような鋭さがあった。臓腑の奥まで冷たい刃が刺し込まれていくように、肌が泡立っていく。
 しかし、レオンを戸惑わせたのはサイレンのせいだけではない。サイレンに合わせて、周りの風景が変化して行くのだ。
 柱と柵を錆が覆い、沈没船のような風体へと変わっていく。客室の窓ガラスはなくなり、壁は中の鉄骨がむき出しになっていった。
 そして、湖面が朱に染まっていった。血のように深く艶やかな朱だ。霧と湖面が不気味な紅白に分けられるも、それはやがて暗闇に沈んでいく。日暮れではあったが、あまりにも突然な変化だ。
 と、一際大きな水音が上がった。
 それと同時に、船が大きく揺れる。その直後、今度は突き上げられるように船体が跳ね、レオンは客室の壁に叩きつけられた。藤田と少女の悲鳴が聞こえた気がする。怪物の何匹かが、湖面へと振り落とされたのが音で分かった。怪物たちもまた、混乱したような悲鳴を上げている。
 藤田のうめき声が聞こえた。レオンは壁伝いに、藤田の声がする方へ走りだした。ライトの光が顔に当たる。翳した右腕越しに目を細めると、それが藤田だと分かった。彼は壁を背に、足を投げ出していた。

「足を、やっちまった。悪いが、ケネディくんが行ってくれ」

 歳は取りたかないと、藤田が自嘲する。
 放られた懐中電灯を左手で受け止めた。怪物たちの声と足音が聞こえる。
 あの怪物たちの動作はのろく、逃げるだけならそう難しくはない。しかし、足を負傷したとあっては捌き切れるものではない。藤田の拳銃はリボルバーだし、弾丸そのものも然程持ってはいなかったはずだ。
 逡巡するレオンに、藤田が顔を厳しくする。

「行くんだ。あんたが下らねえことを迷っている間に、あの女の子が怪我でもして見ろ。俺は絶対に赦しゃしねえぞ! 行け!」
「……すぐに戻る」

 銃口まで向けてくる藤田にそう言い残し、レオンは少女を追った。懐中電灯は、まるで幽霊船のようになった船を照らし出していく。のそりと立っていた怪物に銃弾を叩き込み、道を開けさせる。
 靴先が何かを蹴り、金属音が響いた。光を向けると、床に金色のペンダントが落ちていた。あの少女のものだろう。それを拾ったとき、えいという可愛い掛け声が耳に入る。乗船口の方だ。
 急いでそこへと向かう。怪物の存在を気にかけつつ、レオンは顔を桟橋の方へ向けた。
 おぼろげな電灯が桟橋を照らしていた。その中を小さな影が走っていく。怖い思いをしたせいだろう。少女は一心不乱といった様子に足を動かしていた。
 制止の声を掛けるか、レオンは迷った。あの怪物たちは水に潜んでいた。無理に立ち止まらせれば、返って危険な目に遭わせてしまうかもしれない。
 背後から、銃声が三つ聞こえた。
 ――自分が急いで追い付くしかない。
 入口についたレオンの眼に、湖面を泳いでいく巨大な影が映った。影はくねりながら少女の方へと迫っていく。

