「そら、始まるぞ」
腕を組み脚を組んで光景を眺めていた女が涼やかに呟いた直後、“それ”はやってきた。
太陽は中天、ちょうど正午。海の中は若干の"微海流"がそよぎ、波間から差し込む光がぼんやりと遥か下の海底まで照らしている。
海中の民たちの家畜である巨大なカジキが引っ張る移動屋台。
わたしの隣の席、ところどころ傷に塗れた古びたスツールに腰掛けていた女が顎でしゃくった方面、遠離に何やらじわりと黒い染みができる。
少しずつその染みが大きくなってきている、と感じたのもつかの間。どう、と勢いを増して黒い染み、いや群れは大いなるざわめきと共に到来した。
染みに思えたのは無数の小魚たちの群れだ。黒い嵐を思わせるような、海面から漂ってくる光さえ遮る、夥しい数の小魚の大群だ。
地球におけるバッタの大量発生のことを蝗害と呼ぶ。空を埋め尽くすようなバッタの群れが農作物を荒らす害のことだ。あの映像を思い出す光景だった。
だが、かの災害と違い今この海中に不満そうな顔をする者はひとりとしていない。小魚がざわめきを轟かせて通過する音に交じるのは人々の歓声だ。
現地の人々、魚追いの
ミズハミシマの遊牧民たち、その他諸々の種族が一緒になって楽しげに嬉しげに口々に、サーカスでもやってきたかのように、わめきたてている。
“それ”の到来を待ち望み、今か今かと待ち構えていた人々の喝采が海中に満ちた。
お祭りだ。お祭りだ。今年もやってきてくれた。お祭りだ。お祭りの始まりだ。
「なんですか、これ!?」
「“やつ”が海の底の底から巻き上げた栄養を追ってるのさ。
あれらも実りのひとつだ。そしてあれらが来たということは、じきに来る。
年に2度の祭りの、その主役がな」
瓢箪に似た水筒から酒精を口に含みながら女が語る。水精霊の加護により水中でも問題なく中身を飲むことが出来る謎の一品だ。
表情は相変わらずのポーカーフェイスだったが、その声音にはどことなく楽しげな雰囲気もある。
ゆったりとした長ズボンの裾から竜人用のサンダルがぶらぶらと揺れている。
沸き立った喧騒に目を白黒とさせつつ、そのつま先が目に留まりきれいな爪の形をしているのだなぁと薄ぼんやりと思った頃。
突然到来した膨大な魚群は、来たときと同じように唐突に消え失せた。振り返ってみれば慌てふためいて逃げ回るように一目散に魚の群れは直線を描いて去っていく。
「何を余所見しているんだ」
と、
「役者の登場だ。“やつ”がお出ましだ。
今年もはるばる深淵からやってきたらしい。その一部始終を見届けないではここに来た意味が無いだろう」
屋台のカウンターに肘をつき、至極リラックスした態勢で女が遠くへ瞳の焦点を合わせている。それに習った時、思わずわたしはぎょっとした。
再び見た。二度見した。目を擦るのを禁じ得なかった。
今の今まで、あの小魚たちの嵐に隠れていた光景が海中の向こうへ浮かび上がる。
ゆらゆらと空から照りつける陽の光を受けながらゆっくりと近づいてくる“それ”は、端的に言えば、城だった。
城塞がこちらに向かって前進してくる。低速に見えるのは彼我の距離がまだ離れすぎているからであって、近くまでくれば驚くほど速いのだろう。
太陽の光を受ける“それ”が鈍い硬質な光を反射している。正面から見る分には鉄の塊が浮いているようにしか思えない。
しかし、“それ”は間違いなく意思を持ち、冗談のような超質量でもってわたしの眼前へとやってこようとしているのだ。
迫りくる圧迫感もあまりに桁が違いすぎて度を超えているのか恐怖すら感じない。浮世離れしたその姿に生物ではなく大きな重機が車輪を動かして前進している錯覚すらある。
そう。生物。生物、なのだ。あれは。
実際にこの目で見れば、そうとはとてもではないが思えないが。
