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●戦後改革の展開
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●戦後改革の展開(1946)
日本国憲法の制定まで
戦争責任問題
天皇の人間宣言
戦前の国家体制(明治憲法体制)の背骨をなすのは天皇の統治大権であり、その根拠は、万世一系という神話に求められた。1946年元旦に出された詔勅はその根拠を否定し、天皇が現人神であり日本民族が他民族に優越するという神話を否定した。「朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依リて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を以て現御神(あきつみかみ)とし且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延(ひい)て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる觀念に基くものにも非ず」と。幣原首相が外国の理解を求めようと英文で起草し、あとから詔書の形に翻訳したといわれる。
同日、マッカーサーはこの詔書に対する声明を発表し、天皇が日本国民の民主化に指導的役割を果たしたと評価した。この詔書は「天皇の人間宣言」と呼ばれるようになった。
同日、マッカーサーはこの詔書に対する声明を発表し、天皇が日本国民の民主化に指導的役割を果たしたと評価した。この詔書は「天皇の人間宣言」と呼ばれるようになった。
解散・追放
幣原首相は衆院を45年12月18日に解散した。ところが、GHQは翌日、決められた選挙の延期を指令した。そして46年1月4日、突然政治家たちの公職追放令を発したのである。GHQは新たな議会が戦前の政治家たちに占められるのを阻止したかったようである。45年中にほぼ陣容を整えていた諸政党は、共産党以外、大打撃を受けた。
翼賛政治体制協議会の推薦を受けていた議員は381人全員が追放された。これによって進歩党は町田総裁、鶴見幹事長はじめ260人が追放され、結党時の議員で立候補できるのは14人だけになってしまった。自由党は43人中30人が追放された(このときは鳩山・河野・三木らは追放を免れたが、総選挙後に追放になる)。社会党は17人中10人、共同党は23人中21人を失った。
翼賛政治体制協議会の推薦を受けていた議員は381人全員が追放された。これによって進歩党は町田総裁、鶴見幹事長はじめ260人が追放され、結党時の議員で立候補できるのは14人だけになってしまった。自由党は43人中30人が追放された(このときは鳩山・河野・三木らは追放を免れたが、総選挙後に追放になる)。社会党は17人中10人、共同党は23人中21人を失った。
戦後初の総選挙
46年4月10日に行われた第22回総選挙は、戦後初の総選挙であり帝国議会最後の総選挙であった。そして、初の男女平等の普通選挙であった。
結果は、自由党が141議席をとって第一党になった。進歩党と社会党がともに94議席と並んだ。共産党も日本の議会史上はじめての議席5つを得た。(総定数466)
大部分の前議員が追放されたから、新人が379人と当選者全体の81.3%を占めた。女性議員は39人誕生した。
結果は、自由党が141議席をとって第一党になった。進歩党と社会党がともに94議席と並んだ。共産党も日本の議会史上はじめての議席5つを得た。(総定数466)
大部分の前議員が追放されたから、新人が379人と当選者全体の81.3%を占めた。女性議員は39人誕生した。
吉田連立内閣の成立
総選挙でどの党も過半数を取れなかったから、後継首班についてはもめざるを得なかった。まず、幣原首相が進歩党を与党にして居座ろうとしたが、他の党から総スカンをくって諦めた。第一党の自由党総裁・鳩山が社会党の閣外協力を得て組閣しようとしたが、その矢先、GHQが鳩山の追放令を出した。社会党が単独政権をめざす一幕もあったが、結局、自由党総裁を継いだ吉田茂が、進歩党との連立で、吉田内閣を46年5月22日に発足させた。吉田は当時議席をもっていなかったが、帝国憲法の規定に従い、天皇の指名(大命降下)で首相になったのである。
