スコーフ・ヤニスキー

スコーフ・ヤニスキー〈1898.8ー1969.8.27〉は、ロシア人学者で戦後派の学者の1人である。

来歴

生い立ち

1898年サンクトペテルブルク出身。当時のロシア帝国では中流家庭の出身で、父親は陸軍のエリート部隊ロシア帝国親衛隊で大佐まで務めた人物。母は、地元商店の娘だった。幼少期は、ロシア正教会の宣教師学校、キリスト教学校で学んだ。1914年4月、ボスニアへ留学。ボスニアの高等学校で学ぶ。この時期に、ロシア正教会からの精神的離脱を体感。5年間学んだ後、学友たちと離れてフランスに渡る。1919年4月、第1次世界大戦の惨禍が消えない中、パリ第2大学国際学院に入学。アジアを中心とした国際学問分野に関心を寄せる。

来日

1920年、父の他界に伴い、大学を2年次で中退。母国で一人暮らしていた母を連れて日本に渡る。拙い日本語で職を求め、通信所や翻訳会社、出版社で英語やロシア語、フランス語の翻訳として働く。1921年に銀座の国際サロンの経営者だった織部聡と仲を深め、東京ロシア語学校の教師の職を紹介される。3年の任期付きであったが教師の仕事を受けた。当時は、東京の学生たちが世界を知りたいという思いを抱いて入学することが多かった。教え子には、当時東大の学生だった村板卓史(日本大学学術機構の設立者)、太田実(遺伝子構造学の権威)。同僚には、文壇に立つ前の志麻伸弘(科学作家/日本文藝初代会長)がいた。

学者時代

1924年、26歳で教師の地位にありながら東京大学文学部文学科に入学。母語であるロシア語やロシア文学を専攻する。大学在学中は、母親を養いながら学生生活を送っていたため担当教授からロシア語翻訳の仕事をもらうなど生活には常に困窮していた。「ロシア語翻訳における基礎的解法の開発」で学士論文を執筆し、東大文学部を首席卒業。1928年東大卒業と同時に、上海大学講師(ロシア学講座)に着任。しかし、中国の政治思想に共感できず半年で辞職。日本へ戻り、大学教員採用試験を突破して名古屋大学文学部准教授(ロシア文学講座)に着任。1932年、日本に帰化。日本国際学会に学術審議委員として入会。学会への入会を機に名古屋大学文学部教授(ロシア文学講座)に着任。1939年、第2次世界大戦の開戦に伴いソヴィエト連邦政府との開戦危機が迫ると憲兵の調査対象者のリスト入りした。1945年8月、終戦を迎えると、在野の研究者が戦後民主主義を提唱して設立した日本学術者平和協議会の設立に参画。戦後の軍縮や二院制に伴う参議院設立などを提唱した第1回、第2回の意見趣意書に署名。1946年、「ロシア文学史から見る外国書規制の政策的効果検討」を発表し戦中の外国書検閲を批判。戦後派と呼ばれる学者グループに属するようになった。

日大教授時代

1950年、語学学校時代の教え子だった村板卓志の求めに応じて日本大学学術機構に参加。日本大学横浜校文学部教授/文学部長/文芸学科長に就任。1951年「次世代のロシア学」を発表し国際学の視点からロシア特有の学問的難題を表面化させた。この論文は、これまで日本で議論されてきたロシア学を新たな学問領域として検証させることで、過去の日ソ関係を批判した。1956年12月、「モスクワ平和協定」の締結に伴ってソヴィエト連邦政府への国際渡航が自由化されると国際的な「日ソ学術交流団」が組織。日本大学でも若手学者を集めえ参加することになった。後援会長として隔年で相互に派遣し合うことを決めた。1963年、日本大学を定年退官。日本大学学術機構名誉理事、日本大学横浜校ヤニスキー記念ロシア研究所名誉教授。1965年、外国人特有の戦中の生きづらさを描いた小説「閉塞な日曜日」で第15回本屋大賞を受賞。ロシア語、フランス語への翻訳も盛んに行われた。1969年8月27日、71歳で他界。日本におけるロシア学問の発展に貢献し、戦後国際学に地域比較的見地を取り入れた戦後派の国際ロシア学者スコーフ・ヤニスキーはその生涯に幕を閉じた。

後世

ヤニスキーによる国際学への顕著な貢献は、後世の国際学者に大きな影響を与えた。日本大学横浜校でヤニスキーの薫陶を受けた生田宗介(日本大学大阪校教授(国際比較学講座)/生田神社第62代目宮司)、植田太郎(九州大学文学部教授(欧米比較学教授))らは、命日の8月27日を「ロシア学の日」と定めて「国際学論文大賞」(日本文藝主催)を設立した。
最終更新:2025年02月19日 08:58