昼なお暗い森の中を、一人の熊人が駆け抜けていく。
大兵肥満でありながら、その身のこなしは異様に軽い。柔らかい腐葉土をものともせずに踏みしめて飛び出しては、音もなく地に足をつく。油断のない目を周囲に向けたかと思えば舌打ちし、再び走り始める。森には鳥の声一つなく、葉をさざめかせる風とてない。重苦しい雰囲気に満ち満ちた森の中を、熊人はがむしゃらに走り抜ける。その有様は何かを探しているようでもあり、また何かに追われているようにも見える。
ふと、熊人が歩みを止めた。息をつめ、身を低くして地に伏せる。その体勢のまま、熊人はじりじりと移動し始めた。まとう道服の袖が湿った落ち葉を引っ掛け、全身はたちまち泥に塗れたが、熊人はそれを気に病む様子はない。
熊人の視線の先にあるのは、木々の隙間に生じたちいさな空き地だった。
光の差し込む空き地には、一本の若木が立っている。
頭上を多い尽くす樹冠にぽっかりと開いた穴から降り注ぐ日光を一身に浴びて、若木はみずみずしい生気を放射していた。しなやかに伸びた枝には新緑の葉が茂り、陰鬱な気に満たされた周囲の森とは一線を画した雰囲気である。
若木は実をつけていた。みかんにも似た、手のひらに収まるほどに小さな果実がただ一つぶら下がっている。そのことを見て取った熊人は固唾を呑んだ。ぱっと頭を上げて周囲を警戒し、ふたたび地にはいつくばっては匍匐前進を開始する。まるで若木に見つかるまいとしているようである。先ほどまでの俊足から一転して、熊人は気の遠くなるような時間をかけて空き地の際まで這い進み、そこでまたしばらく動きを止めた。凝ったような時間が過ぎ去っていき、やがて熊人は覚悟を決めたかのように、空き地の際でそろそろと立ち上がった。
踏み出す一歩が、空き地に落ちる光を浴びる。下ろした足が、柔らかな下生えをゆっくりと踏みしめる。重心を移さぬまま、熊人はしばらく若木をにらんだ。いぶかるように顎をかき、辺りを見回し、やがて熊人は安堵したように次の一歩を踏み出した。
その足元で、小枝がぴしりと音を立てた。
無音の何かが、熊人の周囲で爆発した。
熊人は驚くべき速さで身を翻し、後方から飛来した何物かをすばやく掴み取った。してやったりとばかりに牙をむき出した熊人の顔が、こらえきれぬ痛みにゆがむ。手のひらを開けば、そこでうごめいているのは三つの種だ。種は芽を吹き、双葉を開き、熊人の手のひらに根を潜らせていく。悲鳴を上げて引き剥がそうとした熊人の努力もむなしく、種は血を吸い上げて茎を伸ばし、真っ赤な葉を茂らせていく。見る間に手の上で成長した植物が、まるであざ笑うかのように花を開かせ――
反対の手でどこからともなく壷を取り出した熊人が、手のひらを花ごとその中につきこんだ。
再び取り出されたとき、花は見るも無残な有様に変わっていた。その全体に群がるのは蝗だ。ぎちぎちと鳴らされるその顎は金属的な光沢を帯び、明らかに尋常の生き物ではない。蝗の群れは瞬く間に花を喰らいつくし、次なる獲物を求めて頭をめぐらせるといっせいに飛び立つ。雲のように広がった蝗の群れは、しかし中空で不意に力を失い、総崩れになってぼとぼとと落下していく。熊人がいぶかしげに顔をしかめる暇もあらばこそ、大地からするすると伸びだすものがある。茎。その先端に引っかかっているのは蝗の顎だ。熊人の手のひらにもぐりこもうとしていた種は、その身を喰らう蝗を逆に内部から喰らったのだ。
熊人は一時もためらうことなく再び壷をひっつかむやぶんと打ち振る。振り出された液体が地に落ちるとしゅうしゅうと音を立てて焼けた。強酸。寄り集まりつつあった茎はひとたまりもなく溶け落ち、腐敗と硫黄の臭いで大気を満たす。熊人が牙をむき出して勝ち誇り、だがそれもまた一瞬のこと。焼きつくされた地面が内側からゆっくりと盛り上がるまでのことだ。
熊人は高く飛び上がっていた。
追いかけるように伸び上がるのは大地そのもの。まるで腕のように伸び上がった先端が熊人を捕らえようとした刹那、熊人の抱える壷から棒が突き出された。棒はわずかに土塊を押しやり、熊人の体を逃がすとそのまま宙に投げ出される。棒の先端に取り付けられた雑巾を視界にとらえた熊人は大きく目をむきながら着地し、一方で伸び出した土塊はそのまま柱となって固まった。
ひゅんひゅんと風を切って、周囲の森から何かが打ち込まれた。
土塊がぶるりと震えたかと思うと、その表面でいっせいに草木が芽吹いた。
土肌は瞬く間に苔で覆われ、その上に開いた若葉は鱗のごとく、先端には何の冗談か二つの花が並ぶ。根元からぽきりと折れた土塊たちは、その腹から何対もの太い枝が飛び出した脚で大地を踏みしめて着地、熊人に向かって無音の咆哮を上げると、百足のごとき脚捌きで突進を開始した。
ぶち当たられた熊人がひとたまりもなく吹き飛ばされる。その手を離れて転がった壷に、どこからともなく湧き出した蟻の大群が群がった。とたんに壷からは小さな脚が飛び出し、壷はそのままその場から走り去った。やっとの事で立ち上がった熊人は歯軋りしながら懐に手を突っ込み、取り出した何かを地に投げた。サイコロであった。目はピンゾロ、悪い目である。
熊人は若木を見やってため息をついた。緑百足はいまや若木と熊人の間に位置取り、熊人すら子どもと見えるような巨躯を悠々と宙に泳がせている。その身がたわみ、巨大な力を蓄えて熊人を狙いにかかり、そして今しも緑百足が力を解き放とうとしたまさにその時である。