最後の帝国憲法下の首相として、吉田に課せられたのは、憲法改正はじめとする諸制度の改革と、敗戦によって困窮する国民生活の再建であった。
最後の帝国憲法下の首相として、吉田に課せられたのは、憲法改正はじめとする諸制度の改革と、敗戦によって困窮する国民生活の再建であった。
公職追放
諸制度の改革と並行して急ピッチで進められたのは、指導者の交代であった。
GHQは45年10月に、職業軍人や軍国主義鼓吹者の教育界からの追放、敗戦までに自由主義・平和主義を理由に教職を追われていた人びとの復帰を指示した。政府は46年5月にこれを勅令で実施し、約7000人の教職者が追放された。
46年1月にはGHQは、「軍国主義的国家主義と侵略の活発な主唱者」「極端な国家主義的団体・暴力主義的団体・秘密愛国団体等の有力分子」「大政翼賛会・大日本政治会の有力分子」などを公共性のある職業につくことを禁止するとする指令を発した。のち追放基準は拡大され、民間の有力会社やマスメディアなどの戦争中も幹部らも追放された。占領の全期間を通じて追放された人は21万余人とされる。大部分は軍人で、ついで政治家が多かった。
GHQは45年10月に、職業軍人や軍国主義鼓吹者の教育界からの追放、敗戦までに自由主義・平和主義を理由に教職を追われていた人びとの復帰を指示した。政府は46年5月にこれを勅令で実施し、約7000人の教職者が追放された。
46年1月にはGHQは、「軍国主義的国家主義と侵略の活発な主唱者」「極端な国家主義的団体・暴力主義的団体・秘密愛国団体等の有力分子」「大政翼賛会・大日本政治会の有力分子」などを公共性のある職業につくことを禁止するとする指令を発した。のち追放基準は拡大され、民間の有力会社やマスメディアなどの戦争中も幹部らも追放された。占領の全期間を通じて追放された人は21万余人とされる。大部分は軍人で、ついで政治家が多かった。
日本国憲法の制定
様々な試案
幣原首相が45年10月11日にマッカーサーと会って5大改革を指令された際、同時に「憲法の自由主義化」を指示された。そこで13日の閣議で、松本烝治国務相(元東京帝大法学部教授で貴族院議員)を憲法改正に関する研究の主任とすることを決めた。松本は憲法問題調査委員会を政府内に設け検討を始めた。この動きに呼応し、いくつかの民間グループが新憲法の草案づくりに乗り出した。
日本共産党はもっとも早く、人民主権を打ち出した「新憲法の骨子」を発表した(45/11月)。高野岩三郎・馬場恒吾・杉森孝次郎・森戸辰男・鈴木安蔵ら自由主義者で構成された憲法研究会は、統治権は日本国民より発し、天皇は国政を「親(みずか)らせず」「国民の委任により専ら国家的儀礼を司る」とし、「出生又は身分に基く一切の差別」を廃し、「国民は健康にして文化的水準の性格を営む権利を有す」と社会権まで盛り込んだ「憲法草案要綱」を発表した(45/12月)。高野岩三郎は個人で、大統領を元首とする共和制を採用する「改正憲法私案要綱」も発表した(同)。日本自由党は「憲法改正要綱」で、「統治権の主体は日本国家」で、天皇は「統治権の総攬者」であり「法律上及政治上の責任なし」とし、衆議院・参議院の二院制を唱えた(46/1月)。
GHQもむろん検討していた。GS(民政局)に所属する法律家たちが、戦前の憲法論をふまえ、松本の委員会の動向や民間の草案などにも注意を払いながら研究を進め、政府案が出てきたときのチェックリストの準備を行っていた。
日本共産党はもっとも早く、人民主権を打ち出した「新憲法の骨子」を発表した(45/11月)。高野岩三郎・馬場恒吾・杉森孝次郎・森戸辰男・鈴木安蔵ら自由主義者で構成された憲法研究会は、統治権は日本国民より発し、天皇は国政を「親(みずか)らせず」「国民の委任により専ら国家的儀礼を司る」とし、「出生又は身分に基く一切の差別」を廃し、「国民は健康にして文化的水準の性格を営む権利を有す」と社会権まで盛り込んだ「憲法草案要綱」を発表した(45/12月)。高野岩三郎は個人で、大統領を元首とする共和制を採用する「改正憲法私案要綱」も発表した(同)。日本自由党は「憲法改正要綱」で、「統治権の主体は日本国家」で、天皇は「統治権の総攬者」であり「法律上及政治上の責任なし」とし、衆議院・参議院の二院制を唱えた(46/1月)。
