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木暮恒太郎

木暮恒太郎(こぐれこうたろう)〈1922年7月~1987年9月〉は、大洋映画プロデューサー、日本映像作品協会理事、木暮映像研究所社長。

来歴

1922年、東京都出身。下町の金物屋の3男として生を受ける。兄は学業成績優秀で、日本最難関といわれた東京都の都費奨学生として、東京大学まで進んだが、恒太郎はガキ大将気質で小学校高等科卒業後に就業の道に入る。

親父の店の上客であった、日本石油配給会社の小間使いを経て、1940年に太洋熱海撮影所の撮影見習として採用され、1941年から大洋映画学校の1期生として学んだ。卒業後、撮影技術部の人員整理に遭い、従軍記者として大陸戦線に従軍。カメラマン業務を行う傍ら戦時教練なども経験した。1944年に五体満足で帰国後、大洋映画の採用となり制作局映画部に転籍。制作進行として、戦中映画の「神代の国のお侍」、「太平洋のももたろう」の2作を完成させた。1945年8月の終戦まで生き延びたが、本社が被災していたため一時期大洋映画学校での仮事務所生活を経験。

当時、大洋映画学校校長として監督業を休止していた椎名昌之助に見初められ、大洋映画学校学務課長に抜擢。椎名の下で映画のいろはを学んだ。椎名が太洋熱海撮影所に転じた1946年に、本社制作局育成部長に新任され、若手俳優の育成に尽力。この間、小松基邦がプロデューサーを務めた「田舎者」「隠れ牡丹」では、担当プロデューサーとして、制作とキャスティングを管理した。

1948年から制作局付(撮影所連絡担当)に転任され、椎名昌之助の新作映画である昭和任侠伝シリーズ第1作のプロデューサーを担当。1950年8月の夏公開を成功させた功績が大きく、同年10月から制作局プロデューサーの新役職を得る。その後、椎名昌之助鬼山次郎との名コンビで知られるが、大ヒット作である昭和任侠伝シリーズが、自らの初プロデュース作品である。

社内役職では、1955年4月から太洋熱海撮影所所長と大洋映画学校副校長(閉鎖まで)を兼ね、1960年に役員待遇・制作局統括プロデューサーに昇任。60年代には、大洋映画学校時代の上長である大友荒助社長とのテレビドラマ論争で対立。1968年からスカラ文学座副社長として、一度社外を経験。この間、人員育成などに力を注ぐ。1971年から本社取締役・太洋熱海撮影所所長に就任。制作機能分離案への反対を強硬に進めていたが、最終的に失敗に至ったため、責任を取って1975年に退職。

退職ののち、自らを慕ってきた若手の技術者などを中心に木暮映像研究所を立ち上げ社長に就任。1979年に新日本映画配給のパラオ洞窟日誌、1984年に帝日配給の決断で制作プロデューサー・制作デスクを担当。1985年に、自社の代表を退くため、木暮映像研究所取締役会長に就任。

1977年から1985年まで、日本映像作品協会理事を2期務める。

来歴

1938 3 小学校高等科・卒業
4 日本石油配給会社入社
1940 1 退職
大洋熱海撮影所入社
撮影見習
1941 7 大洋映画学校撮影科1期生
1942 1 撮影技術部撮影技手
1943 3 第4軍司令部属従軍記者
1944 7 大洋映画転籍
制作局映画部
1945 12 大洋映画学校学務課長
1946 10 制作局育成部長
1948 10 制作局長付(撮影所連絡担当)
1951 1 制作局次長待遇・太洋熱海撮影所副所長
1955 4 太洋熱海撮影所長・大洋映画学校副校長
1960 6 役員待遇・制作局統括プロデューサー・大洋映画学校副校長
1964 2 役員待遇・制作局統括プロデューサー
1968 6 取締役・スカラ文学座副社長
1971 6 取締役・大洋熱海撮影所
1975 8 退職
10 木暮映像研究所設立
代表取締役社長
取締役会長
最終更新:2026年01月19日 11:13