熊人がさっと手を挙げた。応ずるように突如空から落ちてきた赤い縄が熊人の腕にしっかと巻きつき、その巨体をやすやすと吊り上げた。予期せぬ動きに混乱したか草百足がわずかにためらい、その一瞬が熊人をして安全圏に到達せしめていた。目標を見失った管百足はそのまま森の中へと突っ込み、何本もの樹木をなぎ倒した。
対する熊人はその機を逃さず縄を放して若木に飛び掛り、腕を伸ばして果実をやすやすと掴み取った。
実を奪われた樹は瞬く間に枯れていく。もろもろと崩れ去る若木を尻目に、熊人は実を眺めやって会心の笑みを浮かべた。果実は芳烈な香りを放ち、生命力をみなぎらせて輝いている。香気は濃密さを増して光さえも曲げかねないような存在感で大気を満たし、熊人の意識を捕らえて離さない。しきりと瞬きを繰り返すその顔がゆらりとかしぎ――次の瞬間、熊人は果実を叩き潰していた。とたんに香気が消えうせる。飛び散った汁気をぬぐい、清浄な空気を一気に吸い込んで己を立て直すと、熊人はひとしきり地団太を踏んで悪態をついた。
背後では、体勢を立て直した百足が大きく伸び上がっている。その前面がべろりとはがれ、内部で蟲やミミズがうごめく様があらわになった。巨大な口のようでもあり、露出した内臓のようでもある。全身を一つの消化器官と化した百足は熊人に覆いかぶさろうとしたが、熊人はもはや一瞥を向けるのみ。どん、と音を立てて大地を踏みしめるや土煙があがり、それが晴れたときには熊人の姿は消えうせている。標的を見失った百足はしばらくうろうろと頭を彷徨わせていたが、やがてゆっくりとくずおれた。その体からは苔や羊歯が芽吹き、見る間に大地と一体化していく。森のはるか高みで枝がその位置を変え、降り注いでいた日光はさえぎられた。
空き地は暗闇の中に消えうせ、森はいまや、完全に無音である。
「それで? またそのまま逃げ帰ってきたというわけかや?」
「逃げ帰ってきたわけではありません。出直すつもりです」
「一昨日もそういうとったのう。わしの記憶違いでなければ」
狼人の少女はそういうとからからと笑った。仏頂面で直立する熊人の半分ほどしかない背丈を丈の余る道服に包み、欠けた茶碗に手酌で酒を注いではちょこちょこと口をつける。酒気を含んだ吐息を吐き出すほどに銀色の体毛が自然と逆立ち、互いにぶつかり合ってはしゃらしゃらと金属じみた音を立てる。否、それは正しく鋼線であり、異形はその身に宿した神力に由来している。少女の名は繊鏡娘々。仙人である。
繊鏡娘々はたっぷりと時間をかけて酒を飲み干すと、直立不動で控える熊人の腹を茶碗でつついた。
「今しがた思い出したが、お前は一昨日の一昨日も同じこと言うとったのう。ついでにその前の日も。そら、こんな面だったかの」
娘々の手がつう、と空を撫でる。と、どこからともなく溶け出した色が宙に色彩を映し出した。娘々の銀毛はわずかに逆立ち、その表面には色とりどりの輝きが踊っている。ひょいひょいと上機嫌に動かされる指によって描き出されたのは道人の写し絵である。いかにも面倒くさげに口を開いているその様には音こそ伴っていないが、まさしく真に迫っている。幻を自在に映し出す仙力の発露である。
楽しげに道人の姿を描き出しながら、娘々は道人を見上げて笑った。
「ほれ、こんな感じじゃよ。ご大層なこと言うとったのがよく分かるじゃろ」
「さて、音が伴っておりませんので、何を以前の私が何を申したかはわかりませんな」
「嘘こけ。唇ぐらい読めるくせして。『やります。否応なしにやらせていただきます』とか言うとったじゃろ」
「何がおっしゃりたいのですか」
「来た時はあんなに自信満々じゃったのに、ずいぶん時間かかっとるなーと思っての。何回偽物にひっかかっとるんじゃ」
「努力はしますが、状況は刻一刻と変化するものです。それに、できると明言した覚えもありません。偽物に関しては言葉もありませんが」
「あのな天目よ、この際な、できんならできやせんというてもいいのじゃぞ。わしも別に意地悪がしたいわけではないからの」
「ではお許しが出たようなのではっきり申し上げます。出来ません。というかやりたくありません」
「天目よ、お前はやっぱり面白い奴じゃのう。ホントに『出来ません』というやつがあるか」
「無理なものは無理でございます!」
熊人――天目道人は爆発した。神妙な顔つきは消え去り、のしかからんばかりの勢いで娘々に詰め寄る。遠慮なく飛び散るつばきに、娘々はわずかに顔をそばめた。
「私の能力が及ばぬせいで師叔のお顔に泥を塗ることになるかと思うと気が進みませんが、あれはいくら仙人だからといってどうこうできる代物ではございません! 森全体が殺しに掛かってくるのですぞ!」
「まあそりゃ、大事な実じゃからの。くすね取ろうとする相手には容赦なかろ」
「それもただの森ではない、神力を帯びた森がですぞ! もう少し普通の森らしい森ならばよかったのです! なんですかあの百足は! 殺す気か!」
「そりゃ殺す気じゃろなあ。自分でもさっき森全体が殺しに掛かってくるって言うとったじゃろ。あとな、細かいことじゃが森ではないぞ。あれで一本の木じゃ。幹はたくさんあるが地下で全部つながっとる。教えたとおもうんじゃがのう」
「そんなもんどうでもよろしい! とにかく私がいいたいことは、もう二度とあの森に足を踏み入れるつもりはないという事でございます!」
「天目よ、何度も同じことを言うのはお前を理解力に欠けたバカ扱いしておるようで気が引けるんじゃが、あれは森ではなくてな」
「師叔!」
「まあそう腹を立てるな。だいたいお前は声がでかすぎる。弟子たちをおびえさせておるぞ、のう?」