GHQもむろん検討していた。GS(民政局)に所属する法律家たちが、戦前の憲法論をふまえ、松本の委員会の動向や民間の草案などにも注意を払いながら研究を進め、政府案が出てきたときのチェックリストの準備を行っていた。
松本案
松本国務相らの憲法問題調査委員会がつくった「憲法改正要綱」は、46年2月8日、GHQに提出された。それは明治憲法を部分的に改正するもので、主な内容は、次のとおりである。
(1)「天皇は至尊にして侵すべからざるもの」とする(「神聖にして」が「至尊にして」にかわった)
(2)天皇は軍を統帥する。ただし、国務大臣の輔弼を必要とする(独立統帥権が制限された)
(3)日本臣民は、すべて法律によらずして自由及び権利を侵されないものとする
(4)貴族院を参議院に改め、参議院は選挙または勅任された議員で組織する
この「要綱」のもとになった松本案は、GHQへの提出に先立って、2月1日付の毎日新聞にスクープされた。これを見たGSの研究班は、自分たちの考えからかけ離れたものであることから、GHQ案をつくる方向に舵を切った。
2月13日、GHQの担当者は、外相公邸で松本と外相・吉田茂に会い、「憲法改正要綱」の拒否を伝え、その場で、英文で書かれたGHQの草案を手渡した。
(1)「天皇は至尊にして侵すべからざるもの」とする(「神聖にして」が「至尊にして」にかわった)
(2)天皇は軍を統帥する。ただし、国務大臣の輔弼を必要とする(独立統帥権が制限された)
(3)日本臣民は、すべて法律によらずして自由及び権利を侵されないものとする
(4)貴族院を参議院に改め、参議院は選挙または勅任された議員で組織する
この「要綱」のもとになった松本案は、GHQへの提出に先立って、2月1日付の毎日新聞にスクープされた。これを見たGSの研究班は、自分たちの考えからかけ離れたものであることから、GHQ案をつくる方向に舵を切った。
2月13日、GHQの担当者は、外相公邸で松本と外相・吉田茂に会い、「憲法改正要綱」の拒否を伝え、その場で、英文で書かれたGHQの草案を手渡した。
マッカーサー草案
草案の作成に当たってマッカーサーは、新憲法の3原則を示していた。それは(1)天皇は国家の元首(head)の地位にある、(2)戦争を廃棄する、(3)封建的制度を廃止する、であった(2/3)。GSのメンバーは、それから1週間で、「マッカーサー草案」と呼ばれるGHQ案をつくりあげ、13日に日本側に示したのであった。
その内容は、日本政府にとっては驚愕のものであった。明治憲法はまったく書き改められていた。国家の主権ははっきりと国民にあるとうたわれ、天皇の地位は「象徴」symbolであり、国民の意志に依存する。その権能は国事行為として限定列挙された。そして軍を全廃するという。日本政府側は、何度かの交渉で抵抗を試みるが、基本的にはGHQに押し切られた。3月6日、ほぼマッカーサー草案に沿った「憲法改正草案要綱」を日本政府は発表した。
その内容は、日本政府にとっては驚愕のものであった。明治憲法はまったく書き改められていた。国家の主権ははっきりと国民にあるとうたわれ、天皇の地位は「象徴」symbolであり、国民の意志に依存する。その権能は国事行為として限定列挙された。そして軍を全廃するという。日本政府側は、何度かの交渉で抵抗を試みるが、基本的にはGHQに押し切られた。3月6日、ほぼマッカーサー草案に沿った「憲法改正草案要綱」を日本政府は発表した。
日本国憲法の誕生
憲法改正案は6月20日、吉田内閣によって帝国議会に提出され、8月24日衆院で若干の修正をして可決、10月6日貴族院で修正可決、衆院へ回付、翌7日衆院がこれに同意して成立した。公布は同年11月3日、施行は翌47年5月3日であった。
日本国憲法は、主権在民・平和主義・人権尊重の3つの柱を基本原理とした。前文で「主権が国民に存することを宣言」し、第1条で「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基く」と、国民と天皇との関係を規定した。平和主義について第9条で、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とし、同条2項で「前項の目的を達するために、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」としたことは、当時どこの国の憲法にも例をみないことであった。国会が「国の最高機関」と明確に位置づけられた点も明治憲法との比較上注目される。国会は衆議院と参議院の2院で構成され、内閣総理大臣を指名する権限をもっている。また国民の基本的人権を「侵すことのできない永久の権利」とし、自由権・平等権・社会権・参政権・請求権を規定していることも画期的であった。
