立舘和

立舘和(たちたてかず)〈1880年1月ー1933年3月〉は、日本の外交官、実業家、篤志家。

来歴

生い立ち

1880年1月、祖父の立龍一内閣総理大臣を務めていた時期、東京都赤坂首相官邸で生を受ける。父は、国費留学生としてオランダドイツへ留学し、日本の近代司法制度導入に尽力した立益延。祖父は、日本国初代内閣総理大臣立龍一。舘和は、父が留学に旅立ったばかりの頃に生まれた子供である。

幼少期

舘和は、上2人の兄と同じく赤坂小学校を経て、旧制第一高等学校(現在の東京大学附属高等学校)、東京大学で学ぶ。在学中は、父の盟友で日本における欧州経済史の第一人者である、赤松圭人(東大教授)に師事。学生時代は、東大端艇部を設立し初代キャプテンを務める。1901年の第1回帝大戦では、艇長として帝大レガッタ初代チャンプに輝いた。この端艇部には、後に朝鮮逓信開発をともに設立する夢河藤治工学部3回生)が同級生として在籍している。

外交官

商工官僚の道を模索していたが、祖父が死の間際に、外交官になってほしいと遺言を残したため、長兄が商工省、次兄が内務庁に進む中、自身は外務省へ進んだ。
1902年4月、外交官として外務省へ入省。ドイツアメリカ中華民国インド王国を渡り歩いた。外交官としては、一貫して国際的商取引に強い関心を抱き、その分野の専門家として外務省内の国際経済戦略を長らく担当。1900年代初頭における国際通貨マフィアの1人である。第1次世界大戦の戦線が肥大化していた欧州の現状分析を担当するための極秘任務を与えられ、欧州の国際経済流通を研究。終戦の臭いを見せ始めた1918年、在ドイツ日本国大使館書記官・経済部金融課長として赴任。

WW1終戦交渉

1919年の終戦を欧州で迎えると、日本国終戦講和団の現地要員としてウィーン会議へ出席。経済専門諮問分科会では、日本政府代表の補佐役を務めた。1920年、終戦事務の調整を終え次第、帰国の途につくようにとの本国からの要請に基づき帰国。大臣官房付として一時期放蕩の任にありながら、欧州各国の戦力的問題を分析。戦略兵器に劣るドイツにおける無線機通信技術にも関心を向けた。また、大学寮文章方主教授の地位にあった在野研究の長老だった野間学然に教えを乞い、宮文学についての知見を深めるなど学びを得た。

官営会社社長

1922年、政府が運営していた釜山の海産加工所の経営が傾き、新たな経営者を求めていると知り、釜山に顔がきく生田財閥生田恭三郎の仲介で官界出身社長として釜山にわたる。加工所は、経営失敗の煽りからしばらくして倒産。残った土地に朝鮮開発金庫山陽銀行の出資を受けた新会社の「朝鮮逓信開発」を設立。同社社長として、水産加工所勤務の若者や地元労働者を再雇用してスタートした。主任技術者には、朝鮮帝国大学工学部客員として朝鮮に渡っていた夢河藤治を迎え、日本初の純国産遠距離無線通信機開発を開始する。開発に先駆けて、生田殖産に電産機事業部を設立させて、国内の販路開拓を一任。事業部長に、自身の長男で、東京大学を卒業したばかりの立持信を充てて国内事業を担当させた。1925年に、日本支店を設立して事業体を統合する。

朝鮮の炭鉱王として

朝鮮に渡った1922年から、朝鮮各地の炭鉱開発調査に資金を投じ、地元民による小規模採掘がおこなわれていた平城炭鉱の目をつけた。1924年、朝鮮開発金庫拓殖銀行との共同出資で「新南朝鮮炭業」を設立し同社顧問として採掘業に乗り出す。1925年には本格操業。翌26年には年間出炭量1500万トンという当時東アジア最大規模の炭鉱に成長する。朝鮮半島最大の炭鉱企業となり、戦後に朝鮮王国から国策会社として国営化されるまで、立財閥の重要な構成企業に数えられていた。

現役引退・篤志家へ

1927年、義兄である梶田麻人台湾国立政治大学嘱託・元台湾人民農場社理事)が朝鮮逓信開発社長に就任、47歳にして現役を引退。釜山をはじめとした朝鮮王国各地に無料開放型の公共図書館を設立。朝鮮王国全体の識字率向上に貢献し、日本の固有とされていた、12歳までの無償義務教育提供のために資材を投じた。1930年開校の釜山王立政治大学王立第三大学の設立に際して国費以上の寄付を行った。人民農場朝鮮赤十字日本学校の設立に注力した。
最終更新:2025年09月11日 09:21