天目道人が背後に目をやると、そこには兎人の少女がしゃがみこんでいる。大事そうに壷を抱え込んでふたを押さえ、長い耳をどこからともなく伸びだした赤い紐でゆるく縛っている。しっかりと閉じられていた目を恐る恐る開くと、兎人はあたふたとあわてた。指先からするすると赤い糸が現れ、空中にごちゃごちゃとした文字を描くそのかたわらでは、壷のふたがパカパカと開閉する。兎人の名は紅索子、壷の名は吐月壷、いずれも天目道人の弟子に当たる。
『あの、別におびえてません』
「ですぜ。普段からこんな大声ですぜ」
「おーおー、きちんと師父を立ててお前たちはお利口じゃのう。わしの甥弟子もお前たちぐらい素直だったらよかったのにの。誰のこととは言わんが」
「聞こえております」
「しっとるよ? こんなにそばにおるからの、聞こえて当たり前じゃよ? 変なこという子じゃのうお前は」
娘々は道人を招きよせると、立ち上がって道人の頭に手を伸ばした。膝を突いた道人の頭をぐりぐりと撫で回しながら、娘々は気遣わしげに道人の顔を覗き込んだ。
「あのな天目、どーんだけ疲れとるのか知らんが、妙な事を真顔で言うようになったらおしまいじゃぞ? わしでよければ相談にものるぞ。師兄にいえんようなことでも聞いてやるぞ」
原因はあなたです。そんな言葉を飲み込み、道人は心中ため息をついた。
仙人とは、金羅の神力をその身に宿した魔人のことである。超自然的な力を行使して人界の外に生きる彼らを縛りうるものはほとんどないが、例外もある。代表的なものが金羅の命令であり、そしてもう一つが師弟関係である。
ほとんどの良い仙人は金侍三仙を頂点とする師弟関係の網に組み込まれている。三仙はおのおの弟子を持ち、その弟子もまた自分より力の劣る仙人たちを教育する義務を負い、更なる弟子もまたしかり。出自や能力、あるいは師匠にあたる仙人の好みなどによって誰の弟子となるかが定まり、そうして一度絆が生まれれば、関係が覆ることはほとんどありえない。仙人としての位階は三仙にどれほど近いかによって決まり、目上の者に対しては礼儀を尽くすことが要求される。これを拝師といい、武芸者や料理人の世界においても見られる上下関係のありかたである。
全鏡娘々は天目道人の師の妹弟子にあたり、これを師叔という。師そのものよりはやや下るが、目上であることにかわりはない。天目道人にしてみれば、なかなか面倒な相手である。
「失礼します」
そう声を掛け、部屋に入ってきた者がある。
「お酒のお代わりをお持ちしました」
柔和な顔立ちの老狸人である。苦言を呈しようと開かれかかった道人の口がきゅっと結ばれ、対照的に全鏡娘々は相好を崩した。
「おーこれはかたじけない。申し訳ありませんの、際限なく飲んでしまって」
「気に入っていただけて何よりでございます」
「本当に際限なく飲むのだからたちが悪い」
「天目あのな、聞こえとったからな今の。にしてもこれはなんという酒でしたかのう」
「黒亜酒と申しまして、この地の特産でございます。その名の通り――」
「黒亜果なる果実を発酵させて作るそうですな。もっとも、味の決め手は土精の力を借りた埋設熟成法の方にあるそうですが。保存用に果物を埋めていた山猿のまねをしたところこの製法が見つかったとかで、もう三百年かたはこの地の名産といえば黒亜酒だそうですな」
「おーくわしいのう天目は。見直したぞ」
「この説明を聞かされたのは私の知る限り五回目です。師叔におかれましては、もう少し周りのことどもに注意を払われたほうがよろしいのでは」
「うんうんよーくきいとるよ。あのな天目、お前が事あるごとに嫌味を言うとるのはちゃんとわかっとるよ。無視しとるけどもな。じゃあいただきます」
「別に嫌味など……」
顔を引きつらせる道人をよそに、娘々は酒を注ぐとくいと飲み干す。流れるような動作である。
「うーん、すばらしい。こりゃ皇帝の宴席にだしても恥ずかしくない代物じゃ。村長、こんな酒が一日中飲めたら幸せじゃろうのう。そう、樽二つ分もあれば一日中飲んでられるかのう」
「すぐ用意させましょう」
「村長、こんな露骨極まるたかりなど相手せずともよろしいのですよ。決して安いものでもないのでしょう。師叔ももうすこし節度をもっていただきたい」
「いやいやとんでもない。喜んで納めさせていただきます」
狸人の村長はそう言って揉み手をした。
「確かに黒亜酒はよい値で売れますが、仙人の皆様をもうならせたとなれば評判もうなぎのぼり、更によい値をつけることが出来るでしょう。樽の一つや二つ安いものでございます」
「樽がもらえるならいくらでも唸るぞ。そら天目、お前も唸れ」
「師叔!」
「それに、来年度以降は間違いなく豊作が見込めます。これも金羅様がこの村を御用地として選んでくださったおかげでございます。私どもとしましては、ここで黒亜酒の評判を大いに高めながら大幅増産にのりだし、そのままよい流れに乗って商売をしたいところなのでございます。ですから、是非お引き立てを賜ることができれば幸いです」
「そりゃもう」
「ありがとうございます。それでは失礼いたします」
村長が礼をして部屋から去ると、娘娘の愛想笑いが鳴りを潜めた。目を細めて口の端を吊り上げ、天目道人に顎をしゃくる。天目道人の背がすっと伸びた。
「村長ははりきっとったのう」
「そうですね」
「さぞや、来年以降の豊作を当てにしておるのじゃろうの」
「そのようですね」
「もし豊作がこなんだら大変じゃのう」
「その時は仕方ありますまい。農業は賭けでございます。天候その他が微笑めばよし、駄目でもだれに責を問いようもない。そういうものでございます」
「そりゃ普通はそうじゃろうのう。普通は」
娘娘の笑みが更に深まり、かと思うととたんに消えうせた。その体毛が逆立ってしゃらしゃらと音を立て、肉食獣のような瞳が道人をがっちりととらえた。
