船中勉(ふななかつとむ)〈1933年5月ー2011年9月〉は、日本の政治家。
戦後円熟期における日本発展の旗手である。
山口禄平太による漫画「
パパはサラリーマン総理」の主人公:船田励のモデルである。
来歴
幼少期
岐阜県出身。父親の
稲垣卓は、「
稲葉商会」の代表として成功しており、戦後の混乱期においてもその地位を確立していた。厳格でありながらも慈悲深く、彼に社会の役に立つことの重要性を教えたのが父であった。
岐阜高校卒業後、
東大文科一類に進学。多くの仲間たちが熱望した法学ではなく、経済学を専攻する。当時
経済学部教授で指導教官の
田辺浩一は、
マクロ経済学者として国内外で著名な人物であり戦後日本における
経済政策学の第一人者として知られた。戦後の動乱期、
民主化運動に連鎖した
学生運動の機運の中で一人政治哲学の核となる部分を形成していくことになる。この学生運動を静観していたもう一人の人物が、同じく経済学部で後のブレーンとして活躍する経済学者の
田中一郎だった。田中は若くして経済理論を極め、日本の経済政策に多大な影響を与える人物で、彼の政策にも大きく貢献することとなります。
サラリーマン時代
大学卒業後、新興貿易会社である
東亜商事株式会社に入社。アジア市場開発部営業課東南アジア担当、営業課担当課長(東南アジア統括)として、現地情報の収集に努めた。この当時において、海外の情報を収集することができたのは民間として異例のことであった。独立後すぐの
東南アジア諸国において開発独裁が発生しなかった最も大きな要因として、日本からの積極的な政府および民間への支援と経済市場への介入があった。その後、
インドネシアに対する電力開発プロジェクトのリーダーを経て部長代理に就任。そのころ、社長の
山田健一郎が所属する「
日本経済政策研究会」に誘われ入会。この研究会には、
佐野博之(
共和党参院議員)や
野口健三(共和党
代議士/後の
無派連合代表)などが参加しており、共和党系の
圧力団体という側面もあった。
政界進出
落選
薮田内閣の国民人気を背景に地方での
社会党票が結束。前回下した
田嶋あかり(無所属・社会党推薦)、落選した
佐藤結(社会党公認)が当選。2位候補に二万票差で落選した。全国唯一となる女性のみの当選区となる。落選後、共和党の岐阜2区立候補予定者として復帰するが、しばらくの間地方での活動がメインとなった。
岐阜国際医療大学客員教授として実際に国際的な医療協力体制に関する講義を行った。また、
日本経済政策研究会事務総長として、共和党の経済政策に提言を行うことになった。1975年4月に
保守共和合同によって
自由党に参加すると、自由党中部連合岐阜2区公認立候補予定者となる。全国で選挙区替えが起こったが、保守党の当選実績がない
岐阜2区は問題なく決まった。
復活当選
第24回衆議院総選挙では、復帰当選を果たすことになる。対立候補の
佐藤結が
社会党の
選対委員会と対立関係になったことで公認が下りず、無所属で「社会党系の地域政党
チーム岐阜」が推薦することになったが社会投票が集まらず当選することになった。この選挙では、
田嶋あかりに及ばぬ時点での当選になった。当選以後、
田嶋持清政審会長の推薦を受けて、空席人事だった内務部会長代行代理に就任する。この就任に際して、党大会に代わる
総務会は、当初否定的な見方だった。しかしながら、自身の懸案であるとして
商工官僚出身の
佐藤憲総務会長代行を委員長に迎えた産業構造再編特別委員会の委員長代行に就任した。総務会に人事権を委ねる政審会は、
党首の専制権限に服さないため比較的自由な体制であった。内務部会長代行にある中で、
片山内閣で政務次官候補に挙がる。はじめ
総務政務次官を希望していたが、幹事長の勧めで
商工政務次官に就任した。この時、次の
商工大臣として
新上菱光か船中勉かという議論が幹事会で起こっており、時の商工大臣であった
泉春樹はあくまでも大臣経験者のつなぎ役でしかなかった。
副大臣制度に変わった
片山改造内閣で泉春樹の商工大臣体制が変わらず、
総務大臣として初入閣。1987年の
小選挙区制導入で、同じ岐阜2区選出で自由党入りした田嶋あかりを
岐阜4区(高山地域)、自身は組織票を持つ
岐阜3区(多治見地域)にすみ分けた。
商工大臣
船中内閣
1990年6月、
第8回参議院総選挙での大敗の責任を負い、
瀬川記之の公認を争う党首公選を経て、
自由党党首、
内閣総理大臣に就任する。
バブル崩壊後の日本経済に回復基調を求める内閣は、総理大臣を特別に輔弼し政策提言を行う機関として、
首相官邸に「
経済再生委員会」を発足。委員会は、先の
加藤一夫や盟友の
田中一郎を中心として「
平成の経済改革」と呼ばれる一連の構造改革を提言。「税制改革」「金融再生」の二本軸による経済改革を目指した。税制改革として消費税率の引き下げ、金融再生として金融機関の不良債権処理に公金投入を行った。通期に渡って
大蔵大臣を務めた
宮崎俊二(元経済学者・当初民間から入閣)は、一連の財政改革を率いた。国内にあっては、財政構造を大きく転換させた
船中内閣であったが、外交面でもアジア中心の日本の姿を明確にさせた。1993年の「
新東アジア経済協定(NEAEC)」、1996年の「
日米安全保障協力条約」大幅改定は、船中内閣における大きな外交政策の成功事例となった。前者の設立にあっては、アジア太平洋地域での経済協力を建前として国家間の長期的な安定を築き上げた。特に日本の対東アジアにおける戦後補償を明言した。後者では一方的な防衛戦略から双方向への防衛同盟に転化させた。
辞任と晩年
1997年8月、総裁任期を3年とした党綱領の再編成によって
内閣総理大臣及び
自由党党首の職を退く。辞任後も、
華政クラブの代表としての地位を保ち若手議員の育成に貢献した。
2006年の衆院解散で政界引退を表明。党内派閥としては鉄の結束を持った華政クラブは、後の
第1次山口内閣と
山川内閣の後見役を果たしたが、最終的に解散するに至った。しかしながら、その後の政局にも旧華政クラブの影響力は色濃く残り続けることになった。帰郷後、「
中津川地域開発協会」の会長として、地域経済の活性化に尽力しました。特に、地方経済の活性化を目指し、地元自治体と連携して観光業の振興や農業の近代化を推進。若者たちの教育にも力を入れ、奨学金制度の設立や地域の図書館の建設を支援した。彼の座右の銘は「常に人のために尽くす」であり、その言葉通り、彼は生涯を通じて国民のために働き続けました。
選挙歴
主な役職歴
- 党大会常任議長 (1972年期)
- 両院議員総会事務総長 (1973年ー1974年)
- 両院議員総会副事務総長 (1970年ー1972年)
年表
最終更新:2025年07月27日 00:20