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1945年
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ヤルタ協定・ポツダム宣言(1945)
ヤルタ会談
43年11月、ルーズベルト、チャーチル、蒋介石の米英中3首脳はエジプトのカイロで会談し、対日問題についてのカイロ宣言を発表した。そこでは、日本の無条件降伏を求めた上、日本が第一次大戦後奪取した太平洋上のすべての島をとりあげ、満州・台湾は中国に返還すること、朝鮮を独立させることを取り決めた。さらにその直後、米英首脳に初めてソ連のスターリンを加えたテヘラン会談では、ドイツを降伏させるためのヨーロッパ本土上陸作戦などを決定した。
44年6月、テヘラン会談の決定にもとづいて、米英連合軍はノルマンディーに上陸し、東ヨーロッパに進撃しているソ連軍に呼応した。ド・ゴールのフランス解放軍もこれに加わり、北フランスは解放され、8月にはパリも連合軍によって奪還された。ソ連軍もポーランドのドイツ軍を追い、バルカン諸国を次々と解放して、45年3月にはオーデル・ナイセ川の線に達し、4月にはライン川を突破してきた米英軍とエルベ川で出会った。
太平洋においては、米軍が南太平洋から中部太平洋に飛び石作戦を進め、44年7月にサイパンを陥落させ、10月にはフィリピンに上陸した。制海権・制空権を奪われた日本は11月以降本土空襲に見舞われた。
連合軍の勝利が決定的となった45年2月、米英ソの3首脳はクリミヤ半島のヤルタで、8日間にわたる会談を行った。この会談は、戦後のヨーロッパ・アジアのあり方を決定づけるものとなった。ドイツの占領はフランスを加えた4ヵ国の分割管理とする、国際連合設立のために4月サンフランシスコに原加盟国を招集する、ポーランドの戦後体制を決める自由選挙を実施することなどが決まった。米ソ間では日本に関する秘密協定が結ばれた。それは、ドイツ降伏後3か月以内にソ連が対日戦争に参加すること、南樺太及び大連・旅順の租借地のソ連返還、満鉄の中ソ合弁経営、中華民国の満州における主権の保有、千島列島のソ連への引き渡しなどであった。
これらの取り決めは、ソ連に不必要に譲歩したものであったと、戦後批判された。このころすでにルーズベルトは健康を害しており気力がなかった、そして米国は日本の戦争継続能力を過大に評価しており、米軍の損害を最小にとどめるためソ連の対日参戦を必要としていたことなどが理由に考えられる。
44年6月、テヘラン会談の決定にもとづいて、米英連合軍はノルマンディーに上陸し、東ヨーロッパに進撃しているソ連軍に呼応した。ド・ゴールのフランス解放軍もこれに加わり、北フランスは解放され、8月にはパリも連合軍によって奪還された。ソ連軍もポーランドのドイツ軍を追い、バルカン諸国を次々と解放して、45年3月にはオーデル・ナイセ川の線に達し、4月にはライン川を突破してきた米英軍とエルベ川で出会った。
太平洋においては、米軍が南太平洋から中部太平洋に飛び石作戦を進め、44年7月にサイパンを陥落させ、10月にはフィリピンに上陸した。制海権・制空権を奪われた日本は11月以降本土空襲に見舞われた。
連合軍の勝利が決定的となった45年2月、米英ソの3首脳はクリミヤ半島のヤルタで、8日間にわたる会談を行った。この会談は、戦後のヨーロッパ・アジアのあり方を決定づけるものとなった。ドイツの占領はフランスを加えた4ヵ国の分割管理とする、国際連合設立のために4月サンフランシスコに原加盟国を招集する、ポーランドの戦後体制を決める自由選挙を実施することなどが決まった。米ソ間では日本に関する秘密協定が結ばれた。それは、ドイツ降伏後3か月以内にソ連が対日戦争に参加すること、南樺太及び大連・旅順の租借地のソ連返還、満鉄の中ソ合弁経営、中華民国の満州における主権の保有、千島列島のソ連への引き渡しなどであった。
