ある者は、泥を見た

鈴仙は人間の里から西に、森の中を駆け抜けた。
森林地帯の端に近づくと、木々の切れ目、白く煙る湖の霧の向こうで、
赤い建物がぼんやりとその姿を現した。
紅魔館。今は外壁を彩る赤いレンガが雨に濡れ、血染めのように赤黒い。
ここで、霊夢たちは何者かに瀕死の重傷を負わされたのだ。

鈴仙は森の際の木陰から顔を出し、慎重に周囲の様子を探る。
いつものように周囲の光を操作し自身の姿を隠すが、これ以上雨脚が強まるとそれも役に立つまい。
遠目にはごまかせるが、雨の中、近くからだと不自然に雨の降らない空間がヒト型に浮き出てしまう。

先程見た掲示板によれば、このあたりで戦闘が行われる間近だった、との事。
それからいくらかの時間が経ったが、
東側――人の姿は無し。人の出す『波』の反応もない。
西側――やはり人の姿も反応も無し。
だが、大きな戦闘があったのだろうか、湖岸の地面が大きくくぼみ、木々が幾重にも折り重なって倒れている。
戦闘があったのだ。
花果子念報で予告されていた、霊夢たちを追うものと守るものの戦いが。
そして正面――紅魔館の方角にも人の姿と反応はなし。
紅魔館の内部の様子までは、流石にここから探ることはできない――のだが。

紅魔館に眼を凝らしたとき、鈴仙は、ぞくり、と、言い知れぬ悪寒を――覚えた。
背中から胸までをツララで貫かれ、傷口から広がった冷気が体を食い破り、心臓と背骨を凍らせる。
一瞬、鈴仙はそう錯覚した。
紅魔館の中に、恐ろしい何かがいる。
だが、私が勝手にそう思い込んでいるだけなのかも知れない。
先ほど霊夢が戦いで重傷を負ったのが紅魔館だという情報が先にあったから、
悪寒を感じたのは、視られてしまったから、ではない。そんなはずはない。
この霧の中、こちらが顔を出しただけで、窓の少ないあの建物から見えるはずがない。
私が、勝手に怖れているのだ。
猛獣が潜んでいるかもしれないとわかっている茂みの傍を通るのは、
たとえそこに何も居なくても怖ろしいものなのだ。

そのような恐怖を、私はこの距離で感じさせられている。
今、紅魔館に潜んでいるかもしれないのは、それほどに強大な存在なのだ。
しかもただ強大なだけではない。
吸血鬼、鬼、天人――ただ強大な存在というだけなら、鈴仙は今までにだって相対してきた。
だがそんな鈴仙がこれほどの恐怖を覚えるということは、
紅魔館にいる奴は――途方もなく大きな悪意、あるいは敵意を持っているに違いない。
妖怪たちは、常に人の意志によって駆逐されてきた存在だから、間違いない。

今は霊夢たちを追うのが最優先。だからあそこに向かう意味はない。
と、至極まっとうなはずの今の目的を述べることが
敵前逃亡の情けない言い訳に聞こえる程、怖ろしく感じられた。

ともかく、今は霊夢たちだ。

鈴仙はもう一度、左側、西の方角を見た。
よく見ると地面には車輪の跡がある。
車輪は紅魔館を出て湖岸沿いを西に向かって走り、えぐれた地面に遮られる形で途切れている。
追手を足止めするために地形を変えたのか。
このようなハデな芸当が可能だとすれば、守矢神社のカエルの神様だろうか。
彼女の『坤』、つまり大地を創造する力は、鈴仙も何度か目の当たりにしている。

鈴仙は周囲に神経を尖らせつつ、車輪の跡を目で追った。
白っぽくて細長いモノが、えぐれた地面の端、水際に転がっている。
鈴仙はおそるおそる近づくうちに、その細長いモノの正体を知り、息を呑んだ。
ヒトの脚だ。素足に下駄を履いている。
新聞に報じられた人物の中でその特徴に一致するのは、人里でよく見る化け傘の、多々良小傘か。

