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井川正成

井川正成(いがわまさなり)〈1888年9月~1969年1月〉は、神戸市長、参議院議員県立兵庫大学初代学長。戦後期における神戸市復興の中心的役割を担ったことから「復興市長」と呼ばれる。
井川柾太郎、息子井川正敏、孫井川正義の全員が神戸市長を務める「親子4代市長」としても知られる。

来歴

1888年9月、灘藩生まれ。父の井川柾太郎は、出生当時に灘藩庁の高級官吏で、農林省を経て神戸市長となる。旧制神戸高校(現・兵庫県神戸高等学校)を経て、東京大学法学部に学ぶ。1911年に、日本銀行へ入行。発券局、札幌支店、高松支店、企画局、総務局を経て、1934年に発券局流通課長を最後に退職。

神戸市

地元神戸市へ戻り、東亜同盟の地方代議員を経て、1937年の神戸市長選挙に初出馬。推薦候補として初当選を果たす。1939年に、戦時行政特別法施行に伴って、選挙の無期限延期が定められると、無任期市長となり、戦中の神戸市を率いる。1942年9月の第12回衆議院総選挙に日程を合わせた、1942年全国選挙週間に執行された神戸市長選挙で再選。当選後、市助役に、元海軍少将である、十都千一朗(在郷軍人会神戸支所長)を任命したことでも注目を集めた。
1945年8月の終戦を迎えると、連合国軍神戸市にも進駐し、神戸市役所、神戸市役所神戸港事務所、神戸市議会議事堂、神戸市長公邸が接収された。そのため、三ノ宮区事務所に市役所機能を移し、同事務所の市長室でしばらく生活した。1946年4月に東京で行われた、最後の大日本首長報国会へ参加したことから、公職追放リストに名前が挙げられ同年5月に失職。職務代執行者がたてられたが、1946年12月の第1回地方統一選挙で、神戸市長に再選を果たす。
再選後、連合国軍接収物返還条約(1948年・締結)に先駆けて、1947年中の連合国軍による接収物の返還交渉を行い認めさせる。この時、神戸進駐部隊司令官であったトーマス・エリアズマン(米国陸軍少将)と個人的な親交を深め、同氏の故郷でもあるオクラホマ州フレデリクスは、友好都市協定を結ぶことになる。1948年には、神戸市役所に復帰して執務を行い、市長公邸を日米共同連絡事務所として連合国軍に供与する。
第2回地方統一選挙第3回地方統一選挙でも再選を果たし、都市復興と教育再生をテーマとする街づくりを進める。
1958年に退陣を表明し、20年以上に及ぶ長期政権から降りる決断をする。

退陣後

1960年には、自身が市長時代に進めた高等教育拡充計画の成果として新たに開学した、県立兵庫大学の初代学長に就任。運営執行理事会理事を兼ねる。1965年に1期5年の任期満了に伴って辞職。
1966年の第7回参議院通常選挙兵庫選挙区からトップ当選を果たして国政に進出。無所属の立場から地方における教育改革を進めるため、「公立大学法」の制定などに尽力した。しかし、1968年の末から持病の糖尿病が悪化し、年明けを待って逝去する。

人物・政策

最終更新:2026年02月23日 11:32