錆びた穽




巨大な鋏を持った怪物から逃走し、うち捨てられたボウリング場に逃げ込んだマイケル・カウフマンは、渇きでいがらっぽくなった喉にイラつきながら、コインを入れても沈黙したままの自動販売機に心の中で舌打ちした。

うっすらと埃が漂うボウリング場には、現在自分を除いて二名が存在している。
一人は肥満体系の若者。ブロンドに青い目、典型的な白人。身なりからして低所得者。現在はピザにご執心で、その緩慢な動作はさながら怠惰の化身、畜舎で餌を貪る豚のようであった。
やや離れた椅子に腰を下ろしているのが、この辺りでは珍しいアジア系の少女。サイレントヒルでは見られない学校の制服を身に着けていることから、恐らく外部の人間と思われる。
少女はあどけない顔立ちを僅かに歪ませ、畜舎の豚よろしくピザを貪る若者を、嫌悪の入り混じった眼差しで見ており、二人の間には冷えた空気が漂っていた。

肥満の若者は見るからに役に立たなさそうである。カウフマンは迷わずアジア系の少女を“駒”に選んだ。
女というものは従属性が高い。ある程度分別のつく若い少女なら尚更である。手駒とするならうってつけだ。
それに万が一誰かと遭遇した際、弱者が傍にいれば警戒心を抱かれにくくなるだろう。
もし邪魔になれば、適当に言いくるめてその辺に放り出せば良い。

脳内で大まかなチャートを組み立て、アジア系の少女に話しかけようと自動販売機から踵を返したところ、それを待ち構えていたかのように少女が行動を起こした。

「あのぉー、オジサンってこの街の人ですか?」
「…そうだが、それが何か?」
「ホントに!?良かったー!ゼンゼン知らないトコで困ってたんですよー」

少女は手を叩いて喜んだ。この状況下でこのはしゃぎようは、その華奢な体に纏う制服が伊達ではないかと思えるほど幼く見える。
それとも、今時の若者というのは、昔とは違って開けっ広げに育っているものなのであろうか。
そういえば、制服は意図的に着崩しているようだし、厚みのあるぶかぶかの靴下を履いているし、ひょっとすると素行の良い方ではないのかもしれない。
まあ、それはこの際どうでもよろしい。

「…君は外国人か?」
「え?はい、そうです、日本人です。あ、ニホンって知ってます?ジャパンです、ジャパン」
「知っているよ。それで、どうやってここに?」
「実はあたしもよく解んないんですよねー。ヘンな話なんですけど、電車に乗るまでは確かに日本にいたんです。でも気がついたらこの街の駅に着いてて、降りてみたら血塗れの死体があって…そうだ!これってケーサツとかに届けた方が良いですよね?」

嫌な光景を思い出して怖くなったのか、少女はドングリのような丸っこい目を大きく見開き、潤んだダークブラウンの瞳でカウフマンを縋るように見上げる。
その横で、ピザを租借する青年の肩がぴくりと震えたのが視界の端でちらりと見えた。

どうやらこのアジア系の少女は日本人らしい。どうりでアメリカでは有り得ない格好をしているはずだ。
よく見れば、彼女の唇の動きは英語のそれとはまったく違うのに、カウフマンは彼女の言葉をきちんと理解できている。
そして、カウフマンの言葉を彼女もきちんと理解している。
一体どういう仕組みが働いているのか見当もつかないが、とにかく今は目の前の現実を冷静に受け止めるしかあるまい。

恐らく彼女がここに来た原因も、あの鋏を持った怪物が出現した原因と繋がりがあると見て間違いないだろう。
そして駅にあるという血塗れの死体とやらも、おおかたあの怪物の仕業と思われる。
異国の人間が瞬時に移動し、知りもしない異国の言語を予備知識無しで理解する――これも教団の仕業なのだとしたら、こんな異国の人間を呼び寄せて一体何のメリットがあるというのか。
見たところ、ごく普通の少女にしか見えないのだが。

