静原康生

静原康生(しずはらこうせい)〈1937.4-2021.7〉は、日本の実業家、政治家。参議院議員自由党所属)、アジア投資銀行

経歴

生い立ち

1937年4月に、東京都出身。静原家は、日本海運社の創業家であり、長年経営権を持ってきた。父の静原幹は、日本海運社総帥。母の鵜向井静香は、鵜向井奏志郎(日本女子大学二代目学長)の長女である。
東京都立日比谷高等学校東京大学経済学部へそれぞれ進学。東大2年時在学中に、学生運動の機運を感じて激化する学生運動の渦中に飛び込む。全国学生連合に加盟する東京大学自治会に入会。東京大学青年共同闘争(共闘派)との血みどろの闘争に参加。学内闘争で後頭部を負傷して半年間入院。入院中に、東大共闘側が、学内処分を受けて瓦解したため、復帰時には学生闘争の嵐は一時やんでいた。

日本海運社入社

1960年3月、在学中に様々な動乱があった中でもストレートで大学を卒業。翌4月、父が代表を務めていた日本海運社へ入社。ロンドン支店、神戸支店、上海支店、香港支店、ニューデリー支店を営業マンとして渡り歩き、35歳で本店審査部調査役に着任。約1年間日本で勤務するが、国際経験を買われていたため、取引のあった他社へリクルートされることになる。

アジア投資銀行時代

1974年10月、37歳でアジア投資銀行へ中途入社。香港支店、台北支店で営業部長として経験を積み、42歳で台北支店長。1980年、台北支店長として「中華経済危機」に直面。取引関係先であった香港商産銀行香港建設インフラ銀行商工組合香港中央銀行の債権が焦げ付き、公的資金の注入を許すことになった。現地でこの現状に直面し、後の人生に大きな影響を与えることになる。1981年、ある程度の終息を見たとして、経済協力本部市場調査部長へ昇進。中華経済危機の事後分析を担当する。

政界進出まで

1984年9月にアジア投資銀行を退職。「クリエイティブoffice・静原」を設立して独立。地域における政策提言のアドバイザーとして日本全国を訪問。1989年に個人事務所をたたんで日本海運社系統の子会社であるつくば都市開発株式会社代表取締役社長に就任。1985年から政府主導で行われてきた「つくば学研都市開発政策」に絡んで都市開発事業に参入。茨城県に政策提言を行う民間シンクタンクの「県営事業研究会」にも参加し、政策提言に協力。日本総合学術大学院大学を中心とした研究都市の開発を進めた。1992年の講演会では、「この筑波を日本のフロリダにしたい」という希望を掲げた。1994年に、民間研究機関の日本経営工学研究所(2000年に国営化されて日本経営工学研究機構)代表(無報酬)に就任。

政界進出

1999年1月、突如として参議院通常選挙への立候補を表明。無所属での立候補となることが予測されていたが、意外にも元衆議院議員内閣官房長官厚生労働大臣を歴任した曽根昭が興味を示したため自由党が支援に就いた。この曽根は、父の静原幹などから多額の政治献金をされたおかげで政治家として大成したといわれるほど財界の後ろ盾があり、今回曽根と静原を引き合わせたのは、日本海運社の元社員で静原の現金持ちをやっていた人物だった。6月13日に投開票を迎える第18回参議院通常選挙に無所属の自由党推薦候補として立候補。北関東選挙区に全体3位で当選。

自由党から追加公認を受けると、雄伯会に参加。参議院のドンである江島重信と懇意になり、年密な根回しと組織掌握術を学び政治家としての人生を踏み出すことになる。2002年、第15回地方統一選挙茨城県知事選挙)では、自由党本部が推薦する現職の佐藤健の擁立に反対。これは、つくば学研都市に対して予算削減を勧める政策姿勢を受け付けていなかったためである。自由党茨城県連は、独自候補として、都市政策学の第一人者とよばれる高野弘(元日本大学筑波校学長)を擁立。静原は、県議票とつくば地域の市議票を取り纏めるために、選挙資金をばらまくことになる。

2003年7月、江島重信の推挙によって、雄伯会参議院顧問、緑の万博推進議連会長に就任。

晩年

2005年5月、次期参議院通常選挙への立候補を行わず、政界引退の意向を表明。政界引退後にも「緑の万博推進議連」顧問に就任。2015年8月投開票の第37回衆議院総選挙では、茨城県内の候補者を応援するため久方ぶりの演説に立ち、茨城県内6選挙区をすべて自由党候補で埋めることとなった。
2021年7月急逝。

経歴

1937年 4月 東京都出身
1956年 3月 東京都立日比谷高等学校・卒業
1960年 3月 東京大学経済学部・卒業
4月 日本海運社入社
7月 ロンドン支店営業課
1962年 4月 ロンドン支店営業課・主任
1965年 10月 神戸支店営業課・主任
1966年 10月 神戸支店営業課・課長補佐
1968年 4月 上海支店営業課・課長補佐
1970年 4月 香港支店営業課・課長補佐
1972年 4月 ニューデリー支店営業課・課長補佐
1973年 1月 本店審査部・調査役
1974年 9月 退職
10月 アジア投資銀行入行
香港支店営業部長
1978年 4月 台北支店営業部長
1979年 10月 台北支店長
1981年 10月 経済協力本部市場調査部長
1984年 9月 退職
12月 クリエイティブoffice・静原 代表取締役社長
1989年 1月 つくば都市開発 代表取締役社長
1994年 10月 (兼任)日本経営工学研究所 代表(無報酬)
1999年 6月 第18回参議院通常選挙・初当選(北関東選挙区第3位)
2003年 7月 緑の万博推進議員連盟会長
2005年 10月 緑の万博推進議員連盟顧問
2021年 7月 逝去

選挙歴

選挙 開票 年齢 選挙区 政党 定数 順位
第18回参議院通常選挙 1999.6.13 62 北関東選挙区 自由党 5 3/9
最終更新:2025年07月16日 19:24