dunpoo @Wiki
★1983年
最終更新:
dunpoo
-
view
「不沈空母」と「戦後史の転換点」
中曽根首相は、83年明け早々に訪韓した。日本の首相として戦後初の公式訪問であった。日韓間は、82年の教科書問題以来ぎくしゃくしていたが、首相は周到に訪韓を準備し、全斗煥大統領との間で「新次元の日韓関係」をうたう共同声明を出し、晩餐会では韓国語でスピーチするなど友好ムードを盛り上げた。
翌週には訪米、「日米は運命共同体」「日本列島を(対ソの)浮沈空母に」と発言し、レーガン政権と一体になり東アジアにおける反ソ軍事同盟に積極的に関わる意思を鮮明にした。
帰国後の国会での施政方針演説で、中曽根は「日本は今、戦後史の大きな転換点」にあるとし、「従来の基本的な制度や仕組みをタブーなく見直す」と高言した。外交でも内政でもこれまでの政権の「保守本流」政治路線から離れようとする意志は明確であった。
翌週には訪米、「日米は運命共同体」「日本列島を(対ソの)浮沈空母に」と発言し、レーガン政権と一体になり東アジアにおける反ソ軍事同盟に積極的に関わる意思を鮮明にした。
帰国後の国会での施政方針演説で、中曽根は「日本は今、戦後史の大きな転換点」にあるとし、「従来の基本的な制度や仕組みをタブーなく見直す」と高言した。外交でも内政でもこれまでの政権の「保守本流」政治路線から離れようとする意志は明確であった。
第13回参議院選
83年4月の統一地方選挙・知事選では、北海道で社会党推薦の横路孝弘、福岡県で社共両党推薦の奥田八二が、ともに自民党系候補を破って初当選した。革新自治体の流れはまだ健在に見えた。
6月26日の参院選挙では、自民党は議席を前回より2つ減らしたが、改選126議席中過半数を上回る68を取り、まずまずの成績であった。野党は、社会22,公明14、共産7、民社7と、前回とほとんど変わらない獲得議席数であった。
今回の参院選は、前年の公選法改正で全国区を比例代表区に変えた後の初めての選挙であった。自民党の比例区での相対的得票率は、35.3%であった。
6月26日の参院選挙では、自民党は議席を前回より2つ減らしたが、改選126議席中過半数を上回る68を取り、まずまずの成績であった。野党は、社会22,公明14、共産7、民社7と、前回とほとんど変わらない獲得議席数であった。
今回の参院選は、前年の公選法改正で全国区を比例代表区に変えた後の初めての選挙であった。自民党の比例区での相対的得票率は、35.3%であった。
田中有罪判決と83年総選挙
83年10月12日、東京地裁は、田中角栄の収賄を認め懲役4年の実刑判決を下した。野党は、田中の議員辞職勧告決議案を提出し、解散を要求した。中曽根首相は、野党と世論に押され、しぶしぶ田中邸を訪問し、「一人の友人として・・・助言」した。しかし田中に辞職の意志は毛頭なかった。国会は一ヶ月あまり空転した。首相は自民党への風当たりの強いこの時期の解散を避けたかったが、衆参両院議長の斡旋で、11月に解散となった。
12月18日の総選挙はやはり自民党の大敗となった。36議席を減らして250議席と、過半数割れであった。しかしその中で、田中派だけは2減にとどまり、田中自身も無所属で立候補して過去最高得票で当選した。社・公・民がそれぞれ議席を伸ばした。新自クは前回の12から8に議席を減らした。
福田と三木は中曽根の退陣を求めたが、中曽根は、「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」という総裁声明で切り抜け、一方で新自由クラブとの連立交渉をまとめた。
12月18日の総選挙はやはり自民党の大敗となった。36議席を減らして250議席と、過半数割れであった。しかしその中で、田中派だけは2減にとどまり、田中自身も無所属で立候補して過去最高得票で当選した。社・公・民がそれぞれ議席を伸ばした。新自クは前回の12から8に議席を減らした。
福田と三木は中曽根の退陣を求めたが、中曽根は、「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」という総裁声明で切り抜け、一方で新自由クラブとの連立交渉をまとめた。