イキカエル◆Ok1sMSayUQ
それは奇妙な『鬼ごっこ』だった。
迫り来る巨大な犬らしき生物と、その主人と思しき少女。
正確には犬が一方的に追い回し、少女は御しきれずに引っ張られているだけという風であったが、当の本人、
サクヤには関係のない話だった。
怖いと思うより困惑の方が強かった。なぜいきなり追いかけられる羽目になっているのか。
特に犬に好かれるような性質を持っているわけではないし、そんな匂いも出してはいない……はずだった。
一旦落ち着かせようにも主人は引っ張り回されていることから相当の力だと窺い知れる。
つまり、このまま圧し掛かられると腕力に自信のない自分は怪我をしかねない。
しかしどうする術も持てず、とりあえず逃げ続けているのが今のサクヤだった。
「ヲフ! ヲフヲフ!」
「だ、だからぁ~! 私のどこがいいのよぉ~!」
「わーっごめんなさいごめんなさい許してください~!」
三者三様、交わることのない言葉を飛ばしながら続く追走劇。
こんなことをしている場合ではないのに。我が身の至らなさを嘆きながら、サクヤは主である、アムネリネウルカ・クーヤのことを思い出していた。
若年にしてクンネカムンの皇を務める一方、年相応の少女らしい可憐さを持ち、侍女にしか過ぎないサクヤにも快く接してくれる皇。
幼いころからの付き合いであるとはいえ、仮にも皇と侍女という立場なのだからと諌めても逆に叱られる始末で、それが悩みの種であり、また嬉しいことだった。
立場が変わり、年をとってもなお友人であり続けてくれる彼女は、一生を賭してでも仕える意味のある皇だだった。
身分の垣根を越えて接してくれる彼女であるなら、民族の壁さえ越えてくれるのではないか。
シャクコポル族の歴史をも塗り替える、新しい時代を切り拓いてくれるのではないか――
そんな世界を見てみたかった。だから、生きて帰るためにも一刻も早くクーヤと合流しなければならなかったのだが。
「ヲフヲフー!」
……目の前の脅威をどうにかする必要があった。
せめて、エヴェンクルガ族の猛者であるゲンジマルが、自分の祖父さえいてくれれば。
稀代の英雄と呼ばれ、数々の敵を打ち倒してきた祖父ならば……
「ヲフー!」
あんまり呼びたくなかった。
というより、その孫であるはずの自身がどうにもできないことに情けなさを感じるばかりだった。
こんなことなら侍女としての仕事だけではなく体力づくりにも励んでおけばよかったと軽く後悔しかけていると、ふらりと木々の陰から一人の人物が姿を現した。
膝下までかかる長い着物を身に纏い、長髪を頭の上で結い、すっきりとまとめ上げた髪型が印象的な人物だった。
何よりも目に付いたのは……祖父と同じ、エヴェンクルガ族特有である、鳥の羽を思わせるしなやかな形状の長耳である。
エヴェンクルガ族が押し並べて戦闘能力が高いとされるのは、この長い耳によって広く空間の音を拾い、的確に相手の位置を掴むからだと言われている。
加えて民族の特徴である体格の良さと、常に努力を惜しまない向上心が強さを決定付けている。
要するに、民族的な気質からして真面目であり、武人向きなのだ。
サクヤ自身が勤勉だという自負があるのも、このエヴェンクルガ族の気質を受け継いでいるからだと思っている。
もっとも、身体的な部分に関しては血が薄くなってしまっているのか、比べるべくもなかったのだが。
とにかくこれでこの硬直状態をなんとかすることができそうだと考えたサクヤは、「あ、あの!」と助けを求めた。
迷いもなく声をかけられたというのは追いかけられていて深く考える暇がなかったということがあったのがひとつ。
同じエヴェンクルガの血を持つ者として、奥底で安心感を抱いていたというのがひとつだった。
サクヤの存在に気付いた相手は、一目見て状況を把握したのか、任せろというように向き直る。
腰に差している木刀の柄に手をかける。恐らくあれで一時的に犬を気絶させるのだろう。
少々かわいそうだったが、状況が状況だった。
それをどうにもできない自分に心底情けない気分になりながら、交代しようとして――
「御免」
小さく、その一言が呟かれた。
同時、喉に衝撃が走る。エヴェンクルガ族の血は伊達ではないらしく、驚異的な速度と重さを伴った一撃がサクヤの喉を押し潰す。
攻撃されたのだと分かったのは、悲鳴も上げられずよろりと前のめりに倒れかけたときだった。
いや、声が出なかったのは声帯が潰されたからに他ならない。どうしよう、これでは主の世話に支障を来してしまうではないか。
声が出なくなってしまっては、友達としてのお喋りだって……
場違いな思考を浮かべる間に、今度は背後から。後頭部目掛けて木刀が振り下ろされた。正確には、感じていた。
頭が揺れ、割られる衝撃だった。痛みは一瞬だけで、その後に見えたのは何もない空白だった。
そして、そのまま……考えることも、できなくなった。
* * *
「……へ」
ようやく動きを止めた犬の近くで塚本千紗が感じたのは安心感でも怒りでもなく情けなさでもなく、混乱だった。
突如として目の前に現れた長身の、さながら武士のようないでたちをした人物が、木刀で殴り殺したのだ。
人を。先程まで目の前を走っていた人を。まだ名前さえ知らなかった人を。
なんで? いきなりどうして?