「急げ! あぶな――」

 轟く様な水音と共に、大きな水柱が上がった。そこから飛び出したのは真っ黒い、巨大な顎だった。ずらりと並ぶ鋭い歯が、仄明かりの中でやけに光って見えた。
 影が少女に覆い被さっていく。振動が、遊覧船を大きく揺らした。レオンは振り落とされないように、必死で柵に掴まった。
 その影が湖の中に引っ込んだ後、桟橋の上には何も残っていなかった。湖面に広がる水紋だけが、目の前で起こったことを報せる唯一の残滓であった。
 レオンは尻もちを突きそうになる身体を、慌てて支えた。
 巨大な顎に少女が吸い込まれていったのを、レオンははっきりと見ていた。
 少女の悲鳴が、まだ耳に残っていた。あと轟音の中で、聞こえた筈のない悲鳴だ。だが、上げていた筈だ。助けてと思っていた筈だ。
 それなのに――助けることが出来なかった。
 レオンは拳で壁を殴りつけ、踵を返した。藤田に合流しなければと、銃を下に保持して回廊を駆け抜ける。
 遊覧船を包み込む静寂に、レオンは胸騒ぎを感じていた。銃声は勿論のこと、怪物たちの声さえ聞こえない。自分の足音以外、何もだ。その足音さえも、闇の中に吸い込まれていっているような気さえする。自然と、鼓動が速まっていく。
 藤田が座り込んでいた場所まで戻ったレオンは茫然と立ち尽くした。
 何もなかった。藤田の姿も、あれだけ居た怪物の姿も全部消えていた。硝煙の臭いを微かに残して――。

「藤田さん!? どこにいるんだ!?」

 名を呼びながら、懐中電灯で客室を照らす。変わり果てた座席が並んでいるだけで、動くものは無い。何度も名を呼ぶが、返ってくるのは己の声の反響だ。焦りに口が乾いていく。
 船が大きく揺れた時に、誤って湖に落ちたのかもしれない。
 その考えに辿りつき、レオンは柵から身を乗り出した。懐中電灯で湖面を照らす。
 浮かび上がるのは、穏やかな赤い波だ。水面は、無関心にただただ揺蕩っている。
 回廊を移動して、何度も湖面に何か浮かんでいないかと探す。自分の荒い呼吸が、やたらと大きく頭に響いた。
 ちゃぷという異音を、ついにレオンの耳が拾った。音の方角へ、弾かれたように懐中電灯を向ける。
 湖面に、カエルの怪物が顔を出していた。その口からは男性の足がはみ出ていた。濃紺色のスラックスの裾も見える。それは、藤田が穿いていたものと一致する――。
 全身を駆け抜けたのは、度し難い怒りだった。レオンは銃を構えると湖面に向かって引金を引いた。怪物は既に、逃げるように水の中へ潜って行ってしまっていた。それでも、レオンは引金を引くのを止めなかった。
 小さな赤い水柱が湖面に五つ上がる。
 銃撃を止めたレオンは、よろよろと後退して床に座り込んだ。
 誰も救えなかった。少女も、藤田も。
 守れたはずだ。もっと上手く立ち回りさえすれば、別の結果になったはずだ。
 悔しさと情けなさに、レオンは身を震わせた。
 船が、下からの大きな衝撃と共に跳ねた。壁で強かに顔を打ちながら、少女を喰らった怪物の仕業だと直感する。おそらく、船底に身体をぶつけているのだ。
 湖面への銃撃で、遊覧船に獲物がいることに気付かれたのか。カエルの怪物たちが姿を消したのも、あの巨大な怪物から逃げるためなのかもしれない。
 あの怪物に何度も襲われては、この規模の遊覧船は一たまりもない。
 レオンは素早く立ち上がると、客室に飛び込んだ。座席の隙間を抜けて、一気に乗船口へと走る。再度の下からの衝撃に、船底が大きく悲鳴を上げた。
 座席で身体を支えていたレオンは、次の襲撃がある前にと足を速めた。客室を抜け、乗船口に出る。度重なる衝撃で、船と桟橋の間が少し大きく開いていた。
 一度大きく深呼吸して、レオンは桟橋へと飛び移った。そのまま間髪いれずに桟橋を疾走する。
 寒気が全身を襲った。怪物はレオンが船から出たことに気付いている。そして、襲いかからんとこちらに接近している――。
 それがなんとなく察知できた。
 袂はもう眼と鼻の先だ。水面を走る不穏な音も、不気味な振動も、レオンは意識から無理やり追い出した。そうしなければ、足が止まってしまうような気がしたのだ。
 大地を思い切り蹴り上げ、レオンは道路へと身を投げ出した。背後で大きな音が響き、振動で木々が揺れた。
 受け身を取って、アスファルトの上を転がる。肩越しに桟橋の方を見ると、仄明りの向こうで巨大な影が湖へと戻って行くところだった。
 身体を起こし、桟橋へと足を投げ出す。何も考えず、レオンは荒い呼吸を整えることに専念した。
 ふと気がつくと、あの黒髪の少女が正面に立っていた。桟橋の明かりを背負っているとはいえ、世界が暗闇に染まる中で彼女だけが浮かび上がっている。

