羽生蛇村異聞 第三話・外伝『理尾や丹』――隙間録・吉村俊夫編



吉村俊夫 / 大字波羅宿 / 耶辺集落 / 1976年 / 6時00分11秒




何処からか聞こえてくるサイレンに、じわりと不安が掻き立てられていく。




――――気を失っていた。
気怠い微睡みの中で、吉村俊夫はそう認識していた。
何処か息苦しい目覚め。頭の中でサイレンが反響している。微睡みは徐々に意識としての形を成していく。
纏まりつつある意識が感じ取るのは、辺りの様子への違和感だった。
微かな風が、湿った衣服を撫でていた。
その度に走る寒気。体温の下がった身体は肌寒さで震えていた。
泥の臭いが間近に感じられた。
背中に接している感触は冷たく、僅かに泥濘んでいた。

――――何故。
自分は今、何処に倒れている。
答えを求める意思に、瞼は薄く開かれる。
白く、霞む世界。霧。恐ろしい程に深い霧が辺りを包んでいた。
霧を透した向こうに流れているのは、灰色の煙――――いや、あれは雲か。見えているのは、曇天の空。
外だ。自分は今、外にいる。濡れた地面の上に、仰向けに倒れている。
身動きを取れば、鈍い痛みを全身に感じた。
何故痛む。何故倒れている。一体、自分の身に何が起きたというのだ。

気怠さと鈍痛を押し殺し、俊夫はゆっくりと上体を起こす。
泥に濡れた身体。気色の悪さに顔を顰め、視線を上げれば、彼の家が前方にあった。その家もまた泥に塗れ、若干の損壊すら見せていた。
愕然としつつ、覚醒し切れぬ頭で昨夜の記憶を一つ一つ遡る。
夜中に――――大きな、地震があった。それは覚えている。
土砂崩れを懸念して、緊急避難場所に指定されている教会に車で避難しようとしていた事も。
元々俊夫と、妻である吉村郁子の住む耶辺集落一帯は、土砂災害の可能性を指摘されていた地域だ。
この数日の豪雨で地盤が緩んでいる恐れもあり、危険性は更に増していた。
――――そうだ。
俊夫と郁子は、産まれて間もない我が子らを抱えて、万一に備えて避難しようと表に出た。
そして、双子を抱いた郁子が助手席に座るのを手伝い、俊夫自身も運転席に回ろうとしていた、その時。

「…………土砂……崩れだ……」

俊夫の脳裏に蘇る、恐ろしい記憶。
耳を劈く凄まじい轟音と、何もかもを覆い尽くす巨大な黒い影が、容赦無く俊夫を呑み込んだ筈なのだ。それなのに、何故。

記憶の全てが思い出されるのを見計らった様に、響き続けていたサイレンが木霊を残して消えて行く。
取ってかわる様に聞こえてきたのは、俊夫の最も大切な者の声だった。
この数週間の悩みの種でもあり、同時に喜びでもあった、赤子達の泣きじゃくる声――――。

「…………っ! 郁子っ!」

声は彼の後ろからだった。
首を捻れば、ほんの数メートル先に、やはり泥に塗れた彼の自家用車の後面部が見えた。
俊夫は立ち上がった。身体の痛みなど忘れていた。
助手席に確認出来る、妻の姿。
慌てて車に駆け寄りドアを開けば、郁子は鈍い動作で虚ろな瞳を俊夫に向けた。
彼女もまた、目覚めたばかりなのだろう。一見では怪我をした様子は無い。

「大丈夫か?」
「……私は、平気。たかちゃん達も。俊夫さんこそ怪我はないの?」
「ああ、ちょっと痛むけど大したことないよ」
「……でも……何で私達助かったの? あんな、雪崩みたいな土砂が降ってきたのに……」
「……分からないよ。でも、あれは多分夢なんかじゃない。……家も、駄目みたいだ」

