一人崖上へ向かったコルトパを追う。
辛うじて残る雪面の跡は何の迷いも感じさせない真直。
もう背負う荷物も最小で脚も全力。 だが追いつく気配が無い。
戦士の一族と名高い
エルフと言えども、あの巨躯と膂力を持つ大狼が複数。
無事で済む筈が無い。
走り去る前のコルトパの表情を思い起こす。
警戒心はあっても己の身は省みない。 仲間もいない、たった一人。
もし一族としての誇りだけが生きる意義になっているのなら ──
吹雪は更に強くなる。目を打つ雪で視界は更に狭まって行く。
兎に角前へ走るしかないと、雪と風を掻き分ける目の前に突如現れる、
お、狼っ?!
横たわる巨体は、もう半分が雪で覆われている。
脱力した身体と有り得ない方向へ折れる首。血と泡を吹く。
4m近い獣をたった一人で…
いや、そうじゃない。獣は複数いたはずだ。
まず囲まれる。そんな状況で一頭でも倒せるのだろうか?
── 倒しているのだ。
先より崩れ落ちてくる巨体二頭目。顎の付け根から激しく鮮血を撒き散らす。
すぐ脇を掠める獣臭。落体の風圧で周囲が露わになる。
かか れっ
残り三頭の内の二頭が同時に飛び掛かる。
挟まれるコルトパのフードコートは所々、紫がかった赤色で染まっており数箇所が引き裂かれている。
手傷を負っている…当たり前か!くそっ!
せめて間に割り行って隙でも足止めでもと脚を上げるが、雪面が絡みつく。
十数メートル前で、開いた大口二つが叩きつけられる。
しかし戦士は捉えられない。
強烈な回転で空に舞った勢いで、鼻先をぶつけ合った狼片方の眼を血染めのコートの裾で打つ。
目くらまし?と思ったが、すぐにばたつき出した狼の様子は只事じゃない。
瞼を閉じたまま頭部を激しく振り乱す。 肩に飛び付いたコルトパを全く意識もせずに。
躊躇無く両手でナイフを握り、渾身の一突き。
「何をっ!?」
思わず叫んだ。予想外の行動。
突き開いた傷に掌を当てたその上から、ナイフが再度傷を突いた。
当然、コルトパの手は血が溢れ、苦悶の表情で狼から飛び退く。
駆ければ直に届く数メートル前に着地したコルトパの息は荒く、
よく見れば両の掌共に刺し傷が開いている。
「コルトパさんっ!」
前の二頭とその奥で控える一頭を視界に収めながら名を叫び走る。
遠目からでも分かる。流し過ぎだ、血をっ!
コルトパはこちらの焦燥と不安を他所にして、大きく吹雪く空を仰ぎ息を吸う。
「コルトパさんっ、もう一頭が狙っている! 離れてっ!」
聞こえていないだろう、恐らくは。 しかし叫ぶ他無かった。
雪の中から頭を抜き出した片方が、肉の隆起激しい形相でコルトパの方を向いた。
再度の飛び掛かりのために前身を屈め、力を溜め込んだそこに、
もう片方、突きを受け激しく痙攣するまま衝突する。
その間、膝から倒れ込んだコルトパへと辿り着く。
「しっかり!しっかりして下さい!」
傾く体を支えた手にへばり付く血、血、血。
一刻も早く止血と処置をしなければ危険であるのは明白。
しかし、コルトパの腕は支えるこちらの腕を力強く握る。
「よ、け…ロ」
今まで何度も直面してきた危機的状況を逃れてきた経験と勘。
コルトパのか細い声を聞いてすぐ、その身を抱き上げ前方へ跳ぶ。
奥に控えていた最後の一頭の前脚が、一瞬前までいた位置を抉り取る。
他よりも一際大きい狼は、もはや獣と呼べるモノではなく怪獣だった。
しかしそんな事よりも何よりも、この場より逃げる事が先決。
相手もまともに動けるのは一頭だが、今のコルトパに先程の様な無茶をさせる訳にもいかない。
駆け出す背後より風切る轟音と腕(かいな)。 稼いだ距離も相手は一跨ぎもせずに追いついてくる。
獣の本能からか、直前までの位置を的確に攻撃してくるならば、横薙ぎならばしゃがんで何とかかわせる!
最も厄介なのは前に回り込まれての ──
両脚による回避範囲を封じられた叩きつけ…
あっという間。おおかみはたつたのいちどのちょうやくでこちらのまえをふさいだ。
詰んだ…甘い…、何だ?さっきから目がくらむ…状況は最悪を呈しているのに
…この香り、鼻触り…神経性ガス…かっ!?
露西部で武装テロ組織を追い詰めた際に奥の手で使ってきたのを思い出す。
無味無臭で良かろうなのに何故か香りを付けるのは威嚇か何かか。
作用を感覚で理解するという事は既にイエローゾーンには踏み込んでいる。
「走れッ!」
窮地と相対する中、抱えられていたコルトパが半身を起こす。
最小限の溜めから振り抜かれた腕は、滴る血を直前の狼の鼻先へと飛ばす。
甲高い鳴き声すぐに猛烈な勢いで鼻頭を掻き毟りだす。
確証は無いが、薄っすらと理解してきた。 コルトパの血は ──
「走ります!しっかり捕まって!」
側面、一気に抜けるッ!
苦し紛れに繰り出された後ろ脚の爪が腕を掠め千切るがどうという事は無い。問題無い!
何とか隊長達と合流すれば一頭二頭であれば何とか ──
希望、浮かべるには早かった。
嗅覚聴覚視覚を乱されている中でこちらの位置を捉えたのは獣性の成せる技か。
背後で地鳴り散る雪面。 飛んだというにはおこがましい目茶苦茶な体勢は自律神経が狂わされているのだろう。
それでも走るこちらへ直撃させるのは見事としか言い様が無い。
「っがはっ!!」
獣毛のワンクッションが無ければ皮が弾けていただろう重厚な衝撃。
最早方角方向など分からぬまま斜面を転がる。
転がる、斜面…斜面!?
「…絶対に放しませんから、しがみ付いていて下さい…」
数回のバウンドの後に、背から雪面の感触が消える。
誰だって一人になるのは、嫌なんだ。