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歴史

国家建国前(日本における舞羅氏の興亡)

<10世紀末>
 九州北部・山口西部の漁村は相次ぐ外寇により深刻な被害を受けていた。
 しかし、中央の貴族は都での権力争に明け暮れており、大宰府の地方豪族も広大な海域を守備するには力不足であった。
 そんな中、貧乏武家として山口西部に都落ちしてきた舞羅久は事態を憂い、漁民たちの有志による自警団「舞羅衆」を結成した。

<11世紀初頭> 
舞羅衆は下関・北九州・壱岐・対馬を拠点に大規模な水軍に発展し、この地域の守備に大きく貢献していた。
しかし、この頃になると独自の通行税やみかじめ料を取るようになっていたため、大宰府の九州武士たちからは「悪党」として邪険にされていた。

<1019年5月4日>
刀伊合戦が起こる。
対馬を襲った女真族の賊軍に対し、舞羅衆は大宰府と共闘してこれを撃退した。
以降、舞羅氏は大宰府から地方豪族として認められ、舞羅水軍を名乗るようになる。
これに伴い、舞羅水軍は大宰府公認の下、東南アジア地域との貿易にも手を出し始め、航海・造船技術を大いに発展させる。

<1133年7月9日>
日宋貿易の利権保護のために舞羅水軍は平忠盛と同盟を結ぶ。

<1160年1月19日>
平治の乱が起こる。
後の日本は武士の時代・平家の時代に移り、平家方の舞羅水軍も最盛期を迎える。
ただ、大陸側との交易権の多くは平家側へ譲渡されることになったため、舞羅水軍は新天地を求め黒潮に乗って太平洋の彼方へと進出し始める。

<1179年>
舞羅水軍調査船団の一部が南米エクアドルに漂着する。
現地でワリ帝国とのコンタクトを果たす。

<1180年>
治承・寿永の乱が起こる。
平家は連戦連敗し、舞羅水軍も本州側の拠点をすべて失う。

<1185年4月25日>
壇ノ浦の戦いが起こる。
舞羅水軍の奮戦もあり平家が勝利するも、甚大な被害を被り、九州北部の制海の維持が困難になる。
これにより九州沿岸部への源氏方水軍襲撃は激増し、舞羅水軍は急速に衰えていった。

<1188年5月20日>
舞羅水軍の調査船団が南米から帰還する。
彼らが持ち帰った情報を基に、舞羅水軍内にて南米新天地への移住計画が持ち上がる。

<1192年10月10日>
源氏の九州征伐により大宰府が陥落する。
九州を追われた平家残党や舞羅水軍は国外へ脱出し、このうち一つの船団が太平洋を越えて新天地を目指すことを選択する。
最終更新:2020年05月31日 04:48