振り返り、損壊した我が家を見るなり、郁子の顔は青ざめた。
恐らくは、先程の俊夫も彼女と同じ様な顔をしていた筈だ。
暮らしていたのはたったの数年。それでも確かに彼等二人の安らぎがあった場所。
子供達も生まれ、これからの未来図を描いていた場所だった。――――それが、失われてしまうかもしれないのだから。
予測されていた災害が実際に起きてしまった今、暫くの間はこの地域に戻って来る事は難しいだろう。
この先、子供達を育てていかねばならないというのに、住む家が無くなってしまってはどうにもならない。
これからの事を考えてしまえば、やり切れない思いばかりが胸の奥底まで広まっていく。

――――ふと田堀の実家の事を思い出す。
田堀は、彼等二人の両親が住んでいる地域だ。
こうなってしまっては、当面はどちらかの家に厄介になるしかないだろう。
ただ、田堀もまた、波羅宿程ではないが土砂災害の危険性を疑われていた地域だった。
あちらは、無事なのだろうか――――。また一つの不安が広がった。

「……ねえ。お父さん達、大丈夫かな?」

どうやら同じ様な事を連想していたらしく、郁子の表情は硬い。
せめて、彼女の不安だけでも取り除きたい。俊夫は、無理に微笑んだ。

「あっちの方はきっと無事だよ。今頃みんな教会で俺達を心配して待ってるんじゃないか?」
「……そうよね。……みんな大丈夫よね」
「とにかく、教会に行こう。余震が来たら今度こそ危ないかもしれない」
「うん。この子達も早く安全な場所に連れてってあげなきゃね」

俊夫は車のドアを閉めると、窓越しに見える郁子達の姿に目を細めた。
未だ泣き止もうとしない赤子をあやそうと、妻は二人を抱え直していた。
守るべき家族。新米の父親だが、果たすべき義務は分かっている。
自分がしっかりせねばならないのだ。弱音を吐いては、いられない。
俊夫は最後に一度、壊れかけた家を一瞥し、燻ぶり続ける暗い思いから目を背けて運転席へと移動する。

――――と、その俊夫の目に止まったものがあった。
車前方の霧に紛れる一つの影。今までは気が付かなかった影だ。いや、そもそもあの場所に、影などあっただろうか。
乳白色の霧の中で、影は揺らいでいた。揺らぎながら、徐々に近付いてくる。
それが人影なのだと理解するまでには、数瞬を要した。
そして、それが知り合いのものだと判別出来るまで、更に数瞬――――。

「……川崎さん?」

それは、つい最近までこの集落に暮らしていた男だった。
救助に来てくれたのか。一瞬はそう思った。
しかし、男の様子がおかしい事に、俊夫はすぐに気が付いた。

死人の様な灰色の肌。
気でも触れたかの様な不気味な笑み。
目から垂れている赤いものは、血液なのだろうか。
その手に持つ鍬で、一体何をしようとしている。

戸惑いながらも、俊夫は男へと数歩だけ足を踏み出し、もう一度声をかけた。
しかし男は俊夫の言葉に反応するでもなく、突然獣の遠吠えの様な奇声を上げた。

「川……崎、さん……?」

人間味のまるで感じられない声。
常人とは思えぬ異常な容姿と行動に、胸中には漠然とした恐怖が沸き上がる。
男は、本当に気が触れてしまっているのか。
車内の妻に目を向ければ、彼女もまた強張った表情を浮かべていて――――その顔が、驚愕のものに変わる。
彼女の見ている、先――――視線を前に戻した俊夫の口から、小さな悲鳴が漏れた。
男は不気味な笑みを携えたまま、鍬を振りかぶっていたのだ。
そのまま俊夫を目掛けて振り下ろされる鍬。突然の事に、よろける様に後退りをするのが精一杯だった。
足から僅か数センチ先の地面が錆び付いた刃先に抉り取られ、泥が飛び散った。
三歩も下がらぬ内に、身体がボンネットにぶつかった。これ以上、下がれない。だというのに、再び鍬は高く振り上げられた。