新憲法は、その内容のみならず、平仮名・口語体であることも画期的であった。従来の法律はすべてカタカナ・文語体であったが、これ以降の法律は憲法にならって文体・表記が改められた。
日本国憲法は、主権在民・平和主義・人権尊重の3つの柱を基本原理とした。前文で「主権が国民に存することを宣言」し、第1条で「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基く」と、国民と天皇との関係を規定した。平和主義について第9条で、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とし、同条2項で「前項の目的を達するために、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」としたことは、当時どこの国の憲法にも例をみないことであった。国会が「国の最高機関」と明確に位置づけられた点も明治憲法との比較上注目される。国会は衆議院と参議院の2院で構成され、内閣総理大臣を指名する権限をもっている。また国民の基本的人権を「侵すことのできない永久の権利」とし、自由権・平等権・社会権・参政権・請求権を規定していることも画期的であった。
新憲法は、その内容のみならず、平仮名・口語体であることも画期的であった。従来の法律はすべてカタカナ・文語体であったが、これ以降の法律は憲法にならって文体・表記が改められた。
経済・社会の民主化
財閥解体
「軍国主義の永久排除」というポツダム宣言の基本原則のもとに「経済の非軍事化」が占領政策の主要目標の一つとされていた。占領初期の改革における経済の民主化は、財閥解体、農地改革、労働組合の結成の3本柱で行われた。
財閥の支配する経済体制のもとで、日本の労働者は低賃金に抑えられ、そのため国内市場の狭隘さから輸出の重要性を高め帝国主義的侵略への衝動をもたらした、と占領政策立案者は考えていた。農村の地主的土地所有制もまた低賃金労働者を大量に生み出す温床と見られた。占領当局による財閥解体・地主制解体は、所有権を否定するほどの厳しさで断行された。
45年11月、総司令部は持株会社解体指令を発し、三井・三菱・住友・安田をはじめとする15財閥の資産の凍結・解体を命令した。これによって各財閥の本社機能は停止した。翌年8月持株会社整理委員会が発足し、持株会社・財閥家族から譲渡された有価証券を一般に売却し、同時に経済パージ(経済人の公職追放)を実施し株と人による財閥支配体制が解体された。4大財閥をはじめとする10財閥家族56人は保有株を整理委員会に委譲し、一切の会社役員の地位から離れた。
47年4月公布の独占禁止法は、将来にわたって独占を禁止する措置であるが、国際的にみて最も厳格な法律といわれたもので、トラストの結成や一切のカルテル行為の禁止はもちろん、国際カルテルへの加入、会社役員の兼務、法人が他の法人の株主になることまで禁止していた。同年12月公布の過度経済力集中排除法は、既存の巨大独占企業を分割する措置であった。当初は325社を指定したが、この法の実施期間が占領政策の転換期にあったために、実際の分割は、日本製鉄、三菱重工業、王子製紙など11社にとどまった。
財閥の支配する経済体制のもとで、日本の労働者は低賃金に抑えられ、そのため国内市場の狭隘さから輸出の重要性を高め帝国主義的侵略への衝動をもたらした、と占領政策立案者は考えていた。農村の地主的土地所有制もまた低賃金労働者を大量に生み出す温床と見られた。占領当局による財閥解体・地主制解体は、所有権を否定するほどの厳しさで断行された。
45年11月、総司令部は持株会社解体指令を発し、三井・三菱・住友・安田をはじめとする15財閥の資産の凍結・解体を命令した。これによって各財閥の本社機能は停止した。翌年8月持株会社整理委員会が発足し、持株会社・財閥家族から譲渡された有価証券を一般に売却し、同時に経済パージ(経済人の公職追放)を実施し株と人による財閥支配体制が解体された。4大財閥をはじめとする10財閥家族56人は保有株を整理委員会に委譲し、一切の会社役員の地位から離れた。