「私はマイケル・カウフマンだ。君は?」
「岸井ミカです。あ、こっちだとミカ・キシイって言った方が良いのかな?」
「では、ミカ。これから警察署に向かおう。そこで君の身柄も保護してもらうといい」
「良いんですか?じゃ、ヨロシクお願いしまーす!」

とりあえず、カウフマンはこれからミカ・キシイを連れて警察署に向かい、街の状況を把握することに決めた。
早めに病院に戻りたいところだが、脱出してからほんのわずかしか経っておらず、まだあの怪物が居座っている可能性が高いからである。

「君はどうする?」

ピザを食べ終わった肥満青年に尋ねると、彼はびくりと肩を震わせ、「俺はいいよ」と心なしか強張った顔で答える。
彼がどうなろうと知ったことではないが、念のため役に立つ情報を持っていないか探ってから行くことにしよう。

「そうか。身を守る手段は持っているのかね?」
「え?あー…いや、別に。何で?」
「あんた外のジョーキョー知らないの?霧で辺りは見えないし、殺人鬼がウロウロしてるんだよ。マジでヤバイって!」

しかし、それを聞いても肥満青年の反応は鈍かった。信用に値しないと判断したのか、それとも己には関係の無いことと判断したのか。
彼の顔をよく見ると、そのどちらも的を射ていないと判った。
その不安定な眼球運動は、彼の精神状態が穏やかでなく、さらに洞察するならば、街をうろついている殺人鬼などよりも、もっと別の“何か”を恐れているようであった。

「…大丈夫かね?」
「い、いや、なんでもない。とにかく、外は危ないんだろ?なら俺はここでじっとしてるよ…」
「…何キョドってんの?顔、真っ青」

ミカの言う通り、肥満青年の顔色はすっかり血色を失っていた。
肌寒い空気にもかかわらず額には脂汗が浮かび、トマトソースがこびり付いた指はぷるぷる震え、焦点の定まらない目で「べ、別に」とうわごとのように呟いている。
――何かある。カウフマンの医師としての直感が働いた。“この青年は正常ではない”と。
医学的見地から、彼が抱えているであろうありとあらゆる可能性を頭の中に挙げていく。その中には――精神面の疾患も含まれている。

「あ。ひょっとしてさー、こんなトコにあるピザなんか食べたから当たったんじゃないのー?」
「う、うるさいな…ほ、ほ、ほっといてくれよ」
「それにマジで顔色悪いよ?震えてるし。病院行った方が良くない?人いるか分かんないけど」

肥満青年のただごとでない様子に、さすがに異常を感じたのか、ミカは怪訝そうに顔色を伺う。
もし彼が精神を患っている場合、扱いを間違えれば逆上する危険性がある。
これが自分の患者なら、拘束して個室に収容して然るべき治療を施すところであるが、生憎カウフマンに彼を治療する義務はない。
ミカの口から出た“病院”というキーワードに便乗して、彼を治療するという名目で病院へ引き返し、アグラオフォティスを回収するルートも魅力的だが、彼が精神的に不安定であることを考慮すると、これ以上は深入りしない方が良かろう。

冷静に決断したカウフマンは、青年を意図せず追い詰めているミカにストップをかけようとした。
だが、それを待たずして――視界に暗幕が下りた.


うおおおおおおおおおん…

降って湧いた暗闇の中、たたみかけるように大音量のサイレンが響き渡った。
岸井ミカにとって、サイレンなんてものは小学校の避難訓練以来久しく聞いていなかったが、この空間を支配するサイレンの寒々しさと禍々しさは、記憶の中にあるそれとは明らかに様子が違った。
まるで、そう――怪物かなにかの咆哮のようだと本能で感じた。

「な、何これ!?やだっ、何が起きてんの!?」
「う…うわ…何だよコレ、どうなってんだよ!?」

サイレンの唸りにミカ自身とエディーの裏返った声が混じり合い、場は騒然となった。
一体何が起こったのか、なぜ突然暗闇になったのか、もう頭はひっちゃかめっちゃかだ。
とにかく何でもいいから落ち着こうと無我夢中で深呼吸を繰り返すと、どこからともなく錆びの臭いが鼻を刺激した。
日が沈んだにしてはあまりに唐突過ぎる。照明が落ちたのかと一瞬思ったが、すぐに最初から点いてなどいなかったことを思い出す。
では、この暗闇は一体?逸島センパイなら、いつものように霊感を働かせて、この怪異を説明してくれるであろうか。

