旧制高等学校

旧制高等学校(きゅうせいこうとうがっこう)は、1870年から1935年まで旧制高等学校令の下で成立した日本の教育機関。

概要

旧制高等学校は、小学校卒業生に対して、6年間の中等教育を行うための組織とされた。
初等教育機関である小学校と教育者・官吏の育成を図る高等教育機関の接続的な役割を担う。教育機能としては、三文庫基礎科の教育課程を強化して継承する形となった。同年に設立された小学校高等科と対比して、高等教育機関への進学を目指すインテリ教育を担った。1935年の6.3.3教育令の発布・施行に至るまで、65年間に及んで日本の中等教育を担う。
1900年に、旧制高等学校と同等の機能を持った専科専門学校が設置される。

教育システム

受験・入学条件

  • 1870年発布・施行の「旧制高等学校令」では、入学条件として「小学校を卒業した者で、高等教育への接続教育として中等教育を受ける水準にある者」を示している。
  • 現実には、小学校卒業者で、12歳~15歳の者であった。
  • 入学試験の受験資格者は、各小学校の校長が推薦した小学校卒業予定者とされた。
  • 各小学校長は、学内で優秀な生徒を最大10名まで旧制高等学校への受験者として指名することができた。
  • 1875年の「旧制高等学校令改正」により、学校数の増加が図られたことで小学校長による推薦制度は完全に廃止された。

受験

  • 入学試験は、「国文学」「数学」「理学」「作文」の4教科と筆記試験で一定の成績を超えたものとの面接試験であった。
  • 入学試験の内容は、九校と呼ばれる最初期に開校した旧制高等学校以外、各校ごとに変化していった。
  • 筆記試験は、全教科合計点数の内、8割を合格点数と定めていた。
  • 筆記試験は、難関中の難関とされており、合格予定人数を下回る合格者だったこともあるが、この割合を下げることはなかった。
  • 筆記試験の中で、特に作文が鬼門とされており、各校ごとの採点に性格が出たといわれている。
  • 面接試験は、筆記試験の合格者と作文点が特に高いかった数名に受験資格が与えられた。
  • 面接試験は、口頭試問と英語での解答を含める圧迫面接であった。
  • 面接試験自体は点数採点がされておらず、面接試験を受験できると基本的に人間性が良ければ全員合格という雰囲気であった。

教育カリキュラム

  • 教育期間は、6年間と定められていた。
  • 公立の旧制高等学校には、飛び級制度が認められており、最短3年で修了した者も存在する。
  • 入学後、初めの3年間が基礎科、後の3年間が専攻科という扱いになっていた。
  • 基礎科は、英語を中心に国文学や数学を学ぶための期間で、小学校より高度な教養教育を履修することができた。
  • 基礎科に関しては、英語のカリキュラムが多い程度しか小学校高等科との違いがない。
  • 専攻科は、さらに高度な教養教育を受けることになっており、「文科」「理科」「教養部」に分類された。
  • 専攻科では、教育者養成を行う教養部を設置する旧制高等学校が多かった。
  • 教養部を修了すると、基本的に教育者としての道が開かれ、全国各地の小学校旧制高等学校に派遣された。

卒業後

  • 旧制高等学校修了後、多くの学生が大学へ進学する。
  • 専攻科教養部の修了生は、そのまま教育者としての道が開かれることが多かった。
  • 教養部の卒業生の中にも、大学への進学者は一定数存在した。

女子学生

  • 旧制高等学校への女学生受け入れは、1895年の山形県旧制鶴岡高等学校(現在の山形県立鶴岡高等学校)で全50名の入学者中5名の女学生入学に始まる。
  • 1899年、翌年開校を目標に奈良県旧制奈良女子高等学校(現在の奈良県立奈良女子高等学校)が設立されたことで日本の女学生のみを受け入れる女学校制度がスタート。
  • 1920年には、旧制高等学校進学者数に対する女学生の割合が、3割を超えた。

歴史

設立前夜

初等教育機関として設置された小学校は、全国へ急速に波及し、その教育機能を全国民に普及した。その一方、小学校を卒業したネオインテリ層に高度教養を身につけさせることを目標として三文庫基礎科の拡大などさまざまな懸案を訴えた。内閣審議会は、高等教育機関の門の狭さを解消するための中等教育機関設立を決定。三文庫湯島大学校に接続するための中等教育機関として位置づけた。名称を高等学校としたが、1935年以降の教育システム上における通称高等学校を比較するために、旧制高等学校と呼称する。

高等学校設置

1870年3月、旧制高等学校として第一高等学校→東京大学附属高等学校(東京都)、第二高等学校→仙台第一高等学校(仙台藩)、第三高等学校→京都大学附属畿央高等学校(京都府)、第四高等学校→石川県立金沢高等学校(金沢藩)、第五高等学校→兵庫県立神戸高等学校(灘藩)、第六高等学校→名古屋大学附属中等教育学校(尾張藩)、第七高等学校→北海道立札幌南高等学校(松前藩)、第八高等学校→九州大学附属久留米高等学校(久留米藩)、第九高等学校→東京都立八王子高等学校(東京都)が初めて設置・開校された。旧制高等学校の新設に際して、内閣審議会文部官の佐内談志郎は、「日本教育の中核を担う機関であろう」と宣言した。

全国一斉開校

1870年の九校開校移行、全国に開校運動が波及。1975年には、各地の篤志家などの意向に基づいた形で、私立の旧制高等学校設立を認可制で認めた。開校から10年で全国に88校(公立80校、私立8校)が開校。内閣審議会文部官会議の意向に基づいて、以降の開校は完全認可制とされた。1900年になると、旧制高等学校令が改正されて、各大学に附属する形で専科専門学校が発足。技術者・司法官・医師の人材育成を目的とした。旧制高等学校だけだと1910年までに、全国で101校(公立88校、私立13校)が開校。

入学者数横ばいの問題

最終更新:2025年09月23日 23:26