The Others




(一)

 ベッドには若い白人女性が横たえられていた。二十歳前後だろうか。金髪のかかった顔は少女のような幼さも伺えた。
 死斑の表見は弱いが、軽く押しても分散しなかった。筋肉は完全に硬直している。少なく見積もっても、死後一日近くは経過しているだろう。
 身に着けたライダースーツは血まみれで、ラクーンなる大学のロゴの大半を塗りつぶしていた。
 死因は、失血性ショック――刃物で斬りつけられた様な深い傷が四本、肩口から背中にかけて刻まれている。大きな獣に襲われたと見えるが、爪痕と表現することは些か躊躇われた。
 ぎこちなく胸元で組まされた両手は、ここに運び込んだ第三者によって為されたのだろう。そこには不器用な優しさが伺えた。
 生き物の気配のない空間の中で、そこだけ人間の温かみが仄かに残っているように思える。もっとも、それは周囲の冷たさを際立たせるだけだったが。
 この病院の中に漂う死の香りに、思わず咽そうになる。環境そのものは己の職場とそう変わらないが、確実に人見の精神をすり減らしていた。
 ここに生きた人間はいない――。
 そう結論づけようとするも、また足音らしき物音が耳に入った。何かに集中していれば気づかないほどの微かに、だが思考の間隙を狙い撃つように耳朶に滑り込んでくる。
 二階に踏み込んだのも、足音を聞いたからだ。
 またポルターガイスト現象かと、人見は頬を歪めた。廃棄された地下鉄駅で体験したばかりだというのに。無論、あれは何らかの人為的な仕掛けに違いはないのだが。
 もっとも、今起こっている事柄はポルターガイスト現象ですらない。
 学生時代、水明が面白くもなさそうに語っていた内容が記憶の水底から浮かび上がる。
 20世紀初頭、フランス警察はポルターガイスト現象に対する調査を行っていた。後年、エミール・ティザーヌなる警官がその報告書を纏め、ポルターガイストで発生する現象を九つの項目に分類した。
 外部からの異物投擲、家具等の強打音、発生源不明の音、扉の開閉、内部の物質移動、異物の侵入および出現、そして温度変化――。ただし、あくまで分類しただけで、それらを満たそうと満たすまいとポルターガイスト現象と確定するわけでもない。大体、人間の認識など信用するにはまったく足りないものなのだから。
 ただ、この項目に当てはめてみるにしても、この病院で起こっているのはこれらの内の異音のみだ。それもおそらく家鳴りの類だろう。
 水明ですら本気でポルターガイスト現象だと騒ぐことはないレベルだ。
 それを足音だと錯覚してしまった己は、やはり疲れているようだ。
 死体から顔を上げる。
 窓ガラスに、ペンライトを持つ自分の姿が映っている。やつれているように見えるのは、ペンライトの青白い光のせいだけではないだろう。
 ふと、窓ガラスの上部に何かが張り付いていることに気付いた。それは――あり得ないことだが――人間の足裏のようだった。蜘蛛の糸を出すスーパーヒーローか何かのように、外壁に誰かが張り付いているとでもいうのか。
 訝しんで動こうとした矢先、爪先が床に落ちていたトレイを蹴とばした。甲高い音を立てて、トレイが床を滑っていく。
 それと重なるようにして、窓ガラスが内側に爆ぜた――。




(ニ)