「……君は誰なんだ? 俺に一体、何をいいたい? 何をしてもらいたいんだ?」

 少女は答えず、悲しそうに眼を伏せた。レオンは独白のように続けた。

「俺は……あの女の子すら助けられなかった。名前さえ知らない。ただ目の前で喰われるのを見ていることしか出来なかった。藤田さんだって、俺が見殺しにしたようなもんだ。ただの役立たずじゃないか!」

 堰を切ったように、言葉が肚の奥から溢れ出ていく。

「ラクーンシティへの配属を志願しただって? あの事件が、自分なら解決できるとでも思ってたんだろうな。だけど、現実はどうだ。小さな女の子一人すら救えない! この俺に何が出来るっていうんだ!? どうして俺の前に現れる!?」

 レオンは怒気を露わにして少女を睨みやった。ただの八つ当たりだ。人ではないかもしれないとはいえ、年端もいかない少女に噛みついている自分の惨めさに、レオンは少女から眼を逸らした。
 再び視線を戻した時、少女の姿はもう何処にもなかった。




【シェリー・バーキン@バイオハザード2 死亡】
【藤田茂@SIREN2 死亡】




【D-4/トルーカ湖/一日目/夜】
【レオン・S・ケネディ@バイオハザード2】
【状態】打ち身、頭部に擦過傷
【装備】ブローニングHP(装弾数5/13)、懐中電灯
【道具】コンバットナイフ、ライター、ポリスバッジ、シェリーのペンダント@バイオハザードシリーズ
【思考】
0:………………
1:人のいる場所を探して情報を集める。
2:弱者は保護する。
3:ラクーン市警に連絡をとって応援を要請する?


※トルーカ湖にハンターγとデルラゴが生息しているようです。
※リトル・バロネス号の船底にダメージが蓄積しています。何かの拍子で浸水するかもしれません。


【クリーチャー基本設定】


  • ハンターγ
出典:『バイオハザード』シリーズ
形態:多数
外見:二足歩行の、眼のない青い蛙
武器:両腕
能力:水中での戦闘を得意とする。弱った獲物を「丸呑み」し、即死させる。鋭敏な感知能力。
攻撃力★★★☆☆
生命力★★★★☆
敏捷性★☆☆☆☆ (水中時:★★★★☆)
行動パターン:水辺に潜み、近づいた獲物に襲い掛かる。
備考:
両生類の受精卵に人間の遺伝子を組み込んだ、ハンターシリーズの一つ。攻撃力、知能は他のハンターシリーズと遜色ないが、両生類の特異性が大きく出ているために水場でないと活動できない。
また、乾燥や直射日光にも著しく弱い。




  • デルラゴ
出典:『バイオハザード』シリーズ
形態:唯一存在
外見:全長20メートル近いオオサンショウウオ
武器:巨体を利用した体当たりと、両顎による噛みつき
能力:
攻撃力★★★★☆
生命力★★★★☆
敏捷性★★★★☆
行動パターン:水中に生息し、岸辺や水中にいる獲物を丸呑みにしようとする。
備考:
プラーガを埋め込まれたことによって巨大化。制御不能として、湖に封印されていた。
体力がなくなると、泳ぎが遅くなる。



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最終更新:2012年06月21日 21:20