都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい。礼節上2階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民は主に迷路のような「地べた」で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た個体および液体の汚物を受ける穴か溝で狭められられている。悪臭紛々のその穴や溝の横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬もちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしたりしている。路地にはまた「小間物」とアニリン染料で染めたけばけばしい色の飴を売る行商人もいて、溝の上に板をさし渡し、おそらく1ドル程度の品物を並べている。こういった溝に隣接する家屋は一般に軒の深い藁ぶきのあばら家で、通りからは泥壁にしか見えず、ときおり屋根のすぐ下に紙を張った小さな窓があって人間の住まいだと分かる… かわら屋根の反り返った上流階級の家庭でも、通りから見た体裁の悪さという点では何ら変わりがない。
商店も概してみすぼらしいのは同じである。在庫品全部を買っても6ドル程度の店がたくさんある… おもな商品は白い綿地、わらじ、竹の帽子、素焼きのかめ… 大量の干した海藻と干しきのこといったもので、その他に安価な灯油ランプ、手鏡、安物くさい花瓶などといった外国製の不要品から一番くだらないものばかりを選んできたような品々は、どれをとっても悪趣味のきわみとしか言いようがない。黒いうるしに貝の真珠層か何かを埋め込んだ古風なデザインの象嵌製品にはときとして掘り出し物がある。金糸の刺繍をほどこした絹地もあるが、デザインがまずく、色合いはなんともすさまじい
(中略)
南山の美しい丘からはソウルの全景が眺められる。周囲の山々は松の木立が点在するものの、大部分は緑がなく、黒い不毛地のうねりとなってそびえている。こういった山々の取り囲む盆地の中に20万の人々がひしめきあっている。城内は大半が藁ぶきの低い茶色の屋根の海で、林も広場もなく、単調きわまりない。この茶色の海から突き出ているいるのが城門の反り返った二重屋根と灰色花崗岩の王宮の石塀で、その中にさまざまな殿舎の大きな屋根がある。東の城門から西の城門へと広い通りが市街を貫き、この通りから南の城門へともう一本の通りが走っている。中央の大通りからはさらに幅95ヤードの広い道路が王宮へと向かっている。常にじゃま物のないようきれいに片付けられているのはこの通りだけで、ほかの街路は屋台店が両側に並び、通行用には狭い道幅しか残っていない… しかし何百本とある、もっと狭くてしかもその幅が軒やどぶで狭められている路地では、人間どうしがすれ違うがやっとだ。何マイルも続く土壁と深い軒、どろどろとした緑色の溝、黒ずんだ排気口の間には、男性の住民と荷物の運搬人以外、動くものはあまりない。どの家も犬を飼っており、四角い穴から犬は家に出入りする。よそ者が来れば激しく吠え、傘をふると逃げていく。犬はソウル唯一の街路清掃夫であるが、働きはきわめて悪い。また人間の友だちでもなければ、仲間でもない。朝鮮語をはじめ人間の話すあらゆる言語に取り合わない。夜間吠えるのはどろぼうがいるからである。飼い犬といえどほとんど野犬にひとしい。若い犬は春に屠殺され、食べられてしまう。
昼間水をくんだり洗濯したりする女性の多くは下女で、全員が下層階級の人々である。朝鮮の女性はきわめて厳格に家内にこもっている。おそらく他のどの国の女性よりも徹底してそうではなかろうか。ソウルではとても奇妙な取り決めが定着している。8時に《大釣鐘》が鳴り、それを合図に男たちが家に引きこもると、女たちが家から出て遊んだり友人を訪ねたりするのである。私が到着したのもそんな時間帯であり、まっ暗な通りにあるのは、もっぱらちょうちん片手の召使いをお供にした女性の姿だけという異様な光景であった。ただし、盲人、官僚、外国人の従僕、そして処方箋を持って薬屋へおもむく者はこの取り決めから除外される。投獄を免れるためにこういった肩書をかたる場合は多く、長い棒を手に入れて盲人のふりをする者もままある。12時にもう一度鐘が鳴ると、女たちは家にもどり、男たちはまた自由に外出できる。ある地位の高い女牲は、昼間のソウルの通りを一度も見たことがないと私に語った。
夜間の静けさはきわめて印象的である。鼻歌ひとつ、咳ひとつ聞こえず、ひそとも人の気配がない。通りに面していて、なおかつ明かりのともった窓というのがほとんどないので、暗さも徹底して暗い。静寂を破って届く《大釣鐘》のゴーンという低い音には、不吉ともいえる響きがある。
「朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897年 (時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫)
朝鮮時代、全権大使としてアメリカに渡った李成玉が各民族に接してみると、朝鮮人は米国人に軽蔑されているインディアンより劣り、その他メキシコ、インドなどの民族より劣っていることを知り、衝撃を受け、次のように述べています。&br
「現在の朝鮮民族の力量をもってすれば、とても独立国家としての体面をもつことはできない。亡国は必死である。亡国を救う道は併合しかない。
そして併合相手は日本しかない。欧米人は朝鮮人を犬か豚のように思っているが、日本は違う。日本は日本流の道徳を振り回して小言を言うのは気に入らないが、これは朝鮮人を同類視しているからである。そして、日本人は朝鮮人を導き、世界人類の文明に参加させてくれる唯一の適任者である。それ以外に我が朝鮮民族が豚の境涯から脱して、人間としての幸福が受けられる道はない。