「しかし今回は事情が違うぞ、天目よ。なにしろこの地は金果玉壌を宿す地として金羅様に選ばれたのじゃからの」
天目道人が唾をごくりと飲み込んだ。
かつて大延国の主神たる金羅は隣国の
エリスタリアの主神である
世界樹に侵入し、その実を盗み取った。
実を喰らった金羅はその種を保管し、大延国の各地に播いて育てることを試みた。
いく度かの失敗の末、ついに方法が確立された。しかるべき土地を選びだし、神力によって制御紋を刻み込まれた種を埋め、刈り取る。大延国においては、金羅の食欲を満たすため世界樹の栽培が行われているのだ。
世界樹の種はほんの一かけらでも土の上に落ちればそのまま地に満ち、自ら森を成してその中心で至上の果実を育む。果実をもぎ取れば役目を終えた森はことごとくしおれはて、後には世界樹の神気によって改良された最高の土が残される。実を金果といい、土を玉壌といい、あわせて金果玉壌という。
果実が熟してもなお実をもぎ取らなければ、金果はそのまま玉壌の上に落ち、再び繁殖を開始してはまた実を結び、種を落とす。加速度的に行われるこうした土壌改良を放っておけば、繁茂した樹が大延国を多い尽くすのにも大した時間を要さないだろう。
神をも恐れぬ世界樹の栽培という所業には、当然大きな危険も伴っている。一つ対処を誤れば、恐るべき結果が待っているのである。
「眼を背けておるようじゃが、お前がはよう金果をとってこんと、玉壌をあてにしとるこの村を破産に追いやることはおろか、この村を含むあたり一面を滅亡においこむことにすらなりかねんのじゃよ。ちゃんと心得ておろうな?」
娘々が手を一振りすると、床が消えうせ、代わりに膝の丈まで伸びる森がそこに出現した。空から見下ろした世界樹の森がやおら振動したかと思うと、そこから太い幹が何本も飛び出した。辺りに恐ろしい勢いで広がっていく森がやがて何もかもを飲み込んでいく様が、道人の足元で展開していく。森が人々を西海まで追い落としたところで、娘々は手を振って幻を消し去った。
「こんな風になるんじゃよ。ちゃんと理解しておるんじゃろうな?」
「存じております」
「ならなんでさっさとやらんのかのう。あんまり力の出し惜しみが許されるような状況でもなくなってきとるんじゃがの」
「できませんと言っているではありませんか! 第一、実を取ってくるよう命じられたのは師叔でしょうが!」
「そうじゃよ?」
「じゃあご自分でやられたらいいではありませんか!」
「そんな理屈が通るならの、天目よ、わしだって金羅様にこの件を言いつけられたときに『聖母がご自分でなさったらいかがですかのう?』なんて言ってそれで済ましておられたはずなんじゃよ。そういうわけにもいかんから引き受けて、そのままお前に投げとるのじゃ」
「だが私はあなたの弟子じゃない! ご自分の弟子に頼むのが筋ではありませんか!」
「実を言うとな天目よ、阿灰の奴にはもう頼んでみたのじゃ」
「ほう、それで奴はなんと?」
「『ご自分で信頼にお応えになれば、聖母からのご評価もうなぎのぼりですよ、きっと』だそうな。それももっともじゃと思ってな」
「流石は阿灰だ。よく出来ている。一言一句同じことを私からも申し上げたいですな」
「いやー、我が弟子ながら中々しっかりした子じゃのうあれは。あんな気の利いた口の利き方なんて教えとらんのだがのう」
「自助努力の賜物でしょうな。なにしろそれ以外に手はなかったでしょうから」
「師叔が困っておるのに嫌味ばかりじゃのう。お前はなんという薄情者なんじゃろう。ごちゃごちゃいいわけしとらんでさっさと取りに行ってきたらどうなんじゃ」
「こっちの台詞だああああ!!!!!!」
「やかまし。あんまり大きな声だすでない。いい酒飲んでほわーっとしておったのが台無しじゃ。わしゃもう寝るから後は頼んだぞ。がんばるんじゃぞ。終わったら褒美としてこの酒分けてやるからの」
「がああああああ!!!!!」
天目道人は弟子二人を引き連れて村長の家を辞すると、村から出る道をどしどしと踏みしめながら再び森へと向かっていた。紅索子の力を使えば天に昇って再び降りてくることで長距離の移動が出来るのだが、今の道人は自らの足で歩くことを選んでいた。頭を冷やすためである。
――何故こんなことになってしまったのか。
夕暮れ時の近づいてきた空を眺めながら、道人はひとしきり歯軋りした。
道人の思い返すところ、師父に言いつけられて留守番をさせられた時点で命運はすでに尽きていた。道人の師父である釣岳狼人のもとには多くの客が訪れる。そんな客たちの応対を強いられたことで、道人の精神力は大いに削られていた。そんなところにおとずれたのがほかならぬ繊鏡娘々であった。娘々の兄弟子であるところの釣岳狼人がいないことを道人が告げると、娘々はしばし逡巡した末、「この際お前でもよい」と道人を連れ出した。わけもわからず国を横断させられ、辛州の地にたどり着いた娘々は開口一番こう言い放った。
「賭けをしよう。お前がもし負けたら。わしの代わりに金果を取って来い。勝てば師兄に命じられた留守番仕事を途中で抜け出したことについては、わしから言い訳しておいてやろう」
否応なくこの賭けに乗った道人は当然のように負け、かくして道人は難業に挑む羽目と相成った。
師叔の命令は絶対であり、言いつけられれば果たすしかない。師叔に出会いさえしていなければ命じられることもなかったはずだが、師父の留守番をしていたところに師叔がたずねてきたことを鑑みるとそれも難しい。師父が他の弟子に留守番を命じていれば逃げ切れたはずだが、生憎今のところ釣岳狼人の弟子は天目道人ただ一人である。
