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★1982年

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財政再建の行き詰まり

行政改革への各省庁の抵抗は激しく、また景気の落ち込みで税の減収もあり、財政再建は難航した。公務員給与の引き上げをめぐっては野党が抵抗、国会審議拒否もあった。生産者米価の引き上げでは与党と土光会長が対立した。81、82年度と続いて政府は歳入欠陥に陥った。
臨調第三次答申(基本答申)は、84年度に赤字国債ゼロという当初目標を棚上げし、また間接税増税を容認するものとなった。また、国鉄、電電、専売の3公社の民営化を提言した。
党内では、田中派の数と影響力が増すにつれ、福田派など非主流派との軋轢も大きくなってきた。
財政再建の行き詰まりと、角福の怨念の闘争の再燃を危惧する鈴木首相は、総裁選を前にした82年10月、突然再選不出馬を表明した。

中曽根内閣

後継総裁選びでは、中曽根総理・福田総裁の「総総分離」案などで調整が図られたが、福田派の権力掌握をなんとしても避けたい田中の妨害によってまとまらず、中曽根、河本、安倍、中川の4人が立つ予備選になだれこんだ。下馬評は河本優位であったが、結果は田中派が全力でバックアップした中曽根が過半数を獲得。本選の前に中曽根総裁が確定した。
11月に発足した中曽根内閣では、後藤田正晴官房長官、二階堂幹事長はじめ、田中派の重用が目立ち、マスコミはこれを「田中曽根内閣」と揶揄した。

第2回国連軍縮特別総会 「ノー・モア・ヒバクシャ」の声響く

82年6月6日、第2回国連軍縮特別総会がニューヨークの国連本部で開幕した。この総会に向けて欧米では反核運動が高揚、ロンドンのデモを皮切りに、6月12日にはニューヨークで100万人国際デモが行われ、日本からも1200人が参加した。
この総会では、長崎で被爆し全身に大火傷を負い後遺症に苦しんできた山口仙二が、被爆者として初めて国連で演説。自らの顔や身体のケロイドの写真をかざしながら、「ノー・モア・ヒロシマ、ノー・モア・ナガサキ、ノー・モア・ウォー、ノー・モア・ヒバクシャ」と訴えた。
7月10日までの期間、139カ国と非政府諸組織が参加して討議したが、東西対立のもと、包括的軍縮計画の合意ができず閉幕した。
だが、特別総会により灯された世界の核廃絶への志は消えず、12月13日、国連総会は、「核凍結」と「核不使用」の両決議案を採択した。総会での核凍結決議は初めてのことであった。米英仏は両案に反対、日本は米国の核の傘の下にあるとの事情で「核凍結」に反対、「核不使用」には棄権した。
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