朝鮮逓信開発株式会社(ちょうせんていしんかいはつかぶしきがいしゃ)は、日本・朝鮮にかつて存在した通信機器メーカー。
概要
社史
立舘和は、
第1次世界大戦で
在独国日本大使館の
書記官として、
ドイツ軍が用いていた無線連絡技術に興味を持ち、帰国の折内密に持ち帰る。この無線機に関心を寄せたのが、
東京大学の同期で共に
東大端艇部で活躍した、工学部物理工学科助教授(航空力学教室)の夢河藤治であった。夢河は、東大学生会の電波無線研究会顧問を務めていたため、当時会長だった会田為儀(文学部3回生)を通じてこの技術を学生に伝えると、これに関心を持った学生らは、電波受信機の開発に力を入れる。学生らは、資金のない中で国産電波受信機である並川二式を開発させる。この技術に感心したのが、憲政党代議士で立舘和の兄である立信照の方であった。信照は、陸軍が保有していた演習場用の釜山の平原を近々売却予定であるとして情報を横流しし、その土地を舘和の義兄の名義で購入した。この義兄は、台湾政府の求めに応じて台湾人工農場社理事・台湾国立政治大学嘱託を務めていた梶田麻人である。義兄からの資金援助と舘和が保有する国内不動産を担保に入れた銀行からの貸付金を投入して釜山に工場を建設。竣工が1926年であったが、企業規模の小ささと外地にあるという立地のため、会社化をできずにいた。工場では地元の若者を労働者として雇い入れる一方、東大電波無線研究会出身の技術者を研究所に雇って研究を進める。1929年に、朝鮮系の三会社を独立させるように政府からの命令が出されたため、株式会社化。この時期から、日本や大陸の市場に向けて無線受信機の流通を進める。藤治、米国産の簡易的な受信機が多かった中で、国産受信機に目をつけた軍部は、軍への独占的な供給を命令。1935年の自主軍備宣言以降、軍需本部の傘下に収まる。
最終更新:2025年05月23日 14:13