「“やつ”を始めて見た地球人たちは皆そういう顔をする。
いや、地球人だけでもないか。同じミズハミシマ国内でもわざわざこれを目当てに物見遊山へやってくる者もいるくらいだからな」
水筒を傾けながら女は言った。
この時ばかりは周りにたくさん浮いている遊牧民たちの移動屋台も忙しいその手を止め、一様に肩を叩き合って笑っている。
今にも大合唱でも歌いだしそうな熱気だ。既にミズハミシマの庶民的な振り付けで踊りだし、“それ”を迎え入れようとする一団もいる。
どこからか祭り囃子も聞こえてきた。海水を伝ってきっとあの生きたお城にも届いていることだろう。
皆が皆、遠くから泳いでくるその大きくて大きくて、なお念を押すほどに大きい、積層の鎧を纏った深海からの上等客を拍手で迎え入れようとかぶりつきだ。
お祭りだ。お祭りだ。今年もやってきてくれた。お祭りだ。さあ、お祭りの始まりだ。
女が水筒の紐に指を引っ掛けてくるくると弄ぶ。ふん、と鳴らした鼻息は、もしかしたら笑いの感情表現だったのかもしれない。
「これがミズハミシマ、海守テドロニロド公領名物。
――――1年に2回。海の底の真っ暗闇からやってくる、『鎧鯨』の到来。たった2日間の大騒ぎの始まりさ」
わたしにミレイと名乗った女は呟くように言う。どこか感慨深げに。
莫大なる質量に轢かれぬよう人々がはしゃぎながらもこぞって鯨の進路から逃れようと動き出した。
わたしたちが座っている移動屋台も店を引っ張るカジキに店主が拍車をかけて移動を開始し、その意外なスピードにつんのめったわたしはミレイによって抱きかかえられることとなるのであった。
わたしより頭ひとつは小さな身体なのに、支える腕は想像の何倍も力強かった。
ミレイは小さな女だ。
竜人なるミズハミシマでも希少な種族らしい。国中のどこにもいるにはいるが、会うには少し手間をかける必要がある、といった程度か。
頭に生えた2本の角など差異こそあるが、この国では魚人や鱗人に比べればあくまで外見に関しては比較的我々人間に近しい。
褐色の肌に映える白銀の髪を編み込んで後頭部に纏め、飾り気のない紅い櫛で留めている。編み込みを解いて降ろせば肩や腰まで真っ直ぐ伸びるのだろう。
碧眼というよりは藍と呼ぶべき深い色の眼差しが神秘的な女性だ。線が細く小柄であり、居住まいから漂う浮世離れした空気も相まって彼女に作り物めいた美を与えている。
ああ、そう。作り物めいている、というのは我ながら的を得た表現かもしれない。
全体的に朱色の構成である上半身の服は丈の短いタンクトップに似る。多くの収納箇所を有するあたりタクティカルベストとも言える。
下は袴のような裾の広い黒のズボンといった着こなしの彼女は主に腕や首筋、腹部が露出している。前を歩く彼女を追うとそれが視界に入る。
質の良い糖蜜にも似ている肌は壊れ物のようで、握れば割れてしまいそうだ。それはもう、同じ女性であるわたしがどきりとするほど。時にひどく、扇情的。
しかし、たびたび慣れない水中で身体を彼女に支えられるたびその脆さは見せかけだけだと思い知る。
彼女の身体に触れれば分かることだが、女性らしい柔らかさを保った部分があまり無い。全く無いとは言わない。出るところはそれなりに出てはいる身体だ。そこだけ吹き溜まりのように脂肪が乗っている。
だが鍛えられる部分は筋肉という針金を捻って出来ている。その上にセロハンでも貼り付けたように薄っすらと脂肪が覆っており、角張った様子を隠している。絶妙なバランスで見た目だけの脆さを演出していた。
それが海中暮らしによって培われるものなのか、彼女の職業に要求されたものなのか、はっきりした推測には至らない。