逃げ場などなかった。そう結論を出し、道人は肩を落としてため息をついた。懐からサイコロをつまみ出し、地に転がそうとして止める。よたよたと力なく歩みながら、道人は沈み行く太陽を打ち眺めて舌打ちした。日が落ちれば、森の中で活動することはより困難になる。漆黒の闇の中でそこらじゅうから森に襲い掛かられることを考えるだけでもぞっとしない。できるだけ急いで金果を取ってこなければならない。取ってこなければ、開放されない。
どんよりと曇った道人の視界に、ふと赤い糸が踊った。
『師父、元気出してください。私たちもがんばりますから』
空中に糸で文字を描き出しているのは、付き従っている弟子の紅索子である。もう一人の弟子である吐月壷を抱えながら、気遣わしげに道人を見上げる。道人とならぶと、まるで大人と子供のような体格差である。
道人は苦笑した。
「べつにがんばらずともよいぞ。お前らも師叔に義理立てせねばならん立場ではあるが、相手がむちゃくちゃを言うておる時は別だからな」
『しかし』
「それに、この問題はお前たちの力を超えておる。いいからわしに任せておけ。何とかしてくすねとってみせるわ」
「さすが師父です。さすが」
吐月壷がふたをぱかぱかと開閉させながら跳ねるように動いた。抱えている紅索子があわててしっかりと壷を抱きしめる。
「それにしても、いつもみたいに賭け事が通用したらよかったんですがね、賭け事。そしたらあっさり奪い取れたはずですぜ」
「そうだなあ。まあ森の樹相手にサイコロ握れというのも無体な話だからな。それに、必ず勝てるわけでもなし」
「またまた。師父は百戦百勝じゃねえですか。百戦百勝」
「必要なときは、な」
「今は必要なときじゃねえんですかい、今は?」
「勝たねばならんといえばそうだが、誰相手に勝てばいいものやらな。師叔か」
「ここに来たときに大師叔との賭けに勝っとけばよかったんじゃないですかね、ここに来たとき」
「そんなことはわかっとるわ。だがな吐月壷よ、誓って言うが、あの最後の一番では天目が出る予定だったのだぞ」
「出やせんでしたけどね」
「あのな吐月壷、あんまり出過ぎたこと言うと醤油入れにするからな」
「ひぃ、それだけはなにとぞご勘弁を、ご勘弁を」
『私もあの時は師父が勝たれるだろうと思っておりました』
紅索子の糸が踊った。
『ここ一番の師父の勝負強さはよく存じております。しかるべきときに六ゾロの天目が出る。それこそが師父のお名前の由来』
「まあな」
『ですから、私は思うのです。師父は、あの場では負けるべくして負けたのではないでしょうか』
「どういう意味だ」
『いえ、自分でもよく分かりませんが、師父はこの後にもっと大きな勝負を控えていらっしゃるのではないでしょうか。そこで勝って、これまでこんできた負けを全て取り戻す。そのためにあの時は負けに甘んじたというか』
「そりゃ、あの森との命のやり取りなんて大勝負は控えておるだろうがのう」
『そこで師父が勝たれると信じております』
「そうは言うがなあ」
天目道人は苦笑すると、懐からサイコロをつまみ出してもてあそんだ。投げ捨てるようにしてサイコロを転がすと、道人は目もくれずに空を見上げてため息をついた。
「そりゃ金果をもぎとってこれればこれまでの負けを吹き飛ばして余りある大勝利には違いなかろうが、いくらなんでも勝ち目が薄いのはちょっと見え透いておりゃせんか。まあ努力はするが、今回ばかりは運を味方につけてもどうにかできるとは到底思えぬ。もうこの際だから逃げることのほうを考えてだな」
『師父』
「なんだ」
「師父、天目ですぜ、天目」
立ち止まった道人の目が、地に転がるサイコロを捉えた。出目は六ゾロ、めったに出ない天目である。
「――どういうことだ」
道人は呆然となって言葉を漏らした。
そしてそれに応えるように、どう、と大地が鳴動した。音の発生源は、まさしく森の方角である。
泡を食った天目道人は紅索子に命じて綱を作らせ、上空へと昇った。世界樹の森は村から山を一つ越えたところに繁茂している。その方角を眺めやって、道人は息を飲んだ。
眼下に広がる大森林が、緩やかに縮みつつあった。
揺れる葉の色が緑から黒へと代わり、かと思えば灰となって崩れ落ちる。裸になった樹の幹がぶるぶると震えたかと思うと真っ二つに裂け、地に倒れてそのまま灰と化す。もうもうとあがる土煙をつらぬいて緑色の巨大百足が伸び上がって現れたが、やがてその身は力なくほどけて消え去った。緑の潮が引いていくように森がだんだんと消滅していくのを、道人は信じられない気持ちで見守った。
『師父、これって』
「誰かが金果を取ったってことじゃないですかい、だれかが」
慌てふためく弟子二人を制し、道人は目を凝らした。そしてそれを見出した。
二つの影が、かつて森の中心だった場所で飛び跳ねている。片や巨漢、片や子供ほどしかない背丈の何者かは、お互いの周りを回りながらなにやら歓声を上げている。ときおり巨漢のほうが天に突き出す手の中に、道人は確かに金色の果実を見て取った。
『師父』
「紅索子、我らをあの丘に下ろせ。それから糸を伸ばせ。あの二人の会話を聞き取るのだ。吐月壷、わしが必要と言ったものはなんでもすぐ出せるように準備しておけよ。多少は情況が好転したといえなくもないぞ」
地上の二人組を油断なく観察しながら、道人は牙をむき出して笑った。
二人組みを見下ろせる丘に降り立つと、道人は地に伏せて油断なく二人組を観察した。巨漢は馬頭であり、小さいほうは鹿のような角を生やし、いずれもボロ布を帯のように腹回りに巻きつけているだけの貧しい身なりである。お互いの周りをくるくると回りながら、二人は楽しげに言葉を交わしていた。