47年4月公布の独占禁止法は、将来にわたって独占を禁止する措置であるが、国際的にみて最も厳格な法律といわれたもので、トラストの結成や一切のカルテル行為の禁止はもちろん、国際カルテルへの加入、会社役員の兼務、法人が他の法人の株主になることまで禁止していた。同年12月公布の過度経済力集中排除法は、既存の巨大独占企業を分割する措置であった。当初は325社を指定したが、この法の実施期間が占領政策の転換期にあったために、実際の分割は、日本製鉄、三菱重工業、王子製紙など11社にとどまった。
農地改革
農地改革指令は45年12月に出され、46年2月から農林省によって推進された。第一次農地改革では、日中戦争下の38年に制定された農地調整法の改正という形で進められた。この改正で、小作料が金納化され、不在地主の全貸付地、平均5町歩を超える在村地主の貸付地を解放の対象としたが、総司令部からは不十分とみなされた。
総司令部は、農地改革の件を対日理事会に付議し、ソ連とイギリスが改革の試案を提出した。総司令部はイギリス案を骨子とした改革案を日本政府に提示し、不在地主の全貸付地と都道府県平均1町歩(北海道は4町歩)を超える在村地主の貸付地を国家が強制的に買収してそれを小作人へ優先的に売り渡すこととした。この改革のため自作農創設特別措置法が制定され、46年10月から第二次農地改革が実施された。農地調整法によって市町村・道府県に設置された農地委員会が実行機関となって改革は進められた。
この二次にわたる農地改革によって、全国500万町歩の農地のうち200万町歩がその所有者をかえ、小作地240万町歩の80%が解放された。大量の小作農が創設され、農村における地主の社会的地位も下落した。この措置によって、まもなく農村の生産力と農民の生活水準は劇的に向上していくのである。
総司令部は、農地改革の件を対日理事会に付議し、ソ連とイギリスが改革の試案を提出した。総司令部はイギリス案を骨子とした改革案を日本政府に提示し、不在地主の全貸付地と都道府県平均1町歩(北海道は4町歩)を超える在村地主の貸付地を国家が強制的に買収してそれを小作人へ優先的に売り渡すこととした。この改革のため自作農創設特別措置法が制定され、46年10月から第二次農地改革が実施された。農地調整法によって市町村・道府県に設置された農地委員会が実行機関となって改革は進められた。
この二次にわたる農地改革によって、全国500万町歩の農地のうち200万町歩がその所有者をかえ、小作地240万町歩の80%が解放された。大量の小作農が創設され、農村における地主の社会的地位も下落した。この措置によって、まもなく農村の生産力と農民の生活水準は劇的に向上していくのである。
労働改革
総司令部は45年10月の五大改革司令で、すでに労働者の団結権の確立を求めていた。日本側の原案に総司令部による若干の修正を加えた労働組合法が同年12月に制定され、団結権・団体交渉権・ストライキ権が保障された。
46年9月には、ストライキ権保障を前提として労働争議の予防・解決をはかるために労働関係調整法が制定された。さらに47年4月には労働基準法が制定され、週48時間労働、女子・年少者の深夜就業禁止など労働条件の最低基準が決められた。また、同年労働政策を担う労働省が設立された。
戦後の厳しい経済情勢と、労働者の団結権を保障する政策があいまって、労働組合及び組合に参加する労働者は急激に増加した。組合員数は、戦前の最高40万人から48年には660万人に増え、組織率も49年には56%に達した。
46年9月には、ストライキ権保障を前提として労働争議の予防・解決をはかるために労働関係調整法が制定された。さらに47年4月には労働基準法が制定され、週48時間労働、女子・年少者の深夜就業禁止など労働条件の最低基準が決められた。また、同年労働政策を担う労働省が設立された。
戦後の厳しい経済情勢と、労働者の団結権を保障する政策があいまって、労働組合及び組合に参加する労働者は急激に増加した。組合員数は、戦前の最高40万人から48年には660万人に増え、組織率も49年には56%に達した。
教育改革