「落ち着け、落ち着くんだ!何か明かりになるものは?」

カウフマンと名乗るおじさんの言葉で、咄嗟に懐中電灯が頭に浮かび、急いでデイバッグの中を探る。

「…サイアク!こんな時に限って!」

目的のものが見つからず、思わず泣きそうな掠れ声の悪態が口からついて出た。
ここ最近は長谷川センパイが忙しいこともあり、探索の予定が無かったため、懐中電灯は家に置いて来てしまったのだ。
ちなみにエディーはといえば、ミカなどよりよっぽど情けない有り様で、もはや言葉にもならない泣き言を喚き散らしており、まったくもって頼りになりそうもない。

涙目でデイバッグを背負い直すと、漆黒の闇でぼうっとオレンジ色の明かりが灯った。ライターの炎だ。
オレンジ色の炎に照らされ、ぼんやり浮かび上がったカウフマンの彫りの深い顔に、ミカは心の底から安堵した。
どことなく冷たい印象を感じてはいたが、何だかんだで大人というものはいざという時に頼りになるものだ。

「あ~よかったぁ、真っ暗でどーしよーかと」
「そのままじっとしているんだ、良いね」
「は、はい…置いてかないで下さいよ~?」

カウフマンはライターを片手に、両手をあちこちに動かしながら壁の方へ少しずつ移動していく。
動くなと言われたので、とりあえず地面にしゃがみ込む。
足元を触ってみると、地面は明らかに塗装された床のそれではなく、ざらりとした手触りだった。
恐らく金属――そう、鉄骨と金網で構成されている。しかも、その下は明らかに空洞。そして、この周囲に漂う錆びの臭い――

――あたしたち、どこにいるの!?
全身の毛穴がぶわっと開き、ミカは思わず身を竦めて両腕で自分自身を抱きしめた。

けたたましいサイレンが鳴り止むと、暗闇は水を打ったように静まり返った。
ライターの明かりを中心に集まった三人は、すっかり全貌を変えてしまった『ボウリング場だったはずの場所』を、手探りで進むしかなかった。

衣擦れの音すらはっきり聞こえるほどの静寂の中、カウフマンを先頭に、ゆっくり慎重に前へ進む。
こんなに暗闇が怖いのは初めてだ。
以前、工事現場で発見された戦時中の防空壕に忍び込んだ時も、懐中電灯を落としてパニックになりかけたが、今はそれよりももっと怖い。
きっと、頼りになるセンパイたちが近くにいないせいなのだろう。
周囲にいるのは怖い顔した外国人のオジサンと、見るからに気の弱そうなデブである。
ちらりとエディーの方を見ると、恐慌状態から脱したようではあるものの、時々漏れる声音はまだ震えて裏返りかけており、神経が張り詰めているのが感じ取れる。
――頼りになるのはやっぱりおじさんだけか。
ミカは内心溜め息を吐きながら、オレンジ色の光と共に鉄臭い暗闇を歩いた。

『紳士淑女の皆様お待たせしました!“トリック・オア・トリート”の時間です! 』

突然、不気味なほどの静寂がノイズ混じりの陽気な楽器の音色によって木っ端微塵に粉砕された。
あまりに唐突な大音量だったので、思わず「うわっ」と驚きの声を上げてしまう。
斜め上の方向から聞こえるそれは、カウフマンがライターを向けると、壁に取り付けられたスピーカーから発せられる音声であることが分かった。
暗闇の中を場違いなほど明るい楽曲が支配し、あっけにとられる三人をリスナーに、男性の声音がご機嫌な挨拶口上を並べる。
和やかな音楽とパーソナリティーが紡ぎ出す異様な放送を、一同は固唾を呑んで聞き入った。