状況が理解できない。いや、理解したくなかった。
だって、だって、自分は、ただ……
ただ? 続きを思い浮かべようとして、それが言い訳であることに気付いたのはすぐだった。
止めきれてさえいれば。まだ名前も知らなかったあの女性は。変な耳が特徴だったあの女性は死ななかった。
あまりにも遅過ぎる後悔だった。ごめんなさい、では済まされない、もう取り返しのつかないことをしてしまった。
殺した。殺した。殺した。いつものようにドジを踏んで、人として最低のことを……
「ふむ」
近くにあったデイパックを拾い上げ、女性を殺した、またしてもおかしな耳が特徴的な長身の人物が千紗の方を向く。
質素なロングコート風の着物と、紐で長髪を結っただけのシンプルな格好。飾らない人だという印象を抱いたのは一瞬で、
千紗を睨む、その目を見ただけで恐怖に射竦められてしまった。
間違いなく、肉食動物が獲物に狙いを定めたときの目だった。
直感する。このままでは、自分も殺されると。あの女性のように、殺されると。
木刀を持つ殺人者のすぐ傍で頭から血を流して倒れている『遺体』を見た瞬間、それまで抱いていた罪悪感は消し飛んだ。
「あ、あ、あ」
殺される。あんな風に。入れ替わりに抱いた感情は恐怖で、命がなくなってしまうことに対する恐怖だった。
それ以外何も考えられなかった。体が震え、立っていることもできなくなり、ぺたんと尻餅をついてしまう。
足に力が入らない。いや全身に力が入らない。何も、することができない。
「い、いやです、こ、ころ、ころさないで」
一歩ずつ詰め寄ってくる殺人者に対して、千紗が行った行動は命乞いだった。
恥も外聞もなく、自分が人を間接的に殺したという罪悪感も押し退けて、命を優先させた。
道徳や論理など関係なかった。死ぬことは、怖い。ただそれだけの事実を前に、千紗の常識など何の意味もなかった。
突然、家の中に侵入していた強盗と出くわした気分に近いものがあった。
なぜ。どうして。そんなことは関係なく、死を喉に突きつけられる。
日常の中で考えることさえせず、頭の隅に押しやっていた、しかしどこかであるはずの現実を突きつけられる。
けれどもどうする術も持てず、けれども怖さから逃れたいあまりの命乞いだった。
本能的に生き延びようとする体が必死に地面を掴み、殺人者から離れようと後退を始める。
爪が剥がれそうなくらい力を込めて、ずるずると尻を引きずりながら逃げる。
「そうだな」
それを見ていた殺人者は、千紗から目を逸らし……いや、別の方向を見据え、呼びかけていた。
「後は貴殿に任せる。なあ、クロウ殿」
えっ、と千紗は思わず釣られて、振り向いてしまっていた。
すぐ近くにあった木々の間を縫うようにしてやってくるのは大柄の男。
分厚い鎧を着込み、いかにも筋骨隆々の、短髪の男だった。
挟まれたと思う以前に、最初からこういうことだったのかという事実が千紗を突き抜けた。
あの女性の死は突発的なことではない。恐らく、騒ぎを聞きつけたこの二人組は二手に分かれ、挟み撃ちにして殺す準備をしていたのだ。
既に殺し合いは始まっている。手を組み、効率的に殺そうとする人間がいてもおかしくなかった。
殺そうとしている。誰も彼も。自分達はたまたま出遅れていたというだけで、だから標的になった。
それだけのことであり――そして、絶望だった。
「あ、あ……や、いやあぁぁぁぁっ!」
今度こそ、恐怖に抗えなかった。涙を流し、髪を振り乱して男を声で拒絶する。
「な、おい……待て、どういうことだ手前ぇ!」
「任せると言ったまでだ。では、某は勤めに戻らねばならぬのでな。失礼する」
「待ちやがれ! っ、クソッ!」
第一の殺人者の気配は遠ざかったものの、それで危機を脱したわけではなかった。
今も目の前には自分を殺そうとする、第二の殺人者がいる。
逃げなきゃ。逃げなきゃ、逃げなきゃ。
しかし体が動かない。あの太い二の腕は木刀よりも恐ろしいもののように見えていた。
あの腕で首を掴まれ、絞め殺されたら……少し想像しただけでも怖気が走る。
「あ、あのな、お前さん――」