海中に、海上に、海底に。あっという間に出来上がった屋台の群れを繋ぐ通路をゆくミレイの足取りはその身体能力によるものかひどく姿勢がいい。小揺るぎもしない。
「私の職?よしなよ、今は概ね非番なんだ。なるべく忘れさせてくれ。
今は気晴らしの副業といったところだ。火急なら“海風”も吹いてくるだろうしな」
「“海風”?」
「こちらの話だよ。さて、これが鎧鯨到来の名物。
鎧鯨が『腰を落ち着けてから』一刻もあれば完成してしまう、祭り好き共の馬鹿騒ぎ。
海の上、海の中、海の底と1度に3粒も楽しめる即席屋台街、たった2日間だけ成立する商業都市。通称、『鯨都』だ。
共通する合言葉は『稼 ぎ ま く ろ う ぜ !』だとさ」
頭の悪い話だろ、と振り返ったミレイが肩をすくめる。
ミレイはこのたびのわたしのミズハミシマ訪問に合わせて現地で雇ったナビゲーターだ。
ゲートを通ってきたわたしが役人に依頼したガイドとして派遣されてきた竜人。それが彼女である。相当費用がかさむかと思いきや不思議と高くつかなかくて首をひねったことはまだ記憶に新しい。
ひとまずここまでの彼女の仕事に不満は無い。的確なアドバイス、迷いのない足取り、必要十分のコミュニケーション力。
更には水精霊と彼女は折り合いがいいようで海の中にいてもまるで支障を感じさせない。大当たりと言っていいだろう。
海上の屋台のひとつ、氷精によって敷き詰められた氷の中に酒瓶を無造作に放り込んだ、破れかぶれな酒屋の前に今わたしたちはいる。
溜め池の流氷に混じって浮かんでいるのはミズハミシマ産の酒と並び見慣れたラベルのアルミ缶たちもある。その中の一本、缶ビールを手に取り小銭を店主に放ったミレイは早速プルタブを開けて痛飲した。
ガイドがナビゲート中に飲酒。この適当さは我が祖国にはない。妙なところで外国情緒を感じてしまう。
「………ぷは。うん、あなたのところの酒は私も好きだよ、この喉越しはこの国には無いね。美味い。
で、なんだったか。ああそうだ、話を戻すか。
そもそも鎧鯨てのは……なんなんだろうな。私たちにもまともなことは分かっちゃ無いんだ」
「分かってないんですか」
「分かることは大昔から変わらない生き方をしているやつってことだけさ。
毎年春と秋に2回ずつ。やつは海の墓場、ミズハミシマの海溝からやってくる。魚人や人魚でもごく限られた者しか潜れない、暗闇の世界からな。
決まってこのあたりに鎧鯨はやってきて“息継ぎ”をする。次に海面に来る半年後までに使う空気をたらふく溜め込むんだ。まるまる2日かけてな」
つい先程から飲みっぱなしであるせいか、どこかミレイの瞳に陶酔したような霞がかかっている気がする。視線は海からその身体の僅かな一部分を覗かせる鎧鯨に注がれている。
氷山の一角と言えど海上からでもそれはちょっとした小山が聳え立っているようなものだ。そこに人々が舟を寄せたり泳いで到達したりして騒いでいるのが見えた。
「“息継ぎ”って。それじゃ、生き物なのに半年も呼吸無しで海の底で?」
「地球から来た客は鎧鯨の話を聞けば皆そういう顔をするが、それが事実だ。やつは水精霊の力も借りずに遥か昔からそうやって生きてきた。
このへんの住民、海守テドロニロド公、あの烏賊野郎の民草たちはやつを“彼の方”と呼んで半ば神サマみたいに扱ってる。
まぁ、その手の話はやりだすとミズハミシマ建国の歴史から語り始めなきゃならない。今は割愛して、やつが運んでくる豊穣の話をしよう」
ちょうど始まる、見ろ、とミレイが指差した。
指先は鎧鯨の体表の上に上陸する人々に向けられている。主に魚人たちで構成される一団は、手に手に大工仕事で使うような大きな工具を携えていた。