洩矢諏訪子、多々良小傘、そして第一回放送前に死んだはずの十六夜咲夜
小傘のモノと見られる片脚を残して、彼女らは影も形もない。
彼女ら3人は、追手を食い止められなかったのだろうか。
と、そこで鈴仙はえぐれた地面の向こう側から血の臭いが漂ってくることに気がついた。

えぐれた地形を迂回し、木立の中を通り抜け、倒木を跳び越え、
鈴仙はすぐに臭いの源へとたどり着いた。
遠目ではそれは、赤黒いぬかるみにしか見えなかった。
近寄るとそれが、大量に出血した跡であることが分かった。
あと十数歩の所まできて、鈴仙はなぜか足がすくむ感覚を覚えた。
そして目の前のそれを見て、ようやく鈴仙は悟った。
これは――ヒトの死骸なのだ、と――。

外科手術で摘出した内臓を寸胴鍋に満杯で詰め、
血と胃液と腸液で煮詰めた臭いを何倍も濃縮したような、鼻がバカになりそうなほどの血と屍肉の臭い。
直径数メートルにも広がった赤黒いぬかるみは、血と泥が混ざり合ってできた混色だ。
赤黒の中からは、ところどころ白い骨とピンクの肉が細切れになって飛び出ている。
水色の毛で覆われた物体は、頭の皮膚だろうか。
ぬかるみの中から突き出ていた四角い木片がある――。
鈴仙が拾い上げたそれは、血と泥に塗れた下駄だった。
鋭い刃物で切りつけたような跡が刻まれている。
これは、爪痕、なのだろうか。

見れば、かつて多々良小傘だったこの赤黒いぬかるみに、獣か何かの爪痕が余す所なく刻みつけられている。
小傘をただ殺すに飽き足らず、その死骸を執拗に切り刻んだ跡なのだ。
オレに逆らったら、こうなる――この血溜まりを作った獣らしき何かが、そう告げているかのようだった。

鈴仙はぬかるみのほとりにへたり込み、胃の中が空になるまで吐いた。


――逃げなきゃ。


一瞬、脳裏をよぎる言葉。
逃げてはいけない。鈴仙はかぶりをふり、その弱気な思考を振り払おうとする。
奴は、霊夢たちもこんな目に遭わす気なのだ。
私が行って、食い止めなければならない。


――逃げなきゃならない。行ってはいけない。行けば、私も『こう』なる。


膝をつき、気力を奮って立ち上がった鈴仙は、轍の跡が示す先へと足を向ける。
そして足を踏み出そうとして、倒れた木の一本につまずいて、べしゃりと地面につんのめった。
立てない。
行かなきゃいけないとわかっていても、立ち上がることができない。

私は、また、『臆病者』に逆戻りしてしまったのだ。

私という存在の本質は結局、あの時から何も変わっていない。
兵士として月を守るという任務を放棄して、逃げ出したあの時から。
私は結局、復讐者としての仮面を被っていたに過ぎなかった。
月にいた頃でさえ、私は結局兵士という仮面を被っていただけなのだろう。
そして幻想郷に流れ着いてからも、滑稽なことに私は、
自分から捨てた月の威光を笠に着て周りを見下してばかりいた。
私は、自分という存在の本質をひた隠しにして、上っ面だけを取り繕って必死に逃げ惑って来たに過ぎない。

なるほど、スタンドはどうやら本当に持ち主の魂の写し身らしい。
だから精神の波を操作する能力が通じやすいのだ。
上っ面だけを取り繕うサーフィスはまさに私にお似合いというわけだ。
それどころか、さっきは機械兵の上っ面を被っただけのその人形の、耳に痛い助言さえ無視して、
泥を舐めさせられたではないか。
私は、あの機械兵の上っ面より、さらに中身がないらしい。

私の、『鈴仙』というスカスカの上っ面の中には、
生まれてこの方ちっとも成長していない臆病な仔ウサギがいつも縮こまって震えている。
まさしく私こそが臆病であり、臆病こそが私なのだ。
『鈴仙』と名前を書けば、『おくびょう』と読み仮名がつき、
『臆病者の鈴仙』というフレーズは『頭痛が痛い』と同様の二重表現なのだ。


