加藤一夫

加藤一夫(かとうかずお)〈1926年6月ー〉は、日本の経営者、実業家。
経済団体連盟会長(四代目)、近江グループ世話人会代表世話人(三代目)、東日本電機代表取締役社長、東海電機代表取締役社長。政財界における圧倒的な影響力は、その異名の通り「財界総理」と呼ぶにふさわしいものであった。

経歴

幼少期

父の加藤信明は、大阪日本鉄道大阪地下水道開発などの経営再建を実現させたプロ経営者。東京都に生まれるが、父の仕事の影響もあって関西で過ごす期間も長かった。府立四天王寺高等学校(現:四天王寺高等学校)卒業後に、陸軍に入営。大阪に駐屯していた第4師団の陸兵教育隊にて半年間の基礎教練中に1945年8月の終戦を迎える。終戦を迎えると、4月の空襲で焼失していた大阪の家を引き払って父とともに東京に帰郷。1945年10月に、父が東京発送電経営経理本部長に招致されたことに伴い、自身も東京での大学進学を考え始める。戦後の時期に大学受験の勉強を初め、1946年4月に東京大学に進学する。東大時代の1948年1月には、同級生らとともに戦後日本の新しい経済枠組み研究機関である「日本経済政策研究会」を立ち上げに参画。初代事務局長に就任する。東京大学経済学部金融学科を卒業。

共栄銀行行員時代

大学卒業後、日本経済政策研究会を脱退して近江グループ系列の共栄銀行に入行。新潟法人営業部、仙台法人営業部、仙台支店融資課長補佐、オランダ海外金融本部財政投融資企画室長を経て、静岡法人営業部次長兼静岡支店融資課長。静岡時代に、融資先として期待されていた中規模製造業者の東海電機株式会社に積極的に取引を行う。当時34歳であったが、他社出向として東海電機財務経理部長へ出向。1年後に、常務取締役として経営財政及び財政運用戦略を担当した。東海電機はその後、日本有数の白物家電専門メーカーとしてシェアを拡大。日本国内の流通網に白物家電を乗せるため、近江グループとの資本提携に舵を切った。1964年に資本提携を発表すると、共栄銀行からの引き抜きによって、東海電機に完全に移籍。

東海電機東日本電機

1964年、東海電機取締役副社長に就任。翌々年には、東海電機の経営権が近江グループ持ち株会に完全移行したため、創業家以外から初めてとなる代表取締役社長に就任。1968年には、東海地域青年会議所副理事長、翌年から理事長を3年間務める。1970年、近江グループ持ち株会での常任決議によって、東海電機のブランドイメージ刷新を目的とした、事業再構築方針が発出された。近江グループ持ち株会の下部組織である組織再編作業部会の委員として電機産業部門の企業組織再編成を主導。1972年、新ブランドとして設立された東日本電機株式会社で代表取締役社長に就任。1976年、近江グループが持ち株会から世話人会に組織移行すると、近江グループ世話人会非常勤役員に就任。

経済団体連盟

1975年、経済団体連盟の産業技術委員会委員に就任、その後、副委員長、委員長を歴任する。1980年、経団連理事に選任を受け、1985年より経団連副会長・産業技術委員長に就任。1987年、4代目の経団連会長に就任。経団連では、委員会での仕事が長かったが、理事昇進後は近江グループの後押しもあって日経連で脈々と出世。1987年には、10年間その地位にあった経団連の大隈繁太郎3代目会長が自ら進退にけりをつけたため、後任として選出される。経団連会長として、7年間にわたって経済政策を提言。東大の後輩で、日本経済政策研究会の出身者でもある船中勉と懇意であり、1987年の内原内閣成立以降、政府の経済政策を担当した。船中内閣では、首相官邸経済再生委員会委員長として個人的な経済諮問機関の役割を務めた。船中とは、東亜商事株式会社の山田健一郎社長が、東大の同期で日本経済政策研究会立ち上げメンバーという関係性がある。

近江グループ世話人会

経団連会長に就任した1987年4月、近江グループ世話人会専務理事に就任。翌々年の1989年4月、代表世話人に就任。前任の福森豊が年齢を理由に退陣したため、選任される。1995年、経団連会長退任と同時に、代表世話人の退任を発表。同年3月限りですべての役職から離れることとなった。

晩年

退陣後、1996年10月に共栄銀行取締役会長に復帰、代表権を持たない名誉職となる。翌年10月に、公益法人近江財団名誉理事に選任される。2001年9月、悪性リンパ腫のため永眠。

年表

1926年6月_東京都出身。
1945年3月_四天王寺高等学校卒。
1946年4月_東京大学進学。
1948年1月_日本経済政策研究会初代事務局長(-1950年3月)。
1950年3月_東京大学経済学部卒。
1950年4月_共栄銀行入行。
1950年8月_新潟法人営業部配属。
1952年4月_仙台法人営業部配属。
1953年10月_仙台法人営業部長代理補佐。
1954年10月_仙台法人営業部長代理。
1955年4月_仙台支店融資課長補佐。
1956年10月_オランダ海外金融本部財政投融資企画室長。
1958年4月_静岡法人営業部次長兼静岡支店融資課長。
1960年10月_東海電機財務経理部長へ出向。
1961年10月_東海電機常務取締役(財政投融資担当役員兼財政運用戦略室)。
1964年4月_東海電機取締役副社長(財政運用戦略室)。
1966年10月_東海電機代表取締役社長(-1970年9月)。
1968年10月_東海地域青年会議所副理事長。
1969年4月_東海地域青年会議所理事長(-1972年9月)。
1972年4月_東日本電機代表取締役社長。
1976年4月_近江グループ世話人会非常勤役員(-1988年3月)。
1987年4月_経済団体連盟会長(4代目)(-1995年3月)、近江グループ世話人会専務理事(-1989年3月)。
1989年4月_近江グループ世話人会代表世話人(-1996年10月)。
最終更新:2025年07月26日 02:33