その工具の数々で鎧鯨の甲冑の如き体表を削ったり砕いたりしている。相当体力を使う仕事らしく、大の大人たちが顔を真っ赤にして鋸を引きノミを振るっている。
背中の上で好き放題されているにも関わらず、鎧鯨の方はといえば巨大な体躯をびくとも動かさず日光浴に勤しんでいた。
「あれは何をやってるんですか?」
「鎧鯨の古くなった鎧を剥がしてるんだ。海の上だけじゃない、海中でも同じことをやっている。
鎧鯨の体皮は恐ろしく硬く、加工難度も高くて限られた職人しか扱えないがな。形に出来れば無二の品物が約束される。
刀にすれば切れ味抜群にして刃毀れ無し、鎧にすれば堅牢にして軽く動きやすい。おまけに物によっては不思議な力が宿ったりもする。
なかなか国外にまで出回らない素材だが、延でこいつの鎧で作った包丁が妖刀ならぬ妖包丁として出回ってるんだと。料理人の命を吸って天下一品の料理を作るんだそうだ。この国の笑い話だよ」
一体何が笑いどころなのか分からないが、ともあれ今目の前で行われている作業は金の発掘現場とさして変わらない状況らしい。
そのためか積層の皮を剥がそうとする者たちの姿は皆真剣極まりない。野太い声で連絡を取り合い、一糸乱れぬ連携で鋼よりも硬い素材を切り裂く。
それでも作業が遅々として進まないあたり、それほど厳しい難行なのだろう。
缶ビールの中身をちびちびやりながら、ミレイの話は進む。
「鎧鯨が運ぶのはそれだけじゃない。
海溝の底に積もった栄養塗れの泥を掻き揚げて運んでくるもんだから、やつが浮いてくるだけでやつの周りには小魚の大群の出来上がりだ。
後は分かるだろ。あなたの世界でも一緒のはずだ。餌になる小魚が群れてりゃ何が来る?」
「………それを餌にする魚?」
そう、と頷く。
「あとは倍々だ。それを餌にする魚、そいつを餌にする魚、そいつをも餌にする魚…。
ミズハミシマの遊牧民たち、『潮の民』なんかはそいつが目当てだ。今頃この周りの海を大喜びで駆け巡ってるところだ。この時ばかりは魚追いの仕事を放り出す。約束された大漁だからな。
人が集まるところにはもっと人が集まる。鎧鯨の周囲に作業する者たちの宿舎が出来る。そいつらを養うための飯処が出来る。こっちも倍々だな。
そういうのが巡り巡って、今じゃあなたみたいな観光客まで押し寄せる大祭りになってしまった、というわけだ」
言われてあたりを見回せば、確かに雑多というのも形容としては不十分に思えるほど多種多様な出店が鎧鯨をぐるりと囲んで軒を連ねていた。
ひときわ大きなのは作業員たちの簡易宿舎か。話に上がった食事の屋台は数え切れないほど。もはや鎧鯨も関係ない土産物屋まである始末。
カオスを具現化した様相の発掘現場は、ただひたすらに人々の活気に満ち溢れていた。
お祭りだ。お祭りだ。今年もやってきてくれた。お祭りだ。お祭りの始まりだ――――と。
「屋台だって組み立ててあるものをミズハミシマの海の家畜たるカジキどもに牽かせて持ってくるだけだから軒を構えるのも至極簡単だ。
この祭りは鎧鯨が海の底へ帰っていくときも見ものなんだ。2日だけ築かれる都が、潮が引くように一瞬で影も形もなくなるのは初めて見るやつは唖然とする。
これがこの鯨都の概要だな。あとはひたすらこの混沌を楽しむだけだぜ、地球人。なんせ2日間じゃ味わい尽くせない。
元々この鯨都にまともに法なんて無いんだ。海守テドロニロド公の逆鱗にさえ触れなきゃ、あとはさっき言ったとおりさ。
国籍種族一切関係なし、何でもありだ。唯一不文律があるとすれば、『稼 ぎ ま く ろ う ぜ !』、そういうわけだ」
今じゃあなたみたいな観光客も増えて暗黙の了解みたいなものはあるけどな、とミレイは続けた。
あまりに洒脱。あまりに破れかぶれ。我が祖国が失ったものかもしれない。良いことも悪いこともあるだろうが。