 砕かれる扉の悲鳴が追いかけてくる。
 その音の指先が触れる前に、岸井ミカは裏口の扉を勢いよく開け放った。外は袋小路で、出口は一方にしか開かれていないことなど、彼女の頭からは消し飛んでいた。
 夜気が頬を擽る。無明に近い闇だが、辺りの空気には饐えた腐臭が加わっている。
 カサカサと足元を何かが這い回ってる音が聞こえた。嫌悪に悲鳴を上げる直前、ついに扉が砕かれる音が響いた。複数の呻き声が重なる。
 悲鳴よりも焦りの方が上回った。思わず咽そうになるのも堪え、ミカは足を送った。足元で何かを踏み潰した感触が這い上がってきたが、無理やり無視する。
 風が流れてくる方向――無意識だが、そこへと身体は向かっていた。
 路地を抜け、水音が出迎えた。ぽつぽつと申し訳程度に街路灯が並んでいるが、光は弱弱しい。
 ユカリと一緒にいた男――キリサキだったか――はアルケミラ病院に行けと言っていた。場所は――どこだったろう。
 電話の後、地図を確認する余裕はなかった。今から確認しようにも明かりが無い。携帯電話のバックライトは使えるかもしれないが――。
 脳裏に過るのは、よくあるホラー映画のワンシーンだった。暗闇で迷う人物。背後に立つ殺人鬼。視聴者も、殺人鬼もみんな状況を掴んでいる。分からないのは、暗闇で彷徨っている人物だけ。
 つまり、今の自分――。
 今度の衝動は抑えることができなかった。
 ミカは弾けるように走り出した。周りを覆う闇の至る所から、今にも腐った腕が伸びてきそうだった。それは妄想だが、まったくの幻影とも思えなかった。
 呻き声は聞こえていた。たどたどしい足音も。問題は、それらがあらゆる方角から己に降り注いでいるということだった。
 病院のことは頭から消え去っていた。ただ身を縮ませて、"闇"から逃げ続けるだけだった。
 己の制御がきかない。纏いつくような重い"闇"に、手足が絡み取られそうになる。闇から伸びる手は、ミカの中では質感すら伴っていた。
 視界の中に、白い人影が横切った。走る人影を追って、複数の人影が闇の中に消えていく。
 他にも人が近くにいる――そのことで、ミカは幾ばくか落ち着きを取り戻した。それは、単純に孤独ではないことからの安堵であったかは本人にも分からなかった。
 一旦足を止めて、ミカは首を巡らせた。
 とん――と、質量のない、しかし、意識としては人とぶつかったような、そんな判じ難い感覚をミカは覚えた。
 何かが己の身体を通り抜けて行った――外国の制服を纏った後ろ姿が、瞼の裏に映ったような気がした。
 困惑に拍車をかけるように、後ろの方で、甲高い鳴き声が上がった。まだ距離はあるようだが、また同じものが来るという恐怖にミカは駆られた。
 反射的に、ミカは幻影が走っていった方角に向けて駆け出した。何か直感があったわけではない。単に身体がそちらを向いていたからに過ぎない。
 ふいにまた奥へと走っていく背中が見えた。陽炎のような、どこか揺らめくように人影は闇の奥底へと向かっていく――瞬きをすると、それは見えなくなった。
 左右に立ち並ぶ街灯は炎のように朧気に揺らめき、一種の幻想さを齎していた。
 ミカの前方に続く道だけが異なる次元に取り込まれたかのように、呻き声も何も耳に入ってこない。響くのはアスファルトを叩く足音と己の吐息だけだ。
 暗がりのため、自分がどれだけ走っているのか分からなくなった。ほんの僅かのようでもあるし、もっとずっと長いようにも感じられる。
 ふいに誰かに呼ばれたような心地がしたと同時に、周囲の音が戻ってきた。動悸に上下する胸を抑えながら、ミカは足を止めた。
 息を整えながら、周囲に目を配る。
 薄明の中に、高い塀と鉄柵門が浮かび上がっていた。"アルケミラ病院"と門柱のプレートには掲げられている。キリサキの知り合いがいるの病院――。
 その門の足元から丸い大きな瞳が、ミカを見返していた。一瞬息が詰まるが、すぐに猫のそれと気づいた。
 門扉に手をかけると、双眸はさっと闇の奥へと引っ込んでしまった。
 肩を竦め、力を込める。思っていたよりも門扉の奏でる軋みは大きく、ミカは思わず手を止めた。生じた僅かな隙間にどうにか身を滑り込ませ、門を閉じる。
 入り口らしき扉の窓ガラスから光が漏れていた。人がいる――証だ。
 ミカの口から安堵の吐息が漏れる。
 足を進めていくと、既に先客がいることが知れた。段差の上に、猫がちょこんと座っている。黒い毛皮は周囲の闇に溶け込んでおり、鼻先から腹まで続く白いラインが際立って見えた。
 しゃがみ込み、ミカは舌を鳴らしながら手を差し伸べた。
 猫の方も心細かったのか、案外すぐに警戒を解いてミカの掌に頭を擦り付けた。そのまま抱き上げると、猫は抵抗も少なく腕の中に納まった。伝わってくる温もりが、自身の心を落ち着かせていくのをミカは感じた。
 まだ身体は小柄で、細い。子供と大人の中間といった具合だろう。つまり、同い年かとミカは微笑んだ。猫がごろごろと喉を鳴らす。
 扉を開ける。ミカを出迎えたのは、懐かしさすら覚える室内灯の明るさと――肌を撫ぜるほどの濃厚な血臭であった。
 喉が引き攣った。
 室内灯の明かりを、床に広がった血の池がぬめりと反射している。その中に、無造作に放られた人の腕や足、正体を知りたくもない物体が散らばっている。
 犠牲になっているのは看護婦だろうか。駅で目撃した男の残骸が否応にも思い出される。
 このまま扉を閉めてしまいたかったが、どこからか聞こえる甲高い声がその衝動を制した。
 嫌悪と恐怖を押し潰し、ミカは病院の中へと足を踏み入れた。
 腕の中の猫に縋るように、ひしと抱き直す。靴裏が、粘り気を帯びた水たまりのような感触を伝えてくる。
 床に散らばる物を見ないようにしながらロビーを観察する。
 血飛沫は壁までも染め上げていた。まるで血のプールで子供がはしゃいだかのような有様だ。
 長椅子やテーブルの幾つかは倒れ、天井近くテレビのブラウン管にまで血飛沫の一部が降りかかっている。
 この病院で何が起こったのかは明白だ。キリサキの知り合いが、この残骸の中に含まれていないとも限らない。
 少なくとも、ミカの来訪を出迎えてくれる人間はいない。
 受付カウンターの奥に扉があった。控室か事務室だろう。カウンターを乗り越えれば入れるが、様々なものが付着した台に手を着くのは躊躇われた。
 とても静かだ。自分の足音が酷く気障りに感じられる。
 診察室、事務室と続けて覗いてみるが、人っ子一人いない。
 ロビーの奥にある扉から顔を出す。
 電燈は点いていない。ロビーから漏れた明かりが、床にミカの影を長く伸ばした。
 闇の中、二階へと続く階段が薄らと見えた。