『さて、生きてこの街から出るにはどうしたらよいでしょう? 』
『生き残るための道は1つしかありません、1つだけ、他には全くなし』

――殺し合い。ラジオ放送は、クイズ形式の中にそんな“ルール”を匂わせていた。
否、匂わせていると言うより、これは説明に近い。そう、これはほぼルール説明だ。

ミカの背中が、正確にはデイバッグが、途端に重みを増した気がした。
原因は分かっている。――駅で見つけた、あの手帳だ。
あの手帳には、たった今放送されたのと同じ内容のメモとメッセージが記されているのだ。
そして、あの手帳が落ちていたすぐ近くには、恐らく持ち主であろう男性の成れの果て――

これがドッキリの類だったなら、呆れ果てるくらいタチの悪いジョークだ。
いたいけな女子高生を、グロテスクな死体とお化け屋敷のようなセットと頭のおかしいルールでビビらせようなんて、まったくもって悪趣味極まりない。

「おじさん、今のって…」
「…イタズラと言いたいところだが、この放送を信じる者がいた場合、イタズラでは済まなくなるだろう」

カウフマンの言葉がずっしり背中にのしかかり、ただでさえ不気味な手帳が一気に存在感を増す。
あの駅の死体――もしゲームに乗った者がやったのだとしたら、冗談ではなくミカも命の危険に晒されていることになる。
ミカは手帳の内容を確認するべく、何かを考えるように眉間に皺を寄せているカウフマンに声をかけた。

「あの、ちょっとライター貸してもらえます?」


エディー・ドンブラウスキーは、ライターの明かりの下で何やら手帳を広げているミカとカウフマンの後ろ姿を傍観しながら、ある誘惑と戦っていた。
腹の底では、今まで溜まりに溜まったどす黒いヘドロが、この暗闇に誘われるようにして、嵩を増やしつつあった。

「何コレ、ゼンゼン見えないじゃん!あーあ、やっぱり懐中電灯持って来れば良かったなあー…」

気落ちした様子でミカがデイバッグに手帳と地図を戻す。
あのちっぽけなオレンジの明かりでは、彼女が手に入れたとか言う手帳の走り書きも同封されている地図も、さっぱり読めないらしい。当然だ。

子供はどうも苦手だ。やたらと鬱陶しいし、声はキンキン頭に響くし、イライラすることこの上ない。
そして目の前にいる子供は、それに輪をかけて気に食わない。
あの目、あの俺を見る時の嫌悪と侮蔑に満ちた眼差しときたら、ここに来る前に撃ち殺した“アイツ”を嫌でも思い出す。
アイツだけじゃない。アイツの周囲にいた人間もそうだ。俺と会う連中は、まず真っ先に不快そうな目をするのだ。「何コイツ気持ち悪い」と。
見るだけならまだ良い。あの子供ときたら、そんな眼差しで、ただ飢えを満たしているだけの自分にチクチクネチネチイヤミをタレるものだから、苛立ちがさらにつのる。

それに、もう一人気に食わない人間がいる。ミカの隣にいるカウフマンだ。
この男は、表面上は常識人を装っているが、俺には分かる。
コイツが俺に対して抱いている感情が、その目の奥にオブラートで何重に包み隠していてもはっきりと見える。
――優越感だ!

仕立てのいいスーツと、磨かれた革靴。頑丈そうなジェラルミンのスーツケース。見るからにエリートである。
高学歴、高収入を絵に描いたような身なりの彼は、ガソリンスタンドでアルバイトをしているエディーとは別の世界に生きる人間であることが、ありありと見て取れる。
そして、自分の高い地位を自覚し、そして自分より劣る者を常に見下している。
出会った時から感じられた、養豚場の豚を見るような男の冷徹な眼差しは、生意気な日本人の子供が向ける同様のそれと合わさり、エディーの劣等感を刺激して負の感情をさらに蓄積させていた。