だが、行き交う人々はみんな楽しげだ。ようやくやってきたカーニバルの熱気の中でゆらゆらと人の波が揺れている。
きっとこれが我が祖国にも遠い昔にあった原風景なのだ。娯楽の少ない毎日の中、今日という日をみんなずっと待っていたのだろう。
屋台と屋台を繋いでいる簡易桟橋を威勢のいい掛け声と共に上半身裸の男たちがやってくる。えい、おう、えい、おう。
地球で言うウツボを何回りも大きくしたような怪魚を肩に担いだ彼らに歓声を浴びせながら人々が道を空ける。それに習って一歩後退したわたしは、ふとミレイの姿が傍らから消えていることに気づいた。
見渡すと、この酒屋の庇の下、隅に設えられたゴミ箱のすぐそばに腕組みをして立っていた。と同時に、何やらぶつぶつと呟いてもいる。
周りには誰もいない。虚空に向かって話しかけているのだ。
「……ああ……ああ………。
………………馬鹿なことを。…………今から文句を言いに出向いたところで虻蜂取らずか。
……“私ら”をいいように使ってくれて、あの烏賊野郎め」
こめかみ(と思われる箇所)を人差し指で円を描くようにしばらく揉んでいたが、やがて下腹のあたりに人差し指と中指を添える。
「『い号・黄・肆』」
奇妙な声だった。掠れたような、咳き込むような、何か特別な呼吸で意図的に生み出された声。少なくともそう聞こえた。
ミレイが缶ビールの空き缶をゴミ箱に投げ捨てている間にわたしは彼女に近づく。表情は変わらず、だが物陰にいるせいか少し物憂げな表情にも見えた。
「今のは」
「ン。ああ。
風聴(ヴリエラ)と言ってね。ドニーの咆哮術(リョーフ)に似た技術なんだが…。
知ってるか、
ドニー・ドニー」
「この国の隣国、海賊の国のことですよね」
「そうだ。簡単に言えば遠くに声を届ける技だよ。
もっとも、このミズハミシマでもだいぶ旧い技術だ。習得も難しいから使う者は極稀だが…だからこその利点もある」
誰も使わない、使えないからこその利点。アナログ技術の意味。
「……どこでも使えて、盗聴されにくい?」
視線を落としていたミレイが顔を上げた。怜悧な美貌の表情筋は動かずとも瞳に宿る感情の色が変化している。ぱちぱちとまぶたが瞬いた。
「なかなか鋭い。あなたのことを警戒していいか」
「それはちょっと困るかな」
「だろうな。話を戻そう。
ああ…その、なんだ。副業と言ったろう。今やっていることは。
それとは別に本業があるわけだ。私には」
わたしの目から視線を逸らさずにミレイが説明しだした。深い藍色が揺れている。
小首をちょこんとかしげながらまた人差し指でこめかみのあたりを揉んでいる。困ったときの癖なのだろうか。こうしてみると意外と感情豊かな女だった。
「そちらの仕事は……まあ、こうして副業をしていても問題ないはずだったんだがな。
急な横槍で別件の仕事を押し込まれた。お偉い方はいつもこちらの事情など知ったことじゃない」
お偉方。そういえば先程『烏賊野郎』と呟いていた。二度目だ
一度目はついさっき聞いたばかり。烏賊野郎。海守テドロニロド公。海守といえば地方領主のことであるという予備知識くらいはわたしにもある。
「テドロ………なんでしたっけ」
「そこまで聞いていたのか。そうだ。横槍を入れてきたのは海守テドロニロド公。ここの海守さ」
「ということは、ミレイの本業はもしかしてお役人?」
ミレイが腕組みをした。ふん、と鼻を鳴らして首を今まで向けていた方向と反対に傾けた。じぃ、とまっすぐに見つめられる。
「やはり頭の回転が早いな、あなた。断片から類推すれば誰でもたどり着ける内容でも、そこにたどり着くまでが早いか遅いかで大違いだ。
そこまで察するなら話は早い。そして、先に仕事を請け負った以上私はあなたには説明する義務があるだろう。
