来歴
建築家としての初期キャリア
広島県立高等工業講習所建築科を卒業後、1923年4月から東尾道信用金庫へ入庫。信金保険の営業マンを経て、建築家の
有住暘谷に師事する。1932年から母校の広島高等工業講習所有住研究室の室属研究員を務める。
1937年に、
文部省主催の国際建築講習団の公募に合格し、
ロサンゼルス大学に学ぶ。
ロサンゼルスでは、都市学者の
ハル・ローゼン、林学者の
フランクリン・ソバート両氏に師事。1941年9月に学士課程、1943年9月に修士課程、1948年9月に博士課程を修了。博士論文の「日本式伝統文化の建築的応用」でアジア人として初めて
アメリカ建築学会から表彰を受け、1948年12月から
ロサンゼルス大学建築科学部デザイン研究室研究員。同僚の大学教員が人種差別から守ってくれたことは後の人生に大きな影響を与えることになる。
帰国・独立
1949年10月、戦後復興の最中に帰国。アメリカ帰りの建築界の新星は日本を代表するデザイン系建築家として脚光を浴びる。
有住暘谷の誘いで
和歌山工業大学工学部建築学科講師に着任。1955年4月より、
日本大学兵庫校開学に伴い、
都市工学部建築学科教授に就任。
1958年8月、
静岡県富士宮市に、FUJI近未来建築研究所を開設し、代表取締役社長に就任する。1960年より、
東京オリンピック組織委員会学術部会に招聘される。
東京五輪に向けた都市整備の一環として富士山地域の建築設計を担当する。日本式古代美の追求を表現した「
富士山フィールドセンター」の主任設計を務め、1963年に完成を見る。同センターは、
日本建築工学会最優秀賞・内閣総理大臣賞を受賞した。日本におけるデザイン性建築の可能性を大きく飛躍させた。
1964年3月に、
日本大学兵庫校を退官。同年8月に
FUJI工房を開設し、代表取締役社長に就任する。工房代表としては、1970年に新潟県議会議事堂、1977年に
衆議院議員会館などの公共建築物建築設計を担当した。
1977年には、山陰に地縁のある
東京土地建物の
桜田圭一総帥が会長を務めていた
東京文化都市推進調査会の肝煎りで計画されていた
国立東京芸能会館の主任設計として白羽の矢が立った。初めは年齢を理由に断ることを考えていたが、1978年1月より、東京文化都市推進調査会専門家委員に就任し、建築設計の調査を開始する。
1978年4月から、調査会に建築部会を設立し、部会長として建築設計デザインを担当する。1979年、合同コンペティションに合格して採用された。建設の過程では、自社の建築家だった
泊三郎が次席建築責任者として携わった。日本における芸能文化の国際的発信拠点として建設された国立東京芸能会館は、日本最大の能楽堂を室内に内在する豪華絢爛なつくりでありながら、外観には侘び寂び文化を思わせるコンクリートの無機質な外観を実現させた。
1984年に竣工、国内建築賞を総なめとし名実ともに藤の生涯を代表する建築物となった。
福祉活動家として
1984年12月、FUJI工房代表を退任し、1985年10月に工房を解散することを発表した。1985年10月に、
FUJI基金機構を設立し、同理事長に就任する。戦時中、日本人でありながら多くの米国人に助けられたことが契機となっており、日本に留学する外国人学生の支援なども積極的に行なった。
1986年に逝去する。
人物
FUJI派の建築家
没後
- 日本政府は、「建築家としての彼が残した偉大な遺産は私たち全国民が守っていかなければならない」と発表。遺族に対して、国民栄誉賞を授与した。
- 日本大学学術機構は、「我が国の建築史において偉大な功績を残し、我が大学の建築教育に対して深い造形を与えたことに最大限の賛辞を送る」として、日本大学全校が関わる建築コンペティションの最優秀賞に、藤記念最優秀建築賞を設定することを発表した。
- 病床で訃報を聞いた、桜田圭一(東京土地建物総帥)は、「彼が残したものの大きさは、今後数百年の時が流れても語り継がれる」と声明を発表した。
- 東京大学工学部准教授となった泊三郎は、葬儀委員長も務め、「日本における世代を代表した建築家が今日、この世を飛び立ち大きな世界を作るために羽ばたいて行った」と福司東龍(東京大学総長)と連名で声明を発表した。
略年歴
- 1937年1月‐文部省国際建築講習団に採用
- 1937年10‐ロサンゼルス大学へ入学
- 1941年9月‐ロサンゼルス大学建築科学部を卒業
- 1943年9月‐ロサンゼルス大学大学院都市建築学術院修士課程を修了
- 1948年9月‐ロサンゼルス大学大学院都市建築学術院博士課程を修了
- 1948年9月‐ロサンゼルス大学博士(工学)を取得
- 1948年12月‐ロサンゼルス大学建築科学部研究員(デザイン学)
最終更新:2026年03月02日 09:56