太田実

太田実(おおたみのる)〈1902.12ー1993.9〉は、日本の学者。

来歴

生い立ち

1902年12月、和歌山県和歌山市出身。三代続く漁師の家系で、親族にも学識者は居なかった。兄から大学に行くよう勧められ、県費奨学生採用試験を突破して和歌山県立和歌山高等学校東京大学にそれぞれ進学。どちらの学費も和歌山県の県費によって賄われた。

東大学生時代

東京大学理学部総合理学科に進学する。植生構造の研究に興味を示し和田数史(東大准教授(植生学))に師事。1922年、和田准教授が東大を出たため研究室まで続かず、他分野の研究に視野を広げる。大学3年後期、当時世界的に新進だった遺伝子学に興味を持ち飯田丈三郎(東大講師(遺伝学))の研究室に入る。主に植物遺伝について研究の分野を定め、山梨県の山々で植物の採取に明け暮れた。植物の研究に没頭する傍ら、国際的見識を得るためにソヴィエト連邦政府の政治構造にも興味を持ち語学学校にて学ぶ。東京ロシア語学校へ入学。スコーフ・ヤニスキーから薫陶を受ける。1925年3月「甲府地域の植物遺伝子に関する現地調査」で学士論文を執筆して卒業。

東大時代

理学部を3位の成績で卒業すると、恩賜の飯田助教授に請われて研究室に残る。東大研究助手として植物遺伝子、特に地域ごとの遺伝子システムの違いを探求。1926年「東京大学人員削減計画」が発表されるとリストラ対象者のリストに入ってしまったため、1927年限りで契約を停止される。当時研究していた植物遺伝子構造の解析では、最終的な結果が見えなかったため退いた。

兵庫理大時代

契約停止前に関西圏に職を求めていた頃、東大時代に和田数史(兵庫理科大学理学部教授(植生学講座))に誘われて兵庫に職を見つける。1927年4月、東大を離れた後、兵庫理科大学理学部講師(遺伝子学講座)として着任。この時期の兵庫理科大は開学2年目で生徒数500名を超えない小さな規模の大学であった。兵庫では、遺伝子システム研究から遺伝子そのものの構造研究に分野を移した。1931年4月、兵庫理科大生物学研究所特命助教授専任。遺伝子構造を分析するために欧州を歴訪し、オックスフォード理工研究所にて電子顕微鏡を用いた遺伝子分析を開始。1935年まで兵庫理科大に籍を置いたままオックスフォードで研究。1935年9月、帰国とともに「らせん型遺伝子の構造仮説論」を発表。1936年4月の日本生物学会発足に尽力。1938年、神戸大学設立に際して、神大理学部へ再編されたため、岡山理科大学は廃止。

グラスゴー大時代

岡山理科大の廃止後、所属教員の多くは神戸大学に移ったが、自らが打診されたのは鳥取工科大学理学部助教の職であった。ちょうどこの時期、オックスフォード時代に師事していた、クラリス型電子顕微鏡で著名なクラリス・オラフォルド(デンマーク出身の工学者)からの誘いを受けて渡英。1939年4月、英国のグラスゴー大学生命科学部特命助教授(41年より准教授)/自然応用学研究所遺伝子学担当主席研究員に就任。着任当時は、第2次世界大戦に母国の日本が正式に参戦したため、日本人に対する風当たりが強くなる。1940年4月、大学側の配慮により人文社会学部英日国際問題研究所客員研究員を兼務。1945年4月、生命科学部教授/自然応用学研究所遺伝子学担当特命教授に着任。1946年「植生細胞における二重らせん構造モデルの発明」で王立自然史学会の議論を二分する「染色体論争」を引き起こす。1948年3月、後に来日して山陽理科大学教授/東京大学教授となるジニー・ホプキンス(グラスゴー大学生命科学部助教授/自然応用学研究所遺伝子学担当研究員)とともに「染色体内における二重らせん構造の発見」を発表。当該論文は、世界一権威のある王立アカデミー年間最優秀賞に輝いた(アジア人初の快挙)。

京大時代

1949年4月、グラスゴー大学は籍を用意していたが、日本からの求めに応じて帰国を決意。京都大学理学部教授(遺伝学講座)/自然史研究所代表教授に就任。1951年4月、日本生物学会専務理事(55年8月まで)に就任。同年「日本型遺伝子研究の可能性証明」と題して日本に遺伝子構造研究の学問分野を生み出した。

山陽理科大時代

1952年4月、山陽理科大学の開学に伴い、教授(細胞学講座)/生命科学部長/生命自然史研究所代表教授として招致。山陽理科大では、当時世界最先端で日本に一台しかなかったクラリス型電子顕微鏡を用いて才能分析の研究を加速させた。1954年10月、「細胞発達段階の二重らせん構造における遷移過程」で王立自然史学会年間最優秀賞帝国学士院賞を受賞。科学分野でアジアを牽引する「Sanyoブランド」第1号の誕生であった。1955年8月、二重らせん構造の発見を中心とする生物学への貢献性から日本生物学会総裁(59年3月まで)に就任。1958年5月、山陽理科大学副学長(60年4月まで)就任。1959年5月から副学長専任。1960年5月、山陽理科大三代目学長(64年3月まで)。1962年帝国学士院副総裁(-65)にそれぞれ就任。1964年に山陽理科大学長の任期が切れると現職から退き、山陽理科大学名誉教授に着任。

後年

1965年以降、王立自然史学会の学術審議員会審議委員、王立アカデミー正会員としてどちらもアジア人初の栄誉を得た。1977年の講書始では、「二重らせん構造の発現認知」という題目で教授を担当した。名誉教授の職にありながらも、80の高齢を超えて研究を継続。「遺伝子構造学の最高権威」として長らくその地位にあった。1993年9月、逝去。

役職歴

役職 就任 退任 備考
帝国学士院副総裁 1962.4 1965.3
日本生物学会総裁 1955.8 1959.3
日本生物学会専務理事 1951.4 1955.8
日本生物学会会員 1936.4
山陽理科大学名誉教授 1964.4
山陽理科大学学長 1960.5 1964.3 3代目
山陽理科大学副学長 1958.5 1960.4 1959.5より専任
山陽理科大学生命科学部長 1952.4 1960.4
山陽理科大学生命自然史研究所代表教授 1952.4 1960.4
山陽理科大学教授 1952.4 1964.3
京都大学自然史研究所代表教授 1949.4 1952.3
京都大学教授 1949.4 1952.3
グラスゴー大学生命科学部教授 1945.4 1949.3
グラスゴー大学生命科学部准教授 1941.4 1945.3
グラスゴー大学生命科学部特命准教授 1939.4 1941.3 2年間の有期契約
グラスゴー大学自然応用学研究所遺伝子学担当特命教授 1945.4 1949.3
グラスゴー大学自然応用学研究所遺伝子担当主席研究員 1939.4 1945.3
グラスゴー大学人文社会学部英日問題研究所客員研究員 1940.4 1942.3 2年間の有期契約
兵庫理科大学生物学研究所特命助教授 1931.4 1938.3
兵庫理科大学講師(遺伝子学講座) 1927.4 1931.3
東京大学研究助手 1925.4 1927.3
最終更新:2025年02月19日 10:26