「……ねえ、誰かいる? いるんだったら、返事して欲しいンですけどー?」

 少し声を抑えて呼びかける。
 声はそのまま消えていく。返答は、ただの静寂だった。
 いや――反応はあった。
 ぱたぱたと軽い足音が奥から聞こえたような気がした。
 耳を澄ますと、何か音がする。それらは、会話する複数の肉声のようにも聞こえた。上からではない。
 猫の背を撫でて、一呼吸置く。
 照明のスイッチが分からないため、ミカは携帯電話を取り出した。
 ほんの数メートルだが、周囲の様子が知覚できるようになった。
 壁を確認に、それ伝いに足を進めていく。通路の突き当りの扉が開いていた。
 少し腕をきつくしてしまったのか、猫が不満げに声を上げる。
 扉をくぐると、声はもっと奥から漏れている。
 通路を進むが、自然と注意は後方に向いていた。誰かの足音が付いてくる。そんな妄想が振り払えない。
 自分の足音が、どこか不自然な気さえしてくる。
 ふうと項に息が吹きかけられた心地がして、ミカは思わず振り返った。その先に、ぼうとした白い人影が見え、身体を跳ね上げる。
 いや――違う。それは自分の姿だ。窓ガラスに携帯電話をかざす己が映り込んでいるだけだ。古いガラスなのか、そこに映り込む像は歪んでいるせいで怪しく見えたのだ。
 暗闇にぽうと浮かび上がる自分の姿は酷く頼りない。
 窓ガラスの幾つかは割れていて、そこから風が入ってきたらしい。
 怖がりすぎただけと笑おうとするが、早鐘を打つような鼓動は収まりそうにない。背中への意識も止めることができなかった。
 また不満げに鳴いた猫に、ごめんねと告げる。
 通路の曲り角から、薄く光が伸びている。そこが終着点だと思えた。辿り着けば、今の心細さから解放される。
 足元に注意しながら、ミカは早足に角を曲がった――。
 女と目が――あった。
 音を立てていたのは、エレベーターの扉だ。それが何度も閉まろうとしては、叶わずにまた口を開ける。
 異物が挟まっているからだ。それが邪魔をしている。
 女の――頭だ。長い黒髪の女の頭部が転がっている。開閉の度にごろりと向きを変えていく。
 鼻骨は醜く潰れていた。顔の肉には痕が刻まれ、その幾つかは裂けている。年齢は分からないほどに破損している。
 ただ――目が――。
 転がるのに、眼だけはずっとこちらを向いている。怨めしげに見開かれた瞳が、ミカを睨め上げている。
 嬌声が耳元で聞こえた――。
 気持ちの抑えはもう利かなかった。
 絶叫を上げながら、ミカは元来た道を走り出した。直後に建物全体を揺るがす、大きなサイレンの音が響いた。
 その轟音が更に心を乱していく。ミカは携帯電話に指を走らせた。リダイヤル画面を呼び出す。
 ユカリの声が聞きたい。ユカリの声さえ聴ければ――。
 焦る指が滑り、意図しない番号が発信された。けたたましいコール音が響く――。
 フゥーッと腕の中で猫が威嚇の声を上げた。
 思わず立ち止まったミカの鼻先を、大きな獣のような影が横切った。一瞬だが、それは四つん這いの人体模型のように見えた。影は、半開きだったロビーの扉を跳ね飛ばして中へと入った――。
 呆然としていると、いきなり腕を掴まれた。
 横手に引き込まれる。更に悲鳴を上げようとした口を、別の手に覆われた。

