平城事変

平城事変(へいじょうじへん)は、1830年代に発生した日本のクーデター相川文治を中心とする急進的な欧化を目指した。最終的に、天皇の奈良遷都が成功したため、「平城事変」を呼称される。

概要

平城事変は、後の日本における政治的な重要度が高く、近年に至っても背景や過程の段階で多くの議論が存在する。アジア史における初の近代的クーデターとして知られている。歴史学の世界では、近代から近現代への転換点として位置づけられている。この事変の中心的な役割を務めた相川文治林文亮は、近現代日本の開祖として知られる。

事変の一連の経過

背景

1930年代は、世界的な冷夏の影響で全国的な食物不足が発生し、慢性的食糧不足であった農村では飢餓が大量に発生。そのような現状を地方の一武官として見ていた相川文治(北越府兵部)は、中央に対して建議を申し立てるも在庁官人の耳に届くことはなく現状の変化を望むことはできなかった。地方で特権階級にあった士族ですら、十分な食料を確保することができず不満が続出。軍管区内部での小規模な反乱も発生していた。兵部の立場にありながら、それらの騒乱を黙認していた相川文治であったが、1931年の冬頃に中央へ帰任の命が下る。衛士府少将を拝命されると、地方士族を従えて上京、その任に就く。この士族の中には、後の中央で活躍する多くの武官が参加していた。

計画

新潟港を拠点に密貿易を進めていた相川家は、アメリカから輸入していた西洋式の近代銃器を蓄えて密かに独自の軍事力強化を図っていた。1932年の初頭、相川文治の恩師ともいえる富士宮江哲(侍従長)の誘いを受けて参内。この際、在庁官人の腐敗ぶりにひどく落胆。この時期から、計画が動き出すことになる。臣下の林文亮が草案を書き、村木勝頼が修正したクーデター計画は、相川文治の手に渡った。この計画書は、たちまち富士宮江哲の知るところとなり、宮中の賛同者を得ることとなる。君側の奸としていた在庁官人を京から追い出し、京都に天皇を戴く欧化主義の日本を建国するように目指した。

発端

1932年12月13日、在庁官人の居住地であった六条地を強襲。現在の京都市内は、火の手が回り大火となった。ここから3カ月以上に及ぶ血みどろの市街戦が展開される。欧米製の近代武装を伴った兵に対して、長い間読書階級に甘んじていた衛士府の武官は成すすべなく敗走。しかし、錦の御旗を持つ旧勢力に対して、各地からも増援が投入される。1933年の2月に、富士宮江哲(侍従長)を中心に天皇の近習が、奈良への遷都を実現する。

瓦解

両者ともに削りあうだけの持久戦となっていた戦いであったが、天皇の存在を喪失していた衛士府は戦意が低下。3月18日の午後には、錦の御旗を預かる旗持団が襲撃を受けてクーデター側に渡ったため衛士府の内部は総崩れとなる。錦の御旗を伴って平城京に入京したのは、クーデターを起こした相川文治らであった。この入京に伴って、在庁官人の住処であった近衛府は廃止された。

平城京

相川は、自らを宮内大臣と名乗って自らに権力を集中。天皇の最高補佐役である内大臣の職を富士宮江哲に要請するも辞退されたため、自らが兼務して権力を一極に集中。絶対君主制国家を目指した国家づくりでは、地方の軍管区に、中央で実力を蓄えた有力な武官を配置。藩主として、有力な士族も積極的に登用。大学寮三文庫も再編されることになる。藩校での基礎教育を基盤とした上級教育の拡充を推進した。一方で衛士府天皇の裁可による独自軍隊ではなく、宮内大臣の指揮下にある従属軍隊として再編成した。かつて最後まで戦った「旧敵」を称えるためにあえて処罰を行わなかった。相川文治富士宮江哲を中心とした急速な欧化政策は、日本の近代化に大きく貢献する一方、「旧敵」という新たな対立軸を構築することになる。

革命軍(クーデター側)

1900年代に、ドイツ出身の知日派歴史学者ボナード・ナウエルンが自著「知られざる日本の面影」で「平城事変」を扱った章で書かれるのが、クーデター側を「革命軍」と呼称する流れである。後に日本人歴史学者の中にも、「革命軍」を用いる者が散見されるが、あまり定着はしなかった。

人物構成など

最終更新:2025年09月24日 16:57