立舘和(たちたてかず)〈1880年1月ー1933年3月〉は、日本の
外交官、実業家、篤志家。
来歴
生い立ち
幼少期
商工官僚の道を模索していたが、祖父が死の間際に、
外交官になってほしいと遺言を残したため、長兄が
商工省、次兄が
内務庁に進む中、自身は
外務省へ進んだ。
1902年4月、外交官として外務省へ入省。
ドイツ、
アメリカ、
中華民国、
インド王国を渡り歩いた。外交官としては、一貫して国際的商取引に強い関心を抱き、その分野の専門家として外務省内の国際経済戦略を長らく担当。1900年代初頭における
国際通貨マフィアの1人である。
第1次世界大戦の戦線が肥大化していた欧州の現状分析を担当するための極秘任務を与えられ、欧州の国際経済流通を研究。終戦の臭いを見せ始めた1918年、
在ドイツ日本国大使館書記官・経済部金融課長として赴任。
WW1終戦交渉
1919年の終戦を欧州で迎えると、日本国終戦講和団の現地要員として
ウィーン会議へ出席。経済専門諮問分科会では、日本政府代表の補佐役を務めた。1920年、終戦事務の調整を終え次第、帰国の途につくようにとの本国からの要請に基づき帰国。
大臣官房付として一時期放蕩の任にありながら、欧州各国の戦力的問題を分析。戦略兵器に劣るドイツにおける無線機通信技術にも関心を向けた。また、
大学寮文章方主教授の地位にあった在野研究の長老だった
野間学然に教えを乞い、宮文学についての知見を深めるなど学びを得た。
官営会社社長
1922年、政府が運営していた
釜山の海産加工所の経営が傾き、新たな経営者を求めていると知り、釜山に顔がきく
生田財閥の
生田恭三郎の仲介で官界出身社長として釜山にわたる。加工所は、経営失敗の煽りからしばらくして倒産。残った土地に
朝鮮開発金庫と
山陽銀行の出資を受けた新会社の「
朝鮮逓信開発」を設立。同社社長として、水産加工所勤務の若者や地元労働者を再雇用してスタートした。主任技術者には、
朝鮮帝国大学工学部客員として朝鮮に渡っていた
夢河藤治を迎え、日本初の純国産遠距離無線通信機開発を開始する。開発に先駆けて、
生田殖産に電産機事業部を設立させて、国内の販路開拓を一任。事業部長に、自身の長男で、
東京大学を卒業したばかりの
立持信を充てて国内事業を担当させた。1925年に、日本支店を設立して事業体を統合する。
朝鮮の炭鉱王として
朝鮮に渡った1922年から、朝鮮各地の炭鉱開発調査に資金を投じ、地元民による小規模採掘がおこなわれていた
平城炭鉱の目をつけた。1924年、
朝鮮開発金庫や
拓殖銀行との共同出資で「
新南朝鮮炭業」を設立し同社顧問として採掘業に乗り出す。1925年には本格操業。翌26年には年間出炭量1500万トンという当時
東アジア最大規模の炭鉱に成長する。
朝鮮半島最大の炭鉱企業となり、戦後に
朝鮮王国から国策会社として国営化されるまで、
立財閥の重要な構成企業に数えられていた。
現役引退・篤志家へ
最終更新:2025年09月11日 09:21