「静かにっ」

 鋭い女の声だ。
 目だけを動かすと、薄闇の中で顔の輪郭が見えた。黒髪を肩のあたりで切った美人だ。そして、輪郭が分かることにミカは違和感も持った。
 無明だった通路に、光が生まれているのだ。そもそも病院の様子が一変している。古びているが、錆や汚泥に塗れてはいない。
 そして腕から温もりが消えている。猫が腕の中から逃げ出していたのにも気づかなかったようだ。
 猫はどこにいったのか。眼で探ろうとしていると、女と目があった。

「一旦、上にいくわよ」

 女が囁き、ミカを立たせた。
 ミカが頷き、女の後を追った。 
 ロビーの方では、コール音と共に物が壊れる音が続いている。
 階段に、ぽつぽつと赤い滴が垂れていた。それは――先行する女の左手から垂れていた。
 上がりきったところで、コール音が止んだ。


【B-6/アルケミラ病院・二階/二日目深夜】


式部人見@流行り神】
 [状態]:上半身に打ち身、左腕に裂傷、T-ウイルス感染
 [装備]:ペンライト、携帯電話
 [道具]:旅行用ショルダーバッグ、小物入れと財布 (パスポート、カード等)
     筆記用具とノート、応急治療セット(消毒薬、ガーゼ、包帯、頭痛薬など)
     ダグラスの手帳と免許証、地図
 [思考・状況]
 基本行動方針:事態を解明し、この場所から出る。
 1:病院内でヘザーを探す。
 2:ヘザーにダグラスの死を伝える。
 3:怪奇現象は絶対に認めない。例え死んでも。
※ダグラスの知る限りの範囲でのサイレントヒルに関する情報を聞いています。
※ダグラスの遺体から持ち出した物は、
 携帯ラジオ、ペンライト、手帳、免許証の四点です。
※T-ウイルスに感染しました。 




【岸井ミカ@トワイライトシンドローム】
 [状態]:左掌に擦り傷、腕に掠り傷、極度の精神疲労、挫け気味の決意、吐き気
 [装備]:携帯電話(非通知設定)
 [道具]:黄色いディバッグ、筆記用具、小物ポーチ、三種の神器(カメラポケベル、MDウォークマン)
     黒革の手帳、書き込みのある観光地図、オカルト雑誌『月刊Mo』最新号
 [思考・状況]
 基本行動方針:長谷川ユカリを優先的に、生存者を探す。
 1:二階へと逃げる。
※90年代の人間であるため、携帯電話の使い方は殆ど知りません。
※携帯電話の発信履歴に霧崎水明の携帯番号が記録されました。
※バーから何か道具を持ち出しているかどうかは後続の方に一任します。  


※一階ロビーから事務所に入る扉と事務所の電話はリッカーによって壊されています。
※205号室の窓ガラスが割れています。




back 目次へ next
鬼の霍乱 時系列順・目次 双子ならば、同じ夢を見るのか
Survivor ――Eye of the Tiger―― 投下順・目次 羽生蛇村異聞 第三話・外伝『理尾や丹』――隙間録・吉村俊夫編
 
back キャラ追跡表 next
暗闇を照らす光の中では 式部人見 最後の詩
暗闇を照らす光の中では 岸井ミカ 最後の詩

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2016年03月13日 15:38