笹中庵准(ささなかあんじゅん、1891.5-1949.9)は、日本の実業家、ジャーナリスト。日本で初めて映画商業化に成功、
新日本映画株式会社の創始者として「映画王」の異名をとった。
来歴
生い立ち
1914年3月に大学卒業後、有識層向けの新聞発行を行っていた
日日新聞社へ入社。入社後は、当時、外交関係のなかった
中華民国へ渡り、中華国内の政治体制を取材。
第1次世界大戦の戦火の中で、
馬銑鉄(駐日中国特使)の生家に張り込み取材をかけて、生命の危険にさらさらされる。1年間の滞在の後、日本に帰国すると、社内で執筆活動に打ち込む。1916年10月に、日日新聞社出版より「中化開国」を発表。この書籍は、
中華民国が構想している外部侵略活動を「中化」と評して批判論を展開した。
第1次世界大戦期の中華民国に対する第一級の分析資料とされている。
中華民国滞在中には、日本出身の企業家らと交流を重ねた。
林家一門の分家である梶原宗家出身である、
梶原宗寛(
大栄鉱山株式会社の創業者)に見初められる。梶原は、
江華鉱山研究会という
中華民国国内の日本人メインの経済人サロンを主宰していた。このサロンには、中華民国国内で印刷工場の稼働を計画していた
川尻高晴(
明和印刷社長)も参加していた。
1918年、
川尻高晴の誘いを受けて、
日日新聞社を退社して
明和印刷へ転職。繊維貿易業に進出を考えていた川尻の意向により、明和海運商会を設立して代表理事に就任。日中間の繊維貿易事業に力を注ぐも、黒字転化に失敗。創業から数か月で自転車操業状態となり、創業4年目に閉鎖する。商会閉鎖後、1923年に
明和印刷株式会社取締役・営業部長に就任。
名古屋港に、巨大な印刷工場を建設するための用地取得などで奔走。印刷から全国への海上輸送といった一貫したシステムを構築した。印刷事業に成功すると、
名古屋経済圏の有力者に出資を募って新規の鉄道事業を構想。1928年に
名古屋高速鉄道準備会を発足させる。笹中は、同会の事務局長に就任。会長には、
梶原宗寛(
大栄鉱山会長)が就任。他の委員は、
大江双三(
日本画院初代総裁)や
篠脇倶昌(東海政財界の領袖である
篠脇倶哉の子)など、梶原の人脈を中心とした組織が構築された。1930年1月、名古屋港から
名古屋駅を結ぶ名古屋高速鉄道港湾線を開通させ、
名古屋高速鉄道代表取締役社長に就任。
映画創成期
1928年、
アメリカから輸入されたトーキー映画を日本で撮影、上映するための
官営会社として
日本活動映画社(日活)が発足。官業映画会社として、政府の映像広報に用いる予定だったが、映画を大衆娯楽に昇華させる志を持っていた笹中は、これに対抗して民間映画会社の設立を水面下で構想する。1929年には、映画会社新設の出資者集めのために、
秦野興産理事・神戸支社長の
秦野武知との縁を結び出資を確約してもらうことになる。
名古屋高速鉄道社長に就任した1930年に、時を同じくして
新日本映画(新日)を設立、同社長に就任する。新日本映画株式会社では、大衆向けの国産映画製作を目標に掲げて海外から、映画関係の専門家を招聘する。この窓口となったのが、
秦野武知だった。秦野は、自らの人脈を辿り、
サンフランシスコの撮影会社でカメラ助手を務めていた
コール・ホイットという25歳の青年を来日させる。コールは、来日の直後に専属の通訳と運転手が付く役員待遇で、新日本映画技能講習所所長として日本人への撮影や編集技術を教えた。この機材についても、コールが元の会社に黙って日本へ持ち込んだものだった。また、新日本映画の出資者の1人でもある
大江双三を介して、
ニューヨークを拠点に劇作家として活動し、映画脚本に携わった経験を持つ
安塚幸二郎を帰国させてこちらも役員待遇で専属の脚本家として採用した。図らずも、「笹中・コール・安塚」の3名は日本映画の父となった。1932年、笹中が代表元締、安塚が監督の日本初の純国産映画「
火神櫓」が発表される。当時の日本には、
日活劇場と呼ばれる、日活系の映画上映施設が多少あったが、日活と新日の関係性からそこでの上映をあきらめ、全国の芝居小屋に営業をかけてそこで上映するということになった。この映画は、当初利益を度外視で製作されたものだったが、全国各地から配給の要請を受けるなど映画興行の可能性を広げる結果となった。
笹中は、全国に常設の映画館を建設して、そこでの専属上映を目指すための経営戦略を構想。笹中自身は、
新日劇場社長を兼務して、日本全国に映画館建設を開始する。1935年には、火神櫓の成功を見て民間のライバル映画会社として
桜田財閥出身の
福富数が社長を務める
大洋映画が設立される。1939年10月、映画産業を統制する政府の意向に基づき、
日本映画産業協会が発足。映画の国策化を推進する目的であったが、一方では国内の映画産業発展を後押しするものであった。設立当初の日本映画産業協会常任理事に就任。同協会を主体とする
日本映画産業規則を定める。特に、笹中が起案したのが、第4条(通称4条ルール)である。この第4条は、「本会に加盟する事業主体は、演者・監督及び映画制作に関与する職員を専属の下に契約する」と定めた。この4条ルールは、映画会社に俳優育成や監督育成を迫り、映画技能者の各社独占を義務付けた。
最後
1942年以降、日本の戦争政策に貢献するため、プロパガンダ映画の製作に転換。1944年に
新日劇場会長に退く。1947年、旧
陸軍の軍人らと同様に社会的な問責処罰を受けることになる。1949年に逝去。
略年歴
・政治部
・外国特派員
・総務部付(海外密偵)
・経営部繊維課長
・明和海運商会代表理事
・準備会事務局長
- 1930年1月_代表取締役社長
- 1930年6月_(兼任)新日本映画社長
- 1934年6月_(兼任)新日劇場社長
- 1942年3月_新日劇場会長
最終更新:2026年06月19日 20:27