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■鉄のカーテン
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■鉄のカーテン(1945-47)
ポーランド
第二次世界大戦の直接の引き金はナチ・ドイツのポーランド進駐であった。ソ連の戦後の対東欧政策のなかで最も重要な位置を占めていたのもポーランドであった。
スターリンは、独ソ戦の勃発後、西側からの援助を仰ぐためロンドンにあったポ亡命政府をいったんは承認した。しかしその直後、モスクワにポ労働者党を中心とするポ愛国者同盟(後にポ民族解放委員会)を組織し、戦後のポーランド共産化を準備した。対ドイツ戦勝利の見通しが生まれると、ソ連は亡命政府とは断交し、民族解放委員会を唯一のポ政府とした。
ふたつの政府の確執を解決するため、ヤルタ会談では、ポ国民の総意に基づいた政府を自由選挙によって樹立することを決定した。しかし、戦後、ソ連による占領下で、労働者党は亡命政府側を逮捕や選挙権剥奪で弾圧した。●年●月に行われた選挙では解放委員会側が90%以上の支持を獲得、47年2月のポ人民共和国政府成立を導き、ポーランドはソ連の衛星国と化した。
スターリンは、独ソ戦の勃発後、西側からの援助を仰ぐためロンドンにあったポ亡命政府をいったんは承認した。しかしその直後、モスクワにポ労働者党を中心とするポ愛国者同盟(後にポ民族解放委員会)を組織し、戦後のポーランド共産化を準備した。対ドイツ戦勝利の見通しが生まれると、ソ連は亡命政府とは断交し、民族解放委員会を唯一のポ政府とした。
ふたつの政府の確執を解決するため、ヤルタ会談では、ポ国民の総意に基づいた政府を自由選挙によって樹立することを決定した。しかし、戦後、ソ連による占領下で、労働者党は亡命政府側を逮捕や選挙権剥奪で弾圧した。●年●月に行われた選挙では解放委員会側が90%以上の支持を獲得、47年2月のポ人民共和国政府成立を導き、ポーランドはソ連の衛星国と化した。
チェコ
ソ連との妥協を拒否したポ亡命政府とは異なって、チェコ亡命政府のベネシュは43年にはモスクワを訪問して、友好相互援助条約を締結した。「ソ連はチェコの内部問題には介入しない」というスターリンの言明を信じてのことであった。しかし、スターリンは戦後、臨時政府の閣僚人事に介入し、さらにスロヴァキア領の一部割譲を求めてきたのである。46年5月に選挙が行われると、共産党が38%をとって第一党となった。その後共産党は単独政権の樹立をめざし、48年2月にクーデタによって非共産党系の閣僚を追放した。こうして、チェコスロヴァキアもソ連の衛星国へと転落していったのである。
ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー
これら三国は、第二次大戦中ナチス・ドイツの同盟国であったため、敗戦国として戦後を迎えた。連合国側は、これら三国が自由選挙を経て民主主義国国家に生まれ変わるような措置を講じることを約したが、実際には、ソ連軍の占領下に置かれたため、ソ連よりの体制がつくられるのは避けがたかった。これら諸国では45年から46年にかけて選挙が行われ、いったんは複数政党の代表者を含む政府がつくられた。しかし、47年を境に、共産党系がその他の勢力を排除し、ソ連の衛星国へと転じていった。
鉄のカーテン演説
46年3月、チャーチルは訪米し、ミズーリ州フルトンで演説を行った。「バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステまで、大陸を横切って鉄のカーテンがおろされている。このカーテンの背後には、ワルシャワ、ベルリン、ウィーン、ブダペスト、ベオグラード、ブカレスト、ソフィア、これらの有名な都市の住民がソ連の圏内にあり、モスクワからの強固な統制のもとに従属している」と、分断されたヨーロッパの現状を表現し、米国と自由主義陣営に警告を発した。