「よかったなあ、実が取れたぞ、鹿弟よ」
「実が取れてよかったですねえ、馬兄」
「いやーでも本当に死ぬかと思ったな、鹿弟よ」
「死ぬかと思いましたねぇ、馬兄」
「あの百足は本当に厄介だったなあ。危うく腕が持ってかれるところだったもんなあ」
「まあでもいいじゃないですか、馬兄。結局上手くいったんだから」
「そうだなあ。腕が持ってかれそうだったけど結局上手くいったもんなあ」
「よかったですねぇ馬兄貴、ちゃんと上手くいって」
「そうだなあ。でもひやひやしたなあ。うまくいったけど腕が持ってかれそうだったもんなあ」
「どれだけひやひやしたんですか、馬兄。同じ話何回もして」
「何回もしたっけなあ、この話。まだ三回目ぐらいじゃないかなあ」
「五回目ですよ、馬兄」
「俺は数も数えられないんだなあ、鹿弟よ。迷惑かけてごめんな」
「いいんですよ、馬兄。俺が代わりに数えたげますから」
「嬉しいなあ。お前が弟でよかったよ、鹿弟」
「俺も馬兄が兄貴でよかったですよ」
「嬉しいなあ、お前が弟でよかったよ、鹿弟」
「同じこと何度も言わなくていいですよ、馬兄」
「そうかなあ。同じこと何度も言ってるっけなあ、俺」
「限度ってもんもありますよ、馬兄」
「そうかあ、限度あるのかあ。ごめんな鹿弟、迷惑かけて」
「いいんですよ、馬兄」
「嬉しいなあ。お前が弟でよかったよ、鹿弟」
「五度目ですよ、馬兄」
「なんだ、ありゃ……」
紅索子の糸から会話を聞き取っていた道人はこめかみを揉み解した。紅索子の糸はどこまでも伸び、振動を感じ取ることで音を聞き取ることが出来る。糸の姿を宙に隠すことで盗み聞きも可能である。
「なんだか連中の話聞いてるとめまいがしてきやすね、めまいが」
「わしは師父が時の玄王から宝玉を騙し取ろうとしたときの話を思い出したわい」
「例の呆けてた玄王さまの話ですかい?、呆けてた」
「そうじゃ。何を言ってもとんちんかんな言葉を返すばかりで全く会話が成立せなんだそうでな。やっと宝玉を見せてもらう話が付いたかとおもえば、宝玉の代わりに砂の入った器を持ってこられたそうな。しかも何のために持ってきたのかまで忘れ果てて、その場で食べはじめて曰く『こりゃ不味い! まるで砂をかんどるようじゃ! お前さん、わしにこんなもの食わせるなんてどういうおつもりじゃ!?』だとか。さすがの師爺も諦めてしまわれたそうな」
『その話は私も聞きました。
ミズハミシマの豪商を騙して樽一杯の海水を買わせた時のお話と一緒に』
「師父は常々、『愚者を騙すは下策の極み』とおっしゃっていた」
「奴らもそんな感じですかね、やつらも」
「そう見える。これはちとマズイかもしれんな」
『あの、師父』
「なんだ」
『どうしても騙し取らないといけないんですか?』
紅索子が首をかしげた。
『必要だから分けてくださいというのではダメなのでしょうか』
「別に騙す必要もなければそれでいいさ。だが話を聞いておれば、奴らとて金果を取るのにそれなりに苦労したようではないか。そこに我々がしゃしゃり出ていってその実をよこせなんて言ったところで、素直に渡してもらえると思うか?」
『きちんと頼めば……』
「無理だな。少なくともわしなら断じて聞き入れはせん」
「でも師父、ここは金羅様の森だったんですぜ。金羅様のものなんだから返すようにいえばいいんじゃないですかい」
吐月壷がしきりと飛び跳ねる。だが道人は首を振った。
「いや、ダメだ。奴らの身なりを見ろ。あんなボロ布を服代わりにしとる。森の怪物どもをあしらって金果を取ることが出来るようなすさまじい力の持ち主がだぞ。見るからに尋常の手合いではない。なにかの理由で人に化身した大精霊か、天然道士か、もしくは仙人だ。だが精霊なら食えもせぬ金果になど用はないはずだし、天然道士がたとえ義理にせよ兄弟でつれだっとるなんて話は聞いたこともない。残るは仙人だが、わしゃあんな阿呆な角生やした奴なぞ知らん。となると結論はどうなる?」
『ええと……仙人なのに師父がご存じないということは』
「悪仙ですかね、悪仙。うへぇ」
吐月壷の言葉に、紅索子が眉をしかめた。
「ほぼまちがいなかろうな。それもかなり強力な」
仙人の生まれる源ははっきりとは知られていない。金羅が自ら生み出した亜神であるところの金侍三仙を別にすれば、多くは自然に出現するといってよい。金羅と人が交わって生まれるいわゆる金炎児が仙力を得る場合や、仙人同士が子をなした結果として生まれる例、修行やそのほかの要因によって仙力を後天的に獲得するといった可能性もなくはないが、むしろある日突然仙人として目覚めることのほうがはるかに多い。多くは自らのうちに目覚めた力に戸惑っているうちに手近な仙人によって発見され、師の下で超常の力を上手く制御することを学んでいく。これがために、仙人は師弟関係を重視するのである。また、師に見出されることのないまま幸運にも安定してしまった場合には天然道士と呼ばれるものになり、この場合には神力は肉体や精神的能力の卓越という形で発揮される。
悪仙とは、このいずれにも当てはまらない仙人の成れの果てである。
師について神力の制御を学ぶこともなく、自然な安定をも得ることが出来なかった結果として、悪仙は体を駆け巡る神力に心身をゆがめられ、超常の力に振り回されて人の道を外れてしまうことになる。その有様は精神の崩壊や肉体の変化によって怪物と化してしまうものもいれば、強大な力を抑えきれず自滅するもの、表向きは何事もないまま倫理や社会性を失って犯罪行為に走るに留まるものなどさまざまであり、いずれにせよ人の世に害をなしていることが多い。