事態は単純。鯨祭にこのテドロニロド公領では有名な盗人集団が潜り込んでいる、という話だ。その星を挙げるのに協力しろ、とのことだ」
「警察官だったんですか」
「ケーサツ……ああ、そちらの治安維持機構のことだな。だいたいそのようなものだ」
道理で鍛えているわけだ。実際に検挙する側ということは刑事に似た職務ということだろうか。
公的な機関に属する者が副業、と言えば我が祖国の法律からすると首を傾げる話だが、ここは異国ミズハミシマである。独自のルールがあるのだろう。
ついでに言えば下の者が上の無茶振りで苦労するのはさして変わらないようだ。似なくていいところまで似るのは種は違えど社会性を持った者たちの共通するジレンマか。
ミレイが肩をすくめる。
「テドロニロド大公は強かな男でな。
海守としては中堅といったところだが口先三寸であの地位まで昇り詰めた食わせ者だ。まあ、いいさ。
横槍は横槍に違いない。先に請け負っていたあなたの仕事こそが優先だ。無視して後からいくらでも難癖つけてやろう。
同僚にひとり、そういうことに長けている男がいるからな。あの腹黒にひとつ貸しを作ることになるか……」
「でも、それは困るんでしょう」
「…………それは、まるで困らないとは言わないが。
あなたを連れて良からぬ連中を追いかけるわけにもいかないだろ」
「いいえ、そうしましょう。
このままここに放り出されるのは困るけれど、それならわたしは構わない」
「だが」
「あなたが困ったことになるのは、わたしも困ります」
初めてミレイの表情が変わったのを見た。視線を逸し、答えに窮して黙り込むのもまた今までにないことだった。
右腕の肘を左手で支える。右の人差し指でこめかみを弄る仕草が、円をなぞるものから軽く叩くものに変わる。
時間にして10秒ほどだったろうか。そうして熟慮していたミレイが顔を上げ、視線がわたしの視線と交錯する。
「仕事は絶対だ。例え祀族長オトヒメからの依頼だろうと、前もって受けていた仕事を放り投げていい道理にはならない。それが“私ら”の世界だ。
故に優先順位は変えない。あなたの案内をする、これは最後まで完了しなければならない絶対の任務だ。そこを譲るわけにはいかない。
だが、あなたがそうまで言うなら。仕事の並行は本来好ましくはないことだが、盗人集団とやらの捜索を同時に行うとしよう」
「分かりました。それじゃあ」
ミレイがかぶりを振ってため息をつく。降参だ、とでも言いたげな様子だ。
「どのみちあたりをつけなければならない。
上から下、海上から海底まで、鯨都の中を隈なく見て回ることになる。あなたを案内しながら様子でも探るとするさ。確かに、あなたを連れていれば私もただの案内役にしか見えないだろうしな。
都合がいいといえば都合はいい。だが荒事になるかもしれない。いいのか」
「大丈夫です。少しくらいなら身に覚えもあります」
「………分かった。
2日かけてこれで捕まらなければその時はあの腹黒を頼るとしよう。さて――――」
ミレイが歩きだす。薄っぺらい木組みの屋台。滲み出る海水に濡れた床板に触れて彼女のサンダルが軽い音を立てる。
そのまま蓙のような素材で編まれた庇を抜けた。祭りに興じる者たちのどよめきが行き交う中へ身を投じたミレイがこちらに振り返る。
太陽の下に出たミレイの姿を目にして、わたしは瞳を細める。日差しを浴びて輝く銀の髪。地球人からすれば彼女の身体は異形と言えたとしても、それでもわたしはどこか落ち着かない気分になる。
相変わらずミレイは微笑みもせず、素っ気ない表情でわたしを見ている。腰に手を当てしなを作ってわたしを待つ彼女の、その怜悧なる美をどう例えたものなのか。