教育改革も五大改革指令に含まれており、総司令部の中では民間情報教育局(CTE)が担当した。まず45年10月、軍国主義教育が停止され、教科書の軍事関係部分の削除が命じられた。ついで、好戦的国家主義者や侵略の積極的推進者が教職から追放された。同年12月には、修身・日本歴史・地理について旧来の教科書による授業が停止され、新しい教科書「くにのあゆみ」「日本の歴史」などが急遽編纂され使用された。歴史・地理は47年9月からは社会科という新教科に再編された。
教育行政に関しては、米国から教育使節団が46年3月来日し、改革を勧告した。これに基づいて47年3月、民主主義的教育理念を明示し、教育の機会均等、9年制の義務教育、男女共学などをうたった教育基本法が公布・施行された。同時に制定された学校教育法は6・3・3・4制の単線型学校体系を規定して、同年4月からこれに基く新学制がスタートした。また、教育の民主的コントロールをめざし、48年7月に教育委員会法を公布し、公選制の教育委員会を都道府県・市町村に設置することになった。
なお、戦前の国家主義教育の理念的礎であった「教育勅語」は48年6月、国会決議によって正式に失効した。
教育行政に関しては、米国から教育使節団が46年3月来日し、改革を勧告した。これに基づいて47年3月、民主主義的教育理念を明示し、教育の機会均等、9年制の義務教育、男女共学などをうたった教育基本法が公布・施行された。同時に制定された学校教育法は6・3・3・4制の単線型学校体系を規定して、同年4月からこれに基く新学制がスタートした。また、教育の民主的コントロールをめざし、48年7月に教育委員会法を公布し、公選制の教育委員会を都道府県・市町村に設置することになった。
なお、戦前の国家主義教育の理念的礎であった「教育勅語」は48年6月、国会決議によって正式に失効した。
占領初期の社会
復員・引揚げ・戦災孤児
空襲による都市と産業施設の被災で経済機構が麻痺したなかで、国内外の軍人の復員、中国・朝鮮・台湾・南洋諸島等の海外居留民の引揚げにより国内の人口は急増した。45年の米の凶作もあいまって、国内の食料はじめ生活物資は極度に不足した。復員すべき軍人は350万人、軍需工場の労働者は400万人、引揚者が280万人と推計された。(海外からの軍人の復員、居留民の引揚げは、45年11月ごろから本格化し、46年5月ごろまでには大半が帰国した。)加えて国内の産業施設の被災等のため、失業者は全体で1400万人にのぼるとみられていた。住宅は絶対的に不足し、浮浪者が町にあふれた(特に戦災で親を失った孤児たち)。
生活物資は戦中から配給制になっていたが、いまやそれでは各家庭まったく足りないため、人びとは農村へ買い出しに出かけた。また都市には闇市が生まれ、人びとはそこで争って物資を調達した。それでも多くの人びとは飢餓線上にあった。
生活物資は戦中から配給制になっていたが、いまやそれでは各家庭まったく足りないため、人びとは農村へ買い出しに出かけた。また都市には闇市が生まれ、人びとはそこで争って物資を調達した。それでも多くの人びとは飢餓線上にあった。
インフレと預金封鎖
45年11月から生活物資を中心とする物価が急速に上昇し始めた。供給不足に加えて、臨時軍事費での支払い分が終戦と同時に決済されたことや預貯金引き出しによる換物行動が激化したことにより通貨発行量が急増したために、悪性インフレが生じたのである。
幣原内閣はインフレを抑えるため46年2月金融緊急措置令を出した。5円以上の日本銀行券を金融機関に強制的に預けさせ、既存の預金とともに「封鎖」し、生活費などに限って新券(新円)で払い出しを認める(一世帯月の引き出し額を500円以内に制限)というものであった。
預金封鎖は、激しくなっていた預金引き出しに歯止めをかけ、金融機関の経営危機を救済する役割を果たした。また、インフレは一時進行を鈍化させたものの、効果は長続きしせず、半年後には再び激化していった。。
幣原内閣はインフレを抑えるため46年2月金融緊急措置令を出した。5円以上の日本銀行券を金融機関に強制的に預けさせ、既存の預金とともに「封鎖」し、生活費などに限って新券(新円)で払い出しを認める(一世帯月の引き出し額を500円以内に制限)というものであった。
預金封鎖は、激しくなっていた預金引き出しに歯止めをかけ、金融機関の経営危機を救済する役割を果たした。また、インフレは一時進行を鈍化させたものの、効果は長続きしせず、半年後には再び激化していった。。