「ヲフッ! ヲヲー!」
ずい、と殺そうと踏み込んできた男に立ちはだかるように、先程まで千紗を引っ張りまわしていたはずの犬が飛び込む。
壁のようになった巨体はそのまま男に倒れ掛かる。突然の攻撃に面食らったのか、対応する間も持てずに男は押し倒される。
「な、おい、コラ!」
押し退けようとするも想像以上の重さであるらしく容易に動かすことさえできていない。
その様子を呆然と眺めていた千紗を叱咤するように、犬が振り向き、吼えた。
「え、あ……」
逃げろ。そう言っているように、千紗には思えた。
こんな危機を招いてしまった責任を取るように。これ以上犠牲者を出させまいとするように。
大きく、伸びるような、狼を想起させる野太い鳴き声が森に木霊し、木々を震わせた。
「あ、あ……ああああああっ!」
そしてそれは、千紗の動かなくなっていた体も動かした。
ばね仕掛けの玩具のように立ち上がり、一目散に、わき目も振らずに逃げ出す。
逃げろ、逃げろ! ただそれだけを念じながら、千紗は山の斜面を駆け下りてゆく。
心のどこかで、あの犬が犠牲になっているであろうことを、予感しながら……
それでも、死にたくなかった。殺人鬼だらけのこの島で、死にたくなかった。
走り抜ける千紗の頭に浮かんだのは、実家の塚本印刷の家屋であり、そこで一緒に暮らす家族の姿だった。
死にたくない。帰りたい。
殺し合いは、始まっている。
だったら。ならば、誰も彼もが他人を殺そうとしているこの場所で。
既に他者を犠牲にしてしまった自分がすることは。
自分ができる、正しいことは。
『生きて帰る』
それだけだった。
* * *
「……」
ようやく、自らを下敷きにしていた巨大な犬をどかし、クロウは立ち上がることができた。
しかし、既に誰の姿もない。不気味に蠢く木々と、シャクコポル族と思われる女性の遺体と、疲れ果てた犬がいるだけである。
「クソッ」
誤解を解くには、遅過ぎる時間が経過していた。
どかっと地面にあぐらをかき、座る。その横では犬がハヒー、ハヒーと荒い呼吸を繰り返していた。
妙に満足そうなのは主人を逃がしきったからなのだろうか。
クロウとしては腹いせに殺そうなどとは微塵も思わなかったものの、何となく腹が立った。
何にしろ、この犬のせいで殺人鬼と思われたのだから。
「ったく、責任取れよこの」
うりうりと乱暴に頭を撫で回してやると、犬は不思議そうに頭を傾けた。
それはそうだ。クロウ自身は、悲鳴を聞いて駆けつけたに過ぎなかった。
既に人が殺され、加えてあのトウカがその加害者になっていることは想定外にも程があったが。
いやそれだけではない。まるで置き土産でも残してゆくように、誤解の種まで撒いていった。
ただのうっかり者の剣士だと思っていたが、こんな策も弄せるとは思わなかった。
案外頭が切れるのかもしれないとトウカへの評価を改めながら、さてどうするとクロウは考えた。
現状、選択肢は三つ。
ハクオロ皇や上司であるベナウィを探し続けるか。
トウカに事の真意を聞くために追うか。
あの少女の誤解をとくか。
どれも重要なことであるのは間違いのないことだった。
やれやれと溜息を吐き出しながら、クロウはふと目に付いた女性の死体を見やった。
運が悪かったとしか言いようのない、シャクコポル族と思わしき女性。
普段なら、哀れの一言で片付けることもできたのだが――
「……身内の恥は、身内が濯ぐのが筋ってもんだな」
トウカが殺したこの女性を、放置しておくわけにはいかなかった。
立ち上がり、幾分早足で遺体の元へと向かう。
とりあえず、まずクロウがやるべきことは、丁重な埋葬を行うことだった。
【時間:1日目午後3時ごろ】
【場所:E-5】
クロウ
【持ち物:不明、ゲンジマル、水・食料一日分】
【状況:健康】
塚本千紗
【持ち物:水・食料一日分】
【状況:健康、服だけ割りとボロボロ】
サクヤ
【持ち物:なし】
【状況:死亡】
トウカ
【持ち物:木刀、サクヤの支給品、水・食料一日分】
【状況:健康】
最終更新:2011年09月06日 17:48