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民族差異主義
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概要
民族差異主義 | |
英名 | Ethno-differentialism |
別名 | 民族多元主義(Ethno-pluralism) |
民族差異主義とは、民族、人種、文化などによる違い(差異)やそれらの多様性(多元性)を重視し、それらを保護するために民族単位での地理的隔離を主張する右派の思想である。
「差異への権利」
人々には民族、人種、文化など出自によってさまざまな違いがある。各自がそのような違いを多数派に同化させたり、融合させたりすることなく維持する権利のことを「差異への権利」と呼ぶ。民族差異主義者はこの「差異への権利」を保護するためには、民族などの単位で地理的に分割するしかないとし、分割することによって各民族が自身の文化的ペースで民族を発展させていくことができると主張している。
反普遍主義
普遍主義はあらゆる他者を自らに併合しようとする思想であり、併合された後にも「他者」なるものは残るが、それは他者としての本質を失った抜け殻としての「他者」でしかない。民族差異主義は、普遍主義を西洋中心主義の一貫として批判し、他民族や他文化を併合することなく、むしろ隔離して維持し、バラバラに共存することを主張する。
客観性と普遍主義の違い
普遍主義は自らを客観的根拠があると主張したがるが、民族差異主義者はその違いを重視する。
客観性とは、例えば科学のように個別の特殊な事例から出発し、抽象的な概念を導き出す営みである。
一方で、普遍主義は、極めて歪な抽象概念から出発し、それを個別の特殊な事例へと強制的に適用しようとする営みである。
つまり、客観性と普遍主義では抽象と具体の順序が逆転しており、客観性では具体→抽象であるのに対し、普遍主義では抽象→具体となっているのである。
民族差異主義者が普遍主義を批判するのは、普遍主義がある種の「欺瞞」から出発し、個別具体的な人々を標準化し、「普遍的」な規則へ従うことを強いている点である。
民族差異主義者が普遍主義を批判するのは、普遍主義がある種の「欺瞞」から出発し、個別具体的な人々を標準化し、「普遍的」な規則へ従うことを強いている点である。
普遍主義のパラドックス
ニック・ランドが民族差異主義者と呼ばれることはないが、比較的近い概念を提示している。ニック・ランドは啓蒙を「自己正当化のプロセス」として定義した。つまり、啓蒙は、客観性が持つような確固たる根拠のようなものはなく、ただ自らが産出し続ける論理を人々に自明なものと思わせ続けることによってのみ存続しているということである。
この啓蒙は殆ど上述の普遍主義に置き換えてもよく、民族差異主義者も普遍主義はろくな根拠がないのにもかかわらず、自らを正義と定義し、人々を洗脳し続けていると主張している。繰り返される洗脳の結果、最初は違和感を覚えていたとしても、それは内面化され徐々にその普遍主義の論理を「自明」なものとみなすようになってしまう。最初は違和感を覚えていたが、内面化の結果その論理を無意識的に使ったり、普遍的規則に従ったりしつつ、やはりその論理はおかしいと口では言い続けるような自己矛盾を抱えた人間のモデルこそが、民族差異主義者やニック・ランドが主張するような普遍主義(啓蒙)によって他者性を剥奪された(普遍主義にとっての)「他者」である。
普遍主義は他者を尊重することを主張しながら、一方で自らの恣意的な規則を前提化、あるいは人々に内面化を無意識的に強いることによって、他者の他者性を剥奪し、「他者」を生み出している矛盾したプロセスであり、これを普遍主義のパラドックスと呼んでも差し支えないだろう。
ここまで抽象的に述べたが、具体的に民族概念に落とし込むとする。普遍主義は民族的文化を尊重すると主張しながら、主に西洋的なルールやポリコレへと従うことを一方で暗黙の(あるいは明示的に)前提としており、結局そのシステムの中で主張される「民族的文化」とは、例えば観光目的だけに行われるような「伝統行事」のように西洋ルール(資本主義)のように形式化された「文化」でしかないということである。
アラン・ド・ブノワはこの普遍主義をポリコレにコミットする人々がしばしば用いる「人権」に当てはめ、「人権」概念は客観性を欠くにも関わらず、あらゆる文化や民族へと強制されており、各文化や民族の規範における独自性を剥奪していると主張した。