そして私は、臆病な本質をひた隠しにしながら、結局臆病にさえなりきれなかった半端者なのだ。
ウェスという天気を操るスタンド使いとの戦い。
私はあの時、真っ先に逃げるべきだったのだ。傷ついた仲間が背後にいるわけでもなかったのだから。
復讐者の仮面を被っていい気になっていた私は、結局全力で闘うことも、逃げることもせず
組み伏せられた挙句に仲間を売るハメになってしまったのだ。
いつもの臆病な私らしく全力で逃げ去っていれば、
徐倫と魔理沙はウェスに2対1で当たることができていた。
徐倫が雷に打たれることはなかったかも知れないし、ウェスをそのまま倒すことだってできたかもしれない。

ウェスの持つスタンドは確かに強力だった。
だが、半端者の私では、ウェスがスタンドを持たず、
拳銃1丁、いや、ナイフ1本の武器しか持っていなかったとしても、負けていたに違いない。
私の持つ『波長を操る能力』がいかに強力であろうと、兵士としての訓練を受けていようと関係ない。
能力も、経験も、十全に使いこなせばどんな相手にも対抗しうる能力だが、
それは結局強力な武器を持っている、というだけのこと。
武器の使い手である、私のせいで負けたのだ。

強力な武器を持とうと、私自身が弱いせいで、魔理沙と徐倫を危険に晒したのだ。
私が、自身の臆病さを受け入れられなかった弱さのせいなのだ。

だから私は『臆病』であるという本質を受け入れ、素直にそれに従って生きていかなければならない。
するとどうなるか。
まず、私は霊夢たちを助けに行かない。
すでに霊夢たちを治療するための道具はいくらか魔理沙に渡している。
箒に乗った魔理沙たちの方が霊夢たちに追いつくのは確実で、
私が追いつく頃にはすべてが終わった後ではないのだろうか。どんな結果だろうと。
敢えて私が行く理由があるのか。

そもそも私が霊夢たちを助けに行って、何ができるのか。
私は臆病な鈴仙だから、どんな相手にも勝てない。
まともなら1対1で戦うところ、私が戦う時は、
私は臆病な自分自身という、もう1人も相手にしなければならない。
1対2、いや、0対2の戦いだ。戦うまでもなく負けている。

敗北して、私が死ぬだけならまだいい。(全然よくない)
何しろ私は臆病だから、敵に脅迫されれば先程のように簡単に従ってしまうだろう。
そして、味方の顔をした敵の道具として、霊夢たちの敵に回ってしまうのだ。
私が行くことは、霊夢たちの敵にとっての都合のよい駒を増やしてしまうことに他ならない。
臆病者の私が頑張ったところで、『足手まとい』であり、『マイナス』であり『無能な働き者』でしかない。
とすれば、私は無闇に場を乱すだけで、味方にする価値はなく、
敵にとっても恐るるに足らない存在なのだろう。

もう復讐も何もかも忘れて、誰にも会わないように逃げ回っているべきか。
臆病風に吹かれて飛び回る、空っぽの鈴仙よ。

あるいは八意様に頭を下げ、恥を偲んで永遠亭に出戻ることにするか。
まぁまず間違いなく、門前払いか、殺処分だろう。
良くていつも通りの扱い、つまり実験用のモルモット扱いか。爆弾解除用の。
八意様、輝夜様、てゐ。第一回放送で、彼女らの名前は当然のように呼ばれなかった。
圧倒的な力を持つ月人の八意様と輝夜様。
生き残ることに関しては海千山千のてゐも、既にちゃっかり強くて頼りになる味方を見つけているに違いない。
彼女らは私の力などなくともこのゲームを脱出する方法を考案し、そして実行に移すのだろう。
私なんかが心配するのもおこがましい。

永遠亭の彼女らは、みな私より遥かに、桁違いに永い時を生きている。
そして何百年か、何千年かの時が過ぎ。
私が妖怪としての寿命を迎えて朽ち果てる時も、今と全く変わらずに在り続けているに違いない。
私は彼女らにとっての何だったのだろう。
人間が虫を飼うようなものだったのだろうか。