今、エディーの心の奥底では『ある誘惑』が自己主張を始めている。
それは既に、サイレンによってもたらされた全てを飲み込みそうな暗黒によって勢力を増し、エディーの体の一部を支配しつつあった。
右手に感じられる、今しがたスボンの腰から抜き取ったばかりの冷たい鉄の塊――実弾が込められたリボルバーの重み。
前方には、オレンジ色の光で暗闇の中にぼんやりと浮かぶ二人の姿。

やることは簡単だ。狙いを定め、引き金を引いて、二人の頭を鉛玉でブチぬく。それだけだ。
二人してマヌケな後頭部を晒している今は、それを実行する絶好の機会。あと必要なのは、度胸だけである。
やってしまえば後戻りはもうできない。この街を支配しているらしいイカレたゲームへ、本格的な仲間入りというわけだ。
何を躊躇うことがある?自分はもう、ここに来るまでに既に一度実行しているのだ。一人や二人増えたところで、何も変わらないではないか。
それに、この世界で生き残るためには、誰かを犠牲にしなければならない。生きるために精一杯の努力をして何が悪い?
――そう、躊躇うことは何一つないのだ!

エディーはリボルバーを持ち上げ、まずミカの後頭部を撃ち抜こうと狙いを定める。
しかし元来の臆病な性格が災いしてか、その度胸はまだまだ引き金を引くには弱く、次第に手が震えて焦りが脂汗と共に滲み出てきたところへ、ミカのデイバッグからいきなり「ピリリリリ」とアラーム音が鳴り始めたことによって、なけなしの度胸は即座に引っ込んでしまった。
暗闇のお陰で背後に隠したリボルバーは見られずに済み、心の中でほっと安堵の息を吐く。

「何だね?」
「あれー?あたしのポケベル、こんな音だっけ?」

ミカは首を傾げながらポケットに手を突っ込み、手のひらサイズの小さな端末を取り出して確認するが、「やっぱ違う」と言いながらポケットに戻した。
今度は背中のデイバッグに手を肘まで突っ込み、音源を捜して中をかき回す。
そうして見つかった問題の音源は、ライターの明かりではよく分からないが、ちょうど片手で掴めるサイズの包みらしい。
音だけでなく、ハエの羽音のような音と共に振動している。
包装を破って取り出してみると、それは数字と文字のボタンがずらりと並ぶ、折りたたみ式の端末だった。
異国の文字が綴られた小さな画面は淡い光を発しており、ミカのアジア人特有の童顔を青白く照らしている。

「これは…?」
「駅で手帳と一緒に拾ったんですけど…最新式の電話ですかね?」
「電話?これがかね?」

日本人は何でも小型化したがる傾向があると聞いたが、まさか電話まで小型化したのだろうか。
まあ、それはどうでもいい。先程は気が殺がれてしまったが、再びチャンスが到来した。
エディーは改めてリボルバーのグリップを握り、既にアラーム音が鳴り止んだ端末を弄り回しているミカの頭に標準を合わせる。
しかし今度は、物珍しそうに首を捻るカウフマンにミカが端末の画面を向けた時、彼女がカウフマンの背後にいた何かに驚いて「ひゃっ!」と悲鳴を上げたことによって中断された。

ミカが悲鳴を上げたその直後、カウフマンはその場から消えた。

「つぅうぅぅかぁあぁあぁまぁああぁえぇぇたああぁぁあぁ」


その時岸井ミカの目に写ったのは、2メートルを軽く超えようかという巨大な芋虫のような化け物が、でっぷりとした胴体に生えた、その巨体にはおおよそミスマッチな細長い腕で、カウフマンを抱き込もうとしている姿であった。

「ひゃっ!」

思わず悲鳴を上げた直後、その芋虫の細長い腕がカウフマンの腰に絡まり、白人の成人男性の体がいとも容易く宙に浮く。
その勢いによりカウフマンのライターが手から零れ、金網の床に落ちてエディーの足元に滑り込む。

「つぅうぅぅかぁあぁあぁまぁああぁえぇぇたああぁぁあぁ」

芋虫の頭に付いている人間の顔が歓喜の声を上げる。
ミカは一体何が起こっているのか理解できず、混乱のあまり足をもつれさせて尻餅をついてしまった。
それでも光る端末は手放すことができず、画面の青白い光が、芋虫の化け物に振り回されるカウフマンと、拳銃らしきものを持ってたたらを踏むエディーの姿を断片的に照らし続ける。