前述の通りはっきりとした師弟関係を持たぬ悪仙であるが、彼らもまた小さな社会を構成している。大方は力によって支配される小さな群れの集合といった程度の規模であるが、おのおのが有する力の強大さゆえに侮りがたく、またその中心には一体の強力な悪仙が存在し、無秩序に見える悪仙たちを自在に操っているともいう。
多くの場合、金羅の下に集う仙人たちと悪仙は敵対関係にある。悪仙を調伏し矯正する組織である金衛五科は言うまでもなく、多くの仙人は自らの弟子に悪仙と戦うことを教えている。鬼道に堕ちた同類たちを憐れみ、正道に引き戻さんとしてのことである。
「そういうわけだから、いくら金羅様の名を出そうが連中は従うまい。力で言うことを聞かせるためには相手より強くなくてはいかん。そんなのだが無理にきまっとるだろ。要するに何か手立てを考えねばならんのさ。それもやつらが帰ってしまわぬうちにだ」
『師父、それなら私が糸で釣り上げるというのは』
「あまり気が進まんな。少なくとも真正面からは無理だろう。誰かが気を引かねばならぬ。まあ、これからやる詐欺にしくじったときは頼むぞ」
『はい』
「じゃあそろそろ行くか。吐月壷、適当な錦衣を出せ。たっぷりした袖に箪笥でも隠せるような代物をだ。それから茶碗とみかんも用意しておけよ。通じるかは分からんが、子供だましの一つぐらいは試しておこう」
「もう日が沈むかなあ。鹿弟よ。そろそろ帰ろうか」
「帰りますかねえ、馬兄」
うなずきを交わしてその場を立ち去ろうとした二人組の足元に、突然滑り込んできたものがある。
「偉大なる大英雄の御二人に心からのご挨拶を申し上げます!」
まさしく砲弾のような勢いで飛来した熊人は頭から着地すると、そのまま這いつくばって叩頭しはじめた。驚いて言葉をなくしている二人組とは対照的に、熊人はたっぷりとした錦の衣をまとい、宝玉を身につけていかにも貴人といった風情である。
もうもうと上がる土煙の中で、熊人――天目道人は大音声で口上を述べ立てた。
「私めは辛州刺使の使いのものにございます! かねてからこの地にはびこっておりました魔の森に手を焼いておりましたが、先ほど森が消えうせていくのを目にした次第でございます! あわててこちらに参りましたところ、あなた様方のご勇姿を目にいたしました! きっとあなた様がたがこの森を打ち滅ぼしてくだすったのですね! 辛州の住民全てに成り代わって御礼を申し上げます! 勇者様万歳! 万歳! 万々歳!」
「すごいぞ鹿弟、なんか来た」
「なんか来ましたねぇ、馬兄」
顔を見合わせる二人組の足元で、道人は土に顔をめり込ませながらにじり寄った。
「大英雄様方、ご尊名は!」
「『ごそんめい』って何かなあ、鹿弟」
「きっと名前のことですよ、馬兄」
「そうかあ。ええとね、俺は馬だよ。馬って名前なんだ」
「そんで俺が鹿だよ」
二人はこともなげに言って胸を張る。なお、ここで言う馬や鹿とは文字通り禽獣の馬や鹿をさす言葉であって、大延国においても個人の名前としては全く考えられない代物である。
「す、すばらしいご尊名です! これ以上お二人にふさわしいお名前はありますまい」
「そうだろ。俺馬が好きなんだ。だから自分も馬って名前にしたんだ」
「俺も鹿が好きだから鹿って名前だよ」
『すごい名前の付け方もあったもんですね、師父』
「だまっとれ、吐月壷」
「へ? 俺の名前は吐月壷じゃなくて馬だよ。言わなかったっけ」
「言いましたよ、馬兄」
「確かに伺いました! 申し訳ありません、ちょっと耳に土が入ったようでして」
あわてて取り繕いながら、道人は内心舌を巻いた。吐月壷の言葉は紅索子の糸によって中継されたものであり、道人の返事もまた、喉に張り付いた糸によって受け取られている。馬はそのわずかに喉を震わせただけの言葉すら聞き取ったのだ。恐るべき感覚の鋭さである。
――これはてこずるかもしれん。
動揺を押し隠し、道人は努めてへつらい顔を作った。
「それでは馬と鹿のお二方に改めて、この地にはびこる邪森を打ち滅ぼしてくださった御礼を申し上げます」
「お礼かあ。俺いい事したのかなあ」
「特にそういうつもりも無かったんですがねえ」
「なんと。ではなぜあのような森にわざわざ挑まれたのですか?」
「これだよ。これを取りにきたんだ」
馬が自慢げに金果を突き出した。みかんに似た金果のたたえるみずみずしさはまさしく輝かんばかりである。これまで道人が数多つかまされてきた偽者とは一線を画し、紛れもない神の果実であることが一目で見て取れる。これを盗み取らんがために、道人は苦労を強いられてきたのである。
道人はひそかに紅索子に合図すると、あたかも金果を見たことがない風を装った。
「ほう、これは見事な。一体これはなんですか?」
「知らない。なんかおいしそうだよね」
「森の中に生ってたんだ」
「ははあ、それにしても大層美しい実でございますな。どうでしょう、どうか間近で見せてはもらえませんか」
「いいよ、減るもんじゃなし」
「馬兄、見せたら減るんじゃないですかねえ」
「そんなことはございますまい。どうか、ほんの少しでも結構ですから」
「いいよ。はい」
無音の突風が道人の鼻先を掠めた。
飛びずさることをとっさの判断でどうにかこらえ、道人は金果を引き戻す馬を見返した。目にも留まらぬ速さで掌の上に乗せた金果を差し出し、直後に引き戻したのだ。道人の動体視力は仙人の水準と比較しても高い。転がるサイコロの目を探り、あるいは相手のイカサマを見破らんがために鍛え上げた結果である。だがその道人をして、馬の動きはわずかにも捉えさせることがなかったのである。道人は再び紅索子に合図を送った。「釣るのは待て」という合図である。
