火神櫓

火神櫓(ひのかみやぐら)は、1932年5月3日公開の安塚幸二郎監督による、日本初の純国産映画である。

概要

火神櫓は、1932年5月3日に公開された日本初の完全純国産映画であり、長編劇映画である。制作・配給は、新日本映画株式会社である。。監督兼脚本は、アメリカで映画脚本などに携わり、劇作家として一定の評価を受けていた安塚幸二郎が務めた。安塚をアメリカから呼び寄せたのは、笹中庵准(新日本映画社長)からの要請を受けた大江双三(日本画院総裁)であった。大江と安塚は、後に共作を作り上げることになるが、この2人はかつて互いに日本画家を目指した過去がある。この作品は、日本の伝統文化、神話、そして地方民俗信仰をモチーフにしながら、都市化と伝統の対立を描いた前衛的作品として、後年に高い評価を受けることとなった。

あらすじ

昭和初期、山間の村・火見村(ひみむら)では、400年に一度だけ炎の神「火神(ひのかみ)」を鎮める儀式「火神櫓祭(ひのかみやぐらさい)」が行われると伝えられていた。ところが木材生産のために村の山林が伐採され始めたことで、村に不吉な出来事が続出する。村の若き神職・和瀬真人(東海修一)は、忘れ去られた火神信仰の復興を訴えるが、村人たちは近代化を望む村長派と、伝統を守ろうとする長老派に分裂していた。やがて、山火事が起こり、火神の怒りかと恐れられる中、真人は失われた櫓の図面をもとに、命がけで祭を復興しようとする。
クライマックスでは、再建された「火神櫓」に登った真人が炎の中で神を鎮め、村の人々が団結を取り戻す様子が描かれる。神秘的な儀式と壮大な山火事シーンは、日本映画史に残る名場面とされている。

評価と影響

公開当初は、配給網が整備されておらず、日本全国にあった小規模な芝居小屋や小劇場などに映写機を貸し出しての放映となった。この後、新日本映画が自社映画館として新日劇場を全国に展開することとなる。後年、笠原明道(映画監督・映画評論家)が「日本民俗映画の原点」としてを再評価したことで、現存していたオリジナルフィルム(1・3・4本目)が国立映画アーカイブに保存されることとなった。
日本の民族映画史の原点的作品であり、大洋映画の「楢山節考」(1955年公開)、昭栄の「神々の深き欲望」(1962年公開)に影響を与えたとされている。

備考

本作品の撮影機材や編集機材は、新日本映画株式会社が正式に購入したものではなく、本作の撮影顧問を務めたコール・ホイットが来日の際に持ち込んだものであった。これらの機材は、コールが以前勤めていた、サンフランシスコの撮影会社の機材だということが後年の調査で分かっている。この事実を知った新日映画文化財団は、これらの撮影機材とこれによる経済効果などを算定した金額として、サンフランシスコへの5億円の寄付を申し出たが、断られたために5億円を元金とした外国人留学生支援基金を設立した。
当時の技術の関係から、フィルムは5本に分割されていたが、オリジナルで現存しているのは1本目と3・4本目である。これらのフィルムは、国立映画アーカイブに保存されいている。1946年に再編集されて1本になったフィルムは、6本の現存が確認されている。再編集されたフィルムは、1950年代にも全国の新日劇場で放映されていた記録が残っている。しかしながら、編集の粗さから、オリジナルフィルムと異なる箇所も存在しているとされる。
2022年から新日映画文化財団を主体としたオリジナル修復プロジェクトが進んでいる。

スタッフ

代表元締 笹中庵准
制作 笹中庵准
監督 安塚幸二郎
脚本 安塚幸二郎
原作 安塚幸二郎
撮影顧問 コール・ホイット
撮影 洲崎貞一郎
編集 洲崎貞一郎
音楽 桜井郁
演奏 名古屋交響楽団
配給 新日本映画

キャスト

和瀬真人 東海修一
村長・桑名正則 望月正二郎
村の巫女・沙夜 水無瀬百合子
長老・古橋伊兵衛 中村錦右衛門
エキストラ 長野県木曽郡近辺の地元住民
最終更新:2025年09月26日 08:47