日韓併合が問題になるのは、変な話だ。我輩の併合観は欧米人の朝鮮人観を基に考察したのだ。」
朝鮮全権大使 李成玉 「李完用侯の心事と日韓和合」
「日韓2000年の真実」名越二荒之助編著 国際企画(日本図書館連盟選定図書)
崔基鎬著:日韓併合(韓民族を救った「日帝36年」の真実):序章より
「韓国内地を旅行すれば、路傍や街路中に累々たる黄金の花(糞)が場所も嫌わず狼藉と咲き乱れて居て、足の踏み場もなく、 潔癖者は一見其不潔と臭気に驚くのだ。
現にこの国の中央都会の地たる京城(現在のソウル)の如き、一名を真の帝都と綽名されて居る程で、至る所人糞あるいは牛馬糞を見ざる無で、粉々たる臭気は鼻を襲い眼を顰める者とてない。
そこで京城市内を流れて居る川の如き各戸より、排泄する糞尿を混じ、この水は一種の黄色を帯び、ドロドロになって居るなど、 実に眼もあてられぬ光景で洗濯などに使って居る。なんと鼻持ちならぬ話ではないか。 毎年夏になると伝染病が流行し、その伝染病に罹る患者の多くは韓人で、 非常なる大流行を極め何千人を驚かすは珍しくない」
細井肇 「漢城の風雪と名士」』
李朝末期の韓国は、政治が乱れに乱れていた。宮廷は国民の大多数が生活苦に喘いでいるのをよそに、政争に明け暮れていた。役人や、両班はみな私欲にかられて、自らの栄達と蓄財のみを求めて、弱い民衆を摂取することだけしか考えなかった。そのために社会道徳が乱れて、精神も文化も経済も疲弊した。売官売職は普通のことだった。どこでも賄賂がまかりとおった。黄金の力と暴力が支配していた。 政治は不正行為の別名しかなかった。民衆への収奪が極限に達していた。
いつもハルサリ(その日暮らし)を強いられていた庶民は、こき使われるだけこき使われ、乱暴されるだけ乱暴されて、まったく希望をいだくことができない日々を送っていた。社会が停滞しきっていた。火賊や山賊と呼ばれる盗賊が横行していた。火賊は村を襲うときは放火して、その混乱の中で略奪したためにそう呼ばれた。日本人は徳川幕府末期の日本について大いに誇ることができようが、情けないことだが、韓国人としては李朝末期については何一つ誇ることができない。
「醜い韓国人」光文社 著者 朴泰赫
朝鮮の両班は、まるで支配者か、暴君のごとくふるまっている。両班は、金がなくなると、使者を送って商人や農民を捕えさせる。その者が手際よく金を出せば釈放されるが、出さない場合は、両班の家に連行され投獄され、食物も与えられず、両班が要求する額を支払うまでムチ打たれる。両班の中で最も正直な者たちも、多かれ少なかれ、自発的な借用の形で自分の窃盗行為を偽装するが、それに欺かれる者は誰もいない。なぜなら、両班たちが借用したものを返済したためしが、いまだかってないからである。彼らが農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合支払いなしで済ませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止する守令は一人もいない。」
マリ・ニコル・アントン主教
「両班はキセルですら、自分で持つことをせず、徹底して何もしないのが習わしであった。」
「両班はいつも借金で首が回らず、何かちょっとした官職の一つでも回ってこないかと首を長くしており、それを得るためにあらゆる卑劣な手段な行為をつくし、それでもなお、望みがかなえられない場合には飢えて死んでしまう。」
イザペラ・ルーシー
ハングルが全国民に教えられるようになったのは、日帝時代になってからのことである。韓日併合の翌年の1911(明治44)年から、総督府によって朝鮮教育令が施行され、初、中、高等学校で朝鮮人、日本人の生徒の区別なく、ハングルを必修科目とすることに決められた。もちろん、朝鮮教育令は朝鮮人を、忠良な日本国民に仕立てることを目的としていた。私が日帝時代に小学校へ通っていた時は、朝鮮語がよくできる日本人教師は、月2円の加俸があった。当時の1円は今日の日本円の数万円に相当しただろう。もっとも、昭和10年代に入ってから「皇民化教育」が強められると、日本語が強調されて、ハングルが教えられなくなった。だがハングルをはじめて韓国民に教えた総督府の功績も、忘れてはならない。
「韓国 堕落の2000年史」 崔基鎬 平成13年 詳伝社
『大事なのは教育だ。このことに限ってみても、日本人は非常に冷静に、本国でやってるのと同じ教育をこの朝鮮でもやった。これは多とすべきだ。
私がそのいい例ですよ』
『私は貧農の息子で、学校に行きたいなと思っても行けなかった。日本人がやって来て義務教育の制度を敷いて、子供を学校に送らない親は処罰するといった。
日本人に叱られるからというんで学校に行けた。その後、師範学校、軍官学校に進み、そこの日本人教官が、お前よくできるな。
日本の市谷の士官学校に推薦するから行けと言って入学。首席で卒業し、言葉も完璧でなかったかもしれないが、生徒を代表して答辞を読んだ。
私はこのことを非常に多とする。相対的に白人がやった植民地支配に比べて日本は教育ひとつとってみても、かなり公平な、水準の教育政策をやったと思う』
朴元大統領と石原慎太郎の会談の中での発言
朴正熙 元韓国大統領の発言(中曽根元首相との対談より)
「私は貧農の生まれで学校に通うなど思いもよらなかったが、日本人の役人が両親を説得して小学校に行く事が出来た。そしたら学校の教師がお前は頭が良いから無料の師範学校に行った方が良いと推薦してくれた。師範学校では更に優秀さを認めてくれて陸軍士官学校に推薦してくれた。その結果士官学校首席として日本人同期生のトップで卒業し、陸軍将校に成る事が出来た。今の私が有るのは清廉で誠実な日本人達のおかげである。」
最終更新:2013年01月02日 11:53