「もうちょっと見せてあげてもよかったんじゃないですかねえ、馬兄」
「え、でもちょっとでいいって言ってたし」
「それはそうですかねえ。おいお前、満足したか」
「あ、あの、できればもう少しその」
「じゃあもっとちゃんと見せてあげようかなあ。はい」
再び拳風が巻き起こる。今度はご丁寧にも右目と左目の前に金果をかざしたようであるが、道人にも確信は持てなかった。砕けそうになる腰を何とか叱咤しながら、道人は言葉を搾り出した。
「ありがとうございます。この上なくよく見せていただきまして、心からの感謝を申し上げます」
「いいよ、大したことじゃないから。それにしても、そんなに何度も見たいようなものかなあ、これ」
「普通のみかんですよねえ、馬兄」
「だよなあ」
道人はひそかに眉をしかめた。この二人は金果の価値を知らない。にもかかわらず危険を冒して金果を得たのは一体なぜか。どうにも気にかかるが、とは言え、騙し取るのには好都合である。道人は飛び切りの笑顔を作った。
「申し訳ありません。実は、大変な偉業を成し遂げられたお二人をねぎらい申し上げたく、そのためにその実をよく検分したかった次第でして」
「この実がなんか関係あるの」
「ございます。お二人に天上の美酒を味わっていただくために必要なのです」
道人は懐から壷を取り出した。この壷は言うまでもなく吐月壷である。あっけに取られている二人に散々壷を見せつけた末、道人はもったいぶって吐月壷をなでさすった。
「この壷をご覧ください。これは魔法の壷でございまして、中に入れた果実を瞬く間に酒に変えることが出来るのでございます。ほら、ご覧の通り」
道人は袖口からみかんと茶碗を取り出し、吐月壷の中に納めると再び取り出して見せた。つんと香る酒精をたたえた茶碗を道人が馬に差し出すと、馬は驚く様子も見せず受け取って一口に干す。顔色一つ変えずに飲み干した馬は感想を述べるでもなく、吐月壷のほうに胡乱げな視線を向けるばかりである。
「あのさ、それより俺、気になることがあるんだけど」
「なんでしょう」
「なんでその壷息してるの? 生き物なの?」
吐月壷が道人の手の中でわずかに震えた。吐月壷は壷の姿をとってはいるが結局は仙人であり、ひそかに息もすれば鼓動もある。ただそれに気付くことのできるものがごくまれだというだけのことである。道人は冷や汗を流した。
「あ、あの、これはその、魔法の壷でございますから」
「ああ、なるほどなあ。魔法の壷かあ。それならしょうがないなあ」
馬のしかめられていた眉がぱっと開いた。
「おいしかったよ。あ、ゴメンね鹿弟。お前のぶん飲んじゃった」
「いいですよ別に。どうせ俺は酒飲めませんから」
「そうだっけなあ」
「それは残念でございます。それでは馬様だけでも味わっていただければと思います」
「へ? もう飲んだよ俺」
「今のはほんの前座でございます。本命はそれ、馬さまがお取りになったその果実でございます。ご覧くださいそのみずみずしさ。ここから眺めておりますだけでも、口の中に唾があふれるようです。この魔法の壷にその果実を投げ込みましたならば、取り出される酒はまさしく神の酒となることは疑いようもございません。まさしく、魔の森を制した大英雄様の喉を潤すにふさわしい飲み物でございます」
「そうかなあ」
「その通りでございます」
掌中の金果を眺めやる馬にすりつかんばかりにして、道人は壷を掲げてみせた。
「ささ、どうぞ果実をこの中へ。天上の美酒でございます! 神の滴でございます! 大英雄の馬さまだけが口にすることのできる至上の甘露でございます! さあ!」
吐月壷を馬に押しやり、道人はいったん下がった。朗らかに拍子をとってみせるその胸のうちでは、心臓が破れんばかりに打っている。いぶかしげに眉をひそめ、壷を覗き込んで首を捻る馬が、茶碗に金果を乗せると吐月壷の口にそろそろとかざし、ついに手を離した。
会心の笑みを浮かべ、道人は再び紅索子に合図を送った。空中に隠された赤い糸が道人と吐月壷にまきつき、天に伸びた糸がぴんと張り――
――不意に横合いから伸びてきた鹿の手が、茶碗ごと金果をすくい取った。
但し書き
文中における誤りは全て筆者に責任があります。
独自設定については
こちらからご覧ください。
- 繊鏡娘々のマイペースっぷりに萌えた。再登場希望 -- (名無しさん) 2012-12-12 16:11:43
- 二編に分けてもこのボリューム…かなり仙人像が掘り下げられてきたと思える -- (とっしー) 2012-12-16 18:45:45
- 自然や風景の描写が綺麗だな~。序盤中盤とでがっちりキャラを見せていくのも楽しいな。個人的には語句やキャラ名に読み仮名とか欲しいかも -- (とっしー) 2013-02-17 04:57:02
- 森の過剰なまでの警備とそれを突破せんとする熊人との壮絶な削り合いに息を呑む。かつて奪った神の果実の素晴らしさと危うさの表現が端々に活きていて存在としての格の違いを実感します。ブラック企業を彷彿させる仙人弟子の様子から力と性格のアンバランスさの妙ある馬と鹿との緊張感とゆるさの混ざるやりとりなどコミカルな面が面白いですね -- (名無しさん) 2015-06-21 18:46:52
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最終更新:2012年12月07日 22:53