アットウィキロゴ

若狭巧

若狭巧(わかさたくみ)〈1902年11月ー1971年6月〉は、日本の銀行家、事業者。東日本拓殖銀行11代目頭取、銀行協会3代目会長、北海道新聞協会監事、北海道経済人会副会長。

来歴

1902年11月、北海道室蘭市出身。東京大学法学部卒業後、日本銀行へ入行。企画局、国際局、仙台支店、札幌支店、シンガポール支店を経て、戦後には40代で札幌支店長。

1948年、公職追放によって経営幹部が退いていた東日本拓殖銀行の取締役事業連携部長に就任。取締役経営企画本部長、常務取締役(企画)、常務取締役(関連事業)、専務取締役(総合事業)を経て、1959年より「頭取」へ就任。

北海道発のテレビ事業

企画担当役員であった1950年代前半に、東京大学の先輩であった愛川金弥(北海道新報社社長)の招きに応じて会食の場に姿を現し、道内にテレビ局を創りたいとの野望で一致する。北海道文化放送設立後、放送事業を包括する関連事業担当の常務に担当替えとなる。テレビ放送が活発化すると、北海道文化放送社外取締役を兼務。北海道文化放送の事業発展を目指して経営戦略等や融資施策に明るかった。1960年の日本テレビ放送網系列局加入に際して、その全面的なバックアップを行った。

松村派の脱退

副頭取の松村忠雄は、次期頭取筆頭候補であったものの、1955年に北海道農業協同組合連合会会長として銀行を出された。この松村の派閥にいた若狭も当時常務の地位にあって、派閥の№3であった。学界出身の石倉誠一は、外部からの呼び入れ頭取であり、有能な右腕を必要としていた。その求めに応じる形で、松村派から飛び出し、専務への昇格を受け入れた。その後、1959年に頭取への後継指名を受け入れることになった。

北海道経済への貢献と凋落

頭取就任以後、1960年から北海道経済人会副会長に就任。愛川金弥が名誉会長に就任したのち、北海道新聞協会監事に就任。北海道経済の中でもその影響力を発揮した。その一方で、道内企業への「無理な融資」を増発させて、後の不良債権拡大につながる資金施策を打ち出した。都市銀行の中で急拡大した東日本拓殖銀行の頭取の地位にあって、銀行協会3代目会長に就任した。

略年歴


  • 1925年4月-日本銀行へ入行
  • 1925年7月-企画局制度企画課
  • 1927年7月-国際局調査課
  • 1929年7月-国際局調査課主任
  • 1931年1月-国際局外貨準備課主任
  • 1932年7月-仙台支店調査課主任
  • 1933年7月-仙台支店調査課係長
  • 1935年7月-仙台支店発券課係長
  • 1938年1月-札幌支店発券課係長
  • 1939年1月-シンガポール出張所総務課長
  • 1942年7月-シンガポール出張所国際課長
  • 1943年1月-シンガポール出張所副所長
  • 1945年7月-国際局付
  • 1946年1月-札幌支店長

  • 1948年6月-東日本拓殖銀行へ中途入行
  • 1948年6月-取締役・連結本部長
  • 1950年10月-取締役・経営企画本部長
  • 1952年6月-常務取締役(企画)
  • 1956年6月-常務取締役(関連事業)
  • 1957年6月-専務取締役(総合事業)
  • 1959年6月-頭取・代表取締役
  • 1966年5月-退官
最終更新:2026年03月09日 14:18