自身に何が起こったのか理解できなかったのは、怪物の抱擁によって宙に浮いたマイケル・カウフマンも同様であった。
ミカが駅で拾ったという機械の端末の、異国の言葉で綴られた文面を観察していた最中、突然腰に何かが巻きつき、凄まじい力で持ち上げられたのである。
しかし腹部を強く圧迫される痛みと内臓が口から飛び出そうな嘔吐感のお陰で、自身が危機に瀕していると即座に判断できた。
不気味な歓喜の咆哮をあげる怪物は、病院で襲ってきた鋏男とは別の個体のようだ。
アグラオフォティスを使っても同様の効果が得られるのかは不透明ではあったが、この状況では考える余裕などはない。
あの時と同じ効果があることを信じ、カウフマンは腹部を押し潰されそうになりながらも、手に忍ばせていたアグラオフォティスの小瓶の蓋をなんとかこじ開けた。

カウフマンが突然現れた巨大な人面芋虫によって振り回される様は、エディー・ドンブラウスキーに渦巻いていた劣等感と殺意を一気に吹き飛ばした。
吹き飛んだ劣等感と殺意の代わりに頭の中を埋め尽くしたのは――恐慌であった。

「う、うあ、ああっ…!」

もはや何をどうすればいいのか分からない。今のエディーにとって、恐怖から身を守る手段は、右手に持つリボルバーしかなかった。
嗚咽を漏らしながらリボルバーの銃口を怪物に向け、まともに照準を合わせないまま引き金を引いた。

ドン、ドン、ドン…

数発の重い破裂音が暗闇に響き渡る。
男の呻き声と怪物の苦しげな咆哮が混ざり合い、そして重いものが落ちる音が響いた後、騒然とした空気は一瞬のうちに静寂へ回帰した。


「お…おじ、さん…?」

寒々しい静寂に耐えられず声を発したのはミカだった。しかし、その呼びかけは闇に虚しく吸い込まれるのみである。
身を守るように頭を抱えていた両腕を解き、恐る恐る端末の画面をカウフマンがいるはずの空間に向けるが、そこには金網の壁が浮かび上がるばかりだ。
画面を右へ左へ傾け、そして床へ向けた時、ようやくカウフマンの胴体が浮かび上がったのだが――

「ひっ!?」

カウフマンの顔は、頭から溢れるどす黒い液体で真っ黒に染まっていた。
黒い液体は青白い皮膚の上で幾筋もの川を作り、光を失った目の脇を流れ、そして下敷きになったまま動かない芋虫の怪物の上に血溜まりを作っている。
彼の惨状は駅で初めて見た人間の死体を脳裏に蘇らせ、それと重なり合って激しい戦慄と悪寒が全身を支配した。

「う、ウソ、ウソでしょ?」

血の気を失ったミカの唇は冷凍庫の中にいるかのように震え、うわごとしか紡げない。全身は氷のように冷え切って石のように硬直し、呼吸もままならない。
恐怖で見開いた大きな瞳は凍りついたまま瞬き一つできず、しばらくカウフマンを呆然と見つめていたが、やがてゆっくりと視線が外れ、この状況を作り出した人間――エディー・ドンブラウスキーに辿り着いた。

「ち、ちが、お、お、俺じゃねえ、俺は…」

彼の足元に転がったカウフマンのライターの炎は弱々しくも燃え続けており、そのオレンジの光が、エディーの引き攣った表情を照らし出している。
極限の状態で言葉すら忘れてしまった今のミカに、エディーを非難する気力などは毛頭なかったのだが、彼はその視線に耐えられなかった。
その黒目がちの目が、どうしても自分を責めているように見えてならなかった。

――このグズめ!能無しめ!役立たずめ!
――なんてことをした!なんてことをしてくれた!
――お前が殺した!お前が殺してしまった!