「やめ、てくれ!」

叫び声を上げながら、俊夫は身を捩っていた。
空気の切り裂かれる音が耳のすぐ横を通過する。直後にボンネットに叩き付けられた鍬の刃先が、辺りに鈍い金属音を響かせた。
妻の悲鳴が上がった。子供達の泣き声が増した。
その声に気を引かれたのか――――男の灰色の顔が、車内の三人を覗き込む。そして――――。

「ヒッ……ヒヒ……!」

薄気味悪く引きつらせた顔を、一層醜く歪めた。
郁子達を狙っている――――悍ましさに、背筋には悪寒が走った。
しかしそれ以上に、頭には血が上っていた。顔がかぁっと熱くなり、無意識に身体は動いていた。

「やめろぉ!」

男の身体を両手で突き飛ばす。
腕力に自信などは無い。しかし男は存外に呆気無く地面の上を転がった。
今の内に逃げなくては。動転する気持ちを抑えつけながら、急いで車に乗り込みエンジンをかける。
発進させた車のバックミラーの中で、立ち上がった男の姿が小さくなっていった。

「なんなの……? なんなのあれ!?」
「分からないよ! 正気じゃなかった!」
「川崎さんどうしちゃったの!? どうしてあんな事するのよ!?」
「知らないよっ! 分からない! だから正気じゃなかったんだって! あの顔見な――――」

そして――――それには、何の前触れもなかった。
興奮気味の二人の会話を遮ったのは、走行する車のすぐ前方に降りてきた、強い輝きを放つ一本の光。
避けられない。反射的にハンドルを切る余裕も、叫び声を上げる暇も無かった。
ただ強い焦燥だけを抱いて、俊夫は眩い光の中に突っ込んだ。
激突の衝撃は無かった。――――その筈だった。
しかし、車体は光に捻じ曲げられる様に歪んでいく。その振動が俊夫の全身に伝わっていく。
シートベルトをしていなかった俊夫の身体は前のめりに浮き上がり、ヒビ割れたフロントガラスを音もなく突き破った。








それは、ほんの一瞬の出来事の様に感じられた――――。

車外に飛び出した直後、俊夫は極彩色の世界に包まれていた。
幾多もの光彩が、身体の中を通り抜けていく様な奇妙な感覚。
自身がどういう状況にあるのか何も分からない。見える物は、様々な彩りの移り変わりのみ。

それは、ほんの一瞬の出来事。
しかし同時に、その一瞬が永遠まで間延びした様でもあった。
俊夫は輝きの中で、一瞬と永遠を同時に感じていたのだ。

一瞬と永遠。交錯する時の狭間で、俊夫は確かに見た。
移り変わる彩りの中に、唯一変わらぬ光が在る。
眼前の光景を二分するかの様に、天より降りる、一筋の真っ白な光の柱。
それはまるで、数日前にも村で観測された光柱(ひかりばしら)現象そのものだった。
或いは、たった今俊夫の車が飛び込んだ光そのものの様に思えた。
唯一異なるのは、光柱の遥か上部に見えるもの。
そこには、太陽の様に一際強く輝く光があった。
そこからは、細く、長く、巨大な腕が生えていた。
二本ずつ。光柱を中心に、左右に対となり。合わせ鏡の様に果てしなく重なって。
それ自身が光を放ち、生物のものとは思えぬ光沢を帯びて――――。

それは、ほんの一瞬の事。
同時に、永遠の事。
光柱との距離は、段々と狭まっていく。
近付いているのは俊夫の方か。光柱の方か。それすら分からないが。
光柱の始まりの場所。上方の強い輝き。その中より落ちてくる物質があった。
初めは小さな点の様な大きさ。それは次第に、人の首程の大きさにまで広がっていく。

――――不意に、一つの幻覚が、その物質に重なって見えた。

巨大な生物が、見えていた。
落ちてくる物質とは、それの首部分の様だった。
神々しさと、禍々しさを併せ持つ、巨大な生物。
昆虫の様な、海洋生物の様な外形をした、巨大な生物。

