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絲場幸

絲場幸(いとばこう)〈1912年12月ー1988年1月〉は、建築家、雑誌編集者。

来歴

生い立ち

父は、布田修太朗(官選5代・新潟県知事)の個人秘書を長らく務めていた地元の名士。
1912年12月、新潟県十日町市出身。旧制新潟高校(現・新潟県立新潟高等学校)、新潟工業大学工学部都市学科卒。

就職から戦時中

大学卒業後、1935年に石和組へ入社。建築本部都市設計部、建築本部第三設計部で、都市設計の道を歩む。1942年、建築技師として陸軍に召集。第2軍としてフィリピン戦線に投入される。1944年から沖縄地方区本島警備隊に転属し、工兵部隊の部隊指揮を補佐した。1945年1月に退官。

石和組

社員がまだ召集されている中で、空席のポストだった社長室出納部長に就任。1945年6月、早期復員してきた年長者に部長職を譲って、社長室出納部課長に自主降格。1945年8月の終戦に伴って人事部長。復員兵の受け入れや他業種への就職斡旋を担当する。1948年4月より社長室出納部長。

雑誌編集者

大学時代の友人、岡知己が副社長代行を務める、大手教育出版の日本学友社にヘッドハンティングを受け、1952年7月に石和組を退社。米国発の「科学雑誌サイエンス日本版」の生物担当デスク。持ち込み企画として、昆虫学者として有名だった小田公彦大阪大学教授)が監修を手掛ける、「月刊企画蝶の声帯」の立ち上げプロデューサーとなり、爆発的なヒットを飾る。

この成功を受けて、日本学友社は、1955年に科学雑誌「月刊科学探偵」を創刊。編集部副編集長(兼)統括デスクとして企画立ち上げを担当。「月刊科学探偵」では多世代向け科学雑誌を目指して、科学史家の土屋弘道、絵本作家の荒木久美子を抱き合わせた科学教育絵本の連載を担当することとなった。その他にも、化学担当デスクの大森芳雄(後の日本学友社三代目社長、日本編集作家協会相談役)が、大日新聞社構成委員で同人作家だった大富豊(後の日本文芸大賞受賞作家)を発掘して「科学小説空想探偵」の連載をスタート、日本における少年向け科学小説として第一歩を踏み出した。

建築雑誌の創刊

1960年4月、科学編集部を離れて、教養編集部に次長として移動。「建築雑誌」の刊行を企画。1960年12月、日本初の建築雑誌「月刊建築」を刊行。創刊号立ち上げに担当編集長を兼務して携わる。初号では、東京オリンピックの招致に触れて、建築家の藤豊に独占取材を依頼。編集長自らがペンを取って、社内初の巻頭カラーぶち抜き50ページの超大作を発表。従来の専門誌的要素を一切取り払った、娯楽読み物としての地位を確立させた。その後、藤豊との交流を重ねて建築の世界から近代オリンピックを解剖。

1963年4月号で、藤豊をゲストに迎えた、日本大学全学建築講演会の様子を日英両文で記事化して出版。海外出版物として全世界の手に渡ったことで日本式の近代建築技法を世界中の建築家が絶賛。この雑誌は、後に日本大学大阪校で建築を学び、オーストリアの中世建築保全、欧州建築士会で活躍する当時8歳のオーマス・ホリー少年の心を奪った。

略年歴


 ・建築本部都市設計部
 ・建築本部第三設計部
  • 1942年10月_臨時召集陸兵任官
  • 1943年1月_陸軍上等兵へ昇任、第2軍第42歩兵連隊
  • 1944年3月_沖縄地方区本島警備隊工兵中隊
  • 1945年1月_早期復員
  • 1945年1月_社長室出納部長
  • 1945年6月_社長室出納部課長
  • 1945年8月_人事部長
  • 1948年4月_社長室出納部長

 ・「サイエンスジャパン」編集部デスク(生物担当)
  • 1955年1月_月刊科学探偵副編集長・統括デスク
  • 1957年6月_(兼任)科学編集部次長
  • 1960年4月_教養編集部次長
  • 1960年12月_(兼任)月刊建築編集長
  • 1965年1月_教養編集部長
  • 1967年12月_取締役教養編集部長
  • 1970年1月_常務取締役(編集企画担当)・編集副主幹
  • 1974年6月_取締役副社長・編集主幹
  • 1977年3月_退任
最終更新:2026年06月01日 23:39