聞こえるはずのない大勢の罵声が、暗闇の中から脳内へ洪水のように押し寄せる。
最初に人の命を奪った、あの時のように。

――こ の 人 殺 し ! !

「うるせえええええええええっ!!」
「きゃああああああああああっ!!」

二人の絶叫が、暗闇に木霊した。


暗闇の中、少女が淡い光を発する端末を縋るように握り締め、冷たい金網の床の上で震えながら蹲っている。
出会った頃は天真爛漫に振舞っていたはずの彼女が、そのあどけない顔立ちを硬く強張らせ、健康的だった肌色を死体のように真っ青にしている姿は、彼女を知る者が見れば青天の霹靂かと思ってしまうであろう。
しかし今、この場に彼女を知る者一人もおらず、巨大な芋虫に細長い手足が生えたような怪物の死骸と、先ほどまでマイケル・カウフマンという人間だった者の抜け殻が転がるのみである。

エディー・ドンブラウスキーという若者は、あの堰が切れたような凄まじい絶叫の後、ミカに向けてリボルバーの弾丸を全て撃ち尽くし、意味不明なことを喚きながら何処へと走り去っていった。
今蹲って震えている少女、岸井ミカはというと、銃弾には被弾したものの、暗闇が幸いしてか腕を掠っただけで済んだ。
そしてエディーが走り去った今は、御覧の有り様だ。

ミカにとって、それまで怠惰にピザを貪っているばかりだった青年が、人を殺したことによって豹変してしまった姿は、驚きでもあり恐怖でもあった。
その恐ろしさときたら、血走った目が暗闇の中で赤く光って見え、この世のモノではない、鬼か何かにすら見えたほどだ。
今となっては、残りの弾薬で撃ち殺されずに済んだという幸運だけが唯一の救いである。

「…センパイ…」

嫌がりつつもミカのワガママに付き合い、いざという時はミカのために奮闘してくれた凛々しい少女。
最初は邪魔なだけと思っていたけれど、常にミカたちを脅威から守り、最善の道を教えてくれた優しい少女。
孤独に震えるミカの脳裏に、信頼する二人の上級生の顔が浮かんでは消える。
しかしいくら名前を呼んでも、かつてあるはずの無い電車のホームを探検した時のように、彼女たちがミカのために駆けつけてくれることはない。
一人は意識を失い、もう一人は命を失っているのだから。

「助けて…」

傷ついた体を抱えて吐き出されたミカのSOSは、無限の闇の中へ溶けて行くのみであった。



【マイケル・カウフマン@サイレントヒル 死亡】

【B-5ボウリング場跡/一日目夜】
【岸井ミカ@トワイライトシンドローム】
 [状態]:腕に掠り傷、極度の精神疲労
 [装備]:特になし
 [道具]:黄色いディバッグ、筆記用具、小物ポーチ、三種の神器(カメラ、ポケベル、MDウォークマン)
 黒革の手帳、書き込みのある観光地図、携帯電話、オカルト雑誌『月刊Mo』最新号
 [思考・状況]
 基本行動方針:センパイ達に連絡を取る。
 1:どうしよう、誰か助けて!
 2:気持ちが落ち着くまでじっとしている。
 ※90年代の人間であるため、携帯電話の使い方は知りません。

【B-5ボウリング場付近/一日目夜】
【エディー・ドンブラウスキー@サイレントヒル】
 [状態]:健康、殺人によるパニック状態
 [装備]:ハンドガン (0/10)。
 [道具]:特になし
 [思考・状況]
 基本行動方針:とにかく一人になる。
 1:とにかく誰もいない所に行く。
 2:一人になりたい。
 3:誰かに会いたくない。
 ※サイレントヒルに来る前、知人を殺したと思い込んでいます
 ※覚醒フラグが立ちました


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彼らは時と場所を越えて此処に集う 岸井ミカ テレホンコール
彼らは時と場所を越えて此処に集う エディー・ドンブラウスキー 猫歩肪当(猫も歩けば棒に当る)
彼らは時と場所を越えて此処に集う マイケル・カウフマン 死亡

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最終更新:2012年06月21日 21:19