これらの取り決めは、ソ連に不必要に譲歩したものであったと、戦後批判された。このころすでにルーズベルトは健康を害しており気力がなかった、そして米国は日本の戦争継続能力を過大に評価しており、米軍の損害を最小にとどめるためソ連の対日参戦を必要としていたことなどが理由に考えられる。
ポツダム宣言
45年7月、急死したルーズベルトのあとを襲ったトルーマンとチャーチル、スターリンはドイツのポツダムで会談を行った。そして、蒋介石の賛同を得て日本に無条件降伏を要求するポツダム宣言が発表された(ソ連はまだ対日参戦していなかったため、署名していない)。ポ宣言にはほかに、戦後の日本の主権は「本州、北海道、九州及び四国並びにわれわれの決定する諸小島に局限」されること、戦争犯罪人に対して処罰を加え民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去し言論・宗教・思想の自由、基本的人権の確立を期すること、などがうたわれた。
日本は当初これを「黙殺」した。その間に、8月6日広島に、9日長崎に原爆が投下された。またソ連は8日、日ソ中立条約を無視して日本に宣戦、満州、樺太・千島に侵攻した。日本は15日、ポツダム宣言を受諾して降伏した。
日本は当初これを「黙殺」した。その間に、8月6日広島に、9日長崎に原爆が投下された。またソ連は8日、日ソ中立条約を無視して日本に宣戦、満州、樺太・千島に侵攻した。日本は15日、ポツダム宣言を受諾して降伏した。
国連の創設
41年8月、ルーズベルト大統領とチャーチル首相は大西洋上で会談し、大戦後の国際秩序を安定せしめるものとして「広範で恒久的な一般的安全保障の体制の創設」をうたった大西洋憲章を発表した。そして43年10月モスクワで行われたアメリカ、イギリス、ソ連の3国外相会談で米国が新たな国際的平和機構の原案を提案した。ソ連は当初消極的で、イギリスは「地域評議会」形式を主張したが、討議の結果、主権平等原則に基づく国際機構を樹立することで合意した(モスクワ宣言、中国は書面上で合意)。さらにそれを首脳間で確認した11月のテヘラン会談を受けて、44年8月から10月にかけてワシントン郊外のダンバートン・オークスで4カ国会議が行われ、その国際的機構の基本的な枠組みが明確になった。この「ダンバートン・オークス提案」は、後の国連憲章の原案をなすもので、「五大国 Big Five」(米英仏ソ中)を常任理事国とする安全保障理事会を新たな国際機構の中心に据えていた。
そして45年6月サンフランシスコで、国際機構に関する連合国会議(50ヵ国が招請された)が開かれ、会議の最終日の6月26日に国際連合憲章が調印され、1945年10月24日に発効、国際連合が発足した(ポーランドが加わり、原加盟国は51ヵ国)。
国連憲章は、国連加盟国に紛争の平和的解決を義務づけ、他国に対する武力行使を自衛権に基づく場合を例外として禁じ、これに違反した国家に対しては安保理事会が中心となって制裁を下すものとした。各国の主権は平等だが、米英仏ソ中の5大国には安保理事会の常任理事国という特別の地位と拒否権が与えられた。
そして45年6月サンフランシスコで、国際機構に関する連合国会議(50ヵ国が招請された)が開かれ、会議の最終日の6月26日に国際連合憲章が調印され、1945年10月24日に発効、国際連合が発足した(ポーランドが加わり、原加盟国は51ヵ国)。
国連憲章は、国連加盟国に紛争の平和的解決を義務づけ、他国に対する武力行使を自衛権に基づく場合を例外として禁じ、これに違反した国家に対しては安保理事会が中心となって制裁を下すものとした。各国の主権は平等だが、米英仏ソ中の5大国には安保理事会の常任理事国という特別の地位と拒否権が与えられた。