怪物。
それが、近付いて来る。
無機質な瞳で俊夫を見下ろし、光の柱から降りてくる。
その光柱も、もう目の前だ。柱からの輝きが、完全に俊夫を包み込もうとしていた。
極彩色の世界が、薄まっていく。ただ一色の白が、世界を塗り替えていく。
頭の中でサイレンが鳴っていた。
いや、それは怪物が鳴いているのか。
しかし――――既に怪物のその姿も光に遮られていた。
怪物が何処まで近付いて来ているのかも、俊夫には見えない。
光の中で、サイレンだけが聞こえていた。

それは、ほんの一瞬の出来事の様に感じられた――――。







その、「一瞬の出来事」の後――――。
俊夫の身体は暗闇の中空へと放り出されていた。
すぐ下には一台の車が走っている。
為す術もなく、俊夫は車に激突し、地面に転がった。
何が起きたのか。俊夫がそれを考える事は一切無かった。
彼の思考は、あの一瞬に見た化け物への戦慄で覆い尽くされていたのだから。

来る。

そのイメージだけが、俊夫を支配していた。
妻の事も、子供達の事も、その最期の時ですら――――彼の脳裏には蘇りはしなかった。




【吉村俊夫@SIREN 1976年時の現世の羽生蛇村に帰還】













舗装されていない、刈割へと続く泥濘んだ田舎道。
刻まれたタイヤ痕は、不自然に途切れている。
車の代わりに残された物は、一つの小さな肉の塊。
御神体――――村で崇められている神の象徴が、ひっそりとその場に佇んでいる。

神の首は帰還した。
とある力の干渉を受け、異なる世界に引き込まれながらも。
因果律の理に導かれ、うつぼ舟も、白髪の女も必要とされない時と場所に。
一瞬と永遠の交錯する、もう一つの虚母ろ主に。
運命の双子を、牧野怜治と宮田涼子の元へと届ける流れの中に――――。





この日、もう暫くの時を置いて――――この異界に元より存在していた神の首は、志村晃一の手により焼き払われる。
しかし、首は決して失われる事は無い。
既に、「戻って来ている」のだから。
未来も過去もない、閉ざされた世界。
何物の意志でもなく、因果律の理に因り、歪な旋律を繰り返し刻む不安定な世界。
首は、ここにある。
この世界の求導女に拾われ、現世に帰るその時まで。
御首は、ただ静かに、ここにある――――。




【堕辰子の首@SIREN 1976年時の異界化した羽生蛇村に帰還】




――――Continue to SIREN












これは――――。
もしも宮田司郎がもう暫くの間、あの『空間』に留まっていたならば、見届ける事の出来た筈の彼の過去の『映像』。
宮田司郎の頭の片隅に常に在り続けている、選ぶ事さえ許されなかった運命の分岐点。

雛城高校の地下に生まれたのは、入った者の心の奥底にある無意識を反映する『空間』だった。
かつて、アレッサ・ギレスピーの創り出した異世界に侵食され、人々の潜在意識を具現化する巨大な触媒へと変貌を遂げたこのサイレントヒル
その時と同質の変貌がこの場所に起こったのは、アレッサ・ギレスピーの訪れに因るものなのか。
それとも――――。





何れにせよ、宮田司郎が立ち去ると同時に二十七年前の『映像』は薄れ行く。
やがて光は姿を隠し、映し出されるものは何もない。この『映像』を見た者は誰もいない。
『空間』は、ただ静かに、そこに在る――――。





※雛城高校の地下に「入った者の心の奥底にある無意識を反映する空間」が存在しています。
 宮田の見た、二十七年前の羽生蛇村の映像は消滅しました。





【光柱現象@SIREN】
堕辰子が降臨する前兆として観測される現象。
SIREN本編では、奈落へと落ち、御神体が求められる全ての時代へ向かう存在となった八尾比沙子が降臨する際に発生していた。
しかし、1976年の儀式が行われる(村が異界化する)数日前に現世の羽生蛇村でもこの現象が観測されている事から、
光柱現象=八尾比沙子の降臨という訳ではない、と思われる。




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最終更新:2013年05月16日 20:44