来歴
1922年、
東京都出身。下町の金物屋の3男として生を受ける。兄は学業成績優秀で、日本最難関といわれた東京都の
都費奨学生として、
東京大学まで進んだが、恒太郎はガキ大将気質で小学校高等科卒業後に就業の道に入る。
当時、大洋映画学校校長として監督業を休止していた
椎名昌之助に見初められ、大洋映画学校学務課長に抜擢。椎名の下で映画のいろはを学んだ。椎名が
太洋熱海撮影所に転じた1946年に、本社制作局育成部長に新任され、若手俳優の育成に尽力。この間、
小松基邦がプロデューサーを務めた「
田舎者」「
隠れ牡丹」では、担当プロデューサーとして、制作とキャスティングを管理した。
1948年から制作局付(撮影所連絡担当)に転任され、
椎名昌之助の新作映画である
昭和任侠伝シリーズ第1作のプロデューサーを担当。1950年8月の夏公開を成功させた功績が大きく、同年10月から制作局プロデューサーの新役職を得る。その後、
椎名昌之助や
鬼山次郎との名コンビで知られるが、大ヒット作である
昭和任侠伝シリーズが、自らの初プロデュース作品である。
社内役職では、1955年4月から
太洋熱海撮影所所長と
大洋映画学校副校長(閉鎖まで)を兼ね、1960年に役員待遇・制作局統括プロデューサーに昇任。60年代には、大洋映画学校時代の上長である
大友荒助社長とのテレビドラマ論争で対立。1968年から
スカラ文学座副社長として、一度社外を経験。この間、人員育成などに力を注ぐ。1971年から本社取締役・
太洋熱海撮影所所長に就任。制作機能分離案への反対を強硬に進めていたが、最終的に失敗に至ったため、責任を取って1975年に退職。
来歴
| 1938 |
3 |
小学校高等科・卒業 |
|
4 |
日本石油配給会社入社 |
| 1940 |
1 |
退職 |
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大洋熱海撮影所入社 |
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|
撮影見習 |
| 1941 |
7 |
大洋映画学校撮影科1期生 |
| 1942 |
1 |
撮影技術部撮影技手 |
| 1943 |
3 |
第4軍司令部属従軍記者 |
| 1944 |
7 |
大洋映画転籍 |
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|
制作局映画部 |
| 1945 |
12 |
大洋映画学校学務課長 |
| 1946 |
10 |
制作局育成部長 |
| 1948 |
10 |
制作局長付(撮影所連絡担当) |
| 1951 |
1 |
制作局次長待遇・太洋熱海撮影所副所長 |
| 1955 |
4 |
太洋熱海撮影所長・大洋映画学校副校長 |
| 1960 |
6 |
役員待遇・制作局統括プロデューサー・大洋映画学校副校長 |
| 1964 |
2 |
役員待遇・制作局統括プロデューサー |
| 1968 |
6 |
取締役・スカラ文学座副社長 |
| 1971 |
6 |
取締役・大洋熱海撮影所長 |
| 1975 |
8 |
退職 |
|
10 |
木暮映像研究所設立 |
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代表取締役社長 |
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取締役会長 |
最終更新:2026年01月19日 11:13