人間が子を育てるのは、主に年老いた時に自分を養わせるため、
あるいは、自分の死後に財産、技術、職務、ひいては血そのものを継がせる為だと、地上に来て知った。
親が年老いて死ぬ埋め合わせとして、子の成長に何らかの期待をしているから、子を育てるのだ。
寿命や老衰という概念の存在しない月人たちには必要のない行為なのだ。

彼女らは私より遥かに長く生き、私の力を必要とせず、その上私より先に死ぬことも老いることも決してない。
ゆえに彼女らは私なんかに何も期待しなくてよい。
彼女らは私を、必要とはしていない。
私は彼女らに、必要とされていない。
永遠亭にいる限り、私はずっと子供でいられて、そして子供でいるほかなかったのだ。

ふと、鈴仙は、右手に何かが握られているのに気づく。
思い返せばそれは魔理沙から受け取ってここまで走ってきて、
今までずっと握りっぱなしだっただけの話だが。
人形だ。アリスの形見ともいえる人形を、ずっと握っていた。


「アリス……」


鈴仙の口から、こぼれ出た名前。
鈴仙の力を何より必要としていた者。
いや、今でも、鈴仙の力を最も必要としている者。

私を必要とする者の為に、私は生きるべきなのだろうか。
アリス。彼女は私に遺言を遺した――。


『……幻想郷の皆が一人でも多く生き残れるように、貴女の力で守ってあげて。
 それから、これはできればで良い……私のカタキを討って。』


そうではない。その後の言葉。


『……ねえ、鈴仙。もし、貴女が、…………
 …………なんでもない。いいわ、外して』


アリスは何かを言おうとしていた。ついに声には出さなかった。
だが、唇の動きは鈴仙にもわかった。


『もし、貴女が望むなら、優勝して』


彼女はそう、言いかけていたのだ。
それが、アリスの本音。それまでの言葉は、所詮上っ面の建前。
鈴仙が望むなら、優勝して――優勝して、アリスを生き返らせる。
私がアリスを生き返らせたならば、アリスは私の望むものを与えてくれるだろうか。
アリスの与えてくれるものは、私の渇望を満たしてくれるのだろうか。
アリスの抱擁は恐慌状態だった私を癒やしてくれはしたが、
私の望むような――母親の愛情という幻想の代わりとなってくれるのだろうか。

遭うものすべてを皆殺しにして、私が優勝して実際にアリスを生き返らせてみるのが、
それを知る最も確実な方法なのだろう。
実行するのが絶対に不可能だという問題を除けば、だが。

できるわけがない――できるわけがない。何度でも、声を大にして言える。
できるわけがない!

私に、優勝することなど不可能だ。心情的に、私が皆殺しなどできないのはもちろんのこと。
私に、臆病で半端者の私に、戦って勝つことなどできない。
結局ディアボロに勝てたのは、破れかぶれのラッキーパンチがたまたま直撃したに過ぎない。
私が、私である限り、誰かに『勝つ』ことなどできない。

そう――私だ、全ては私なのだ。
私が鈴仙である限り、私はどこへもたどり着くことはない。
私が私であるという前提であり土台が、どんな覚悟も、意志もひっくり返して無に還してしまう。
私のくせになまいきだ。
私が鈴仙[オクビョウモノ]として生まれた時点で、既に詰みへの布石に乗ってしまっていたのだ。

では、私が私でなくなればいい?
性格をまるっきり変えてしまう薬、あるいは、脳外科[ロボトミー]手術。
できない。――いや、できなかった。
それらの方法で人格を変えてしまうのは、
私自身の破壊と同じであり、自殺と変わらない。
結局それらの手段をとることは恐ろしくてできなかったし、する許可ももらえなかった。

私は私のままでいるのがもう嫌になってしまった。
その上、私は死ぬのさえが怖ろしいという有様。
こんな私が、いったい何のために生きている?

私はいったい――何がしたい?
私はいったい――何を欲している?


――――


転んで起き上がれないままでいた鈴仙が、重々しい仕草でようやっと身を起こした。

自分勝手な、悪い考えばかりが浮かんできて止まらない。
それでも、私は行かなければならないのだ。
歪んだ幻想に浸って自分を哀れんでいる場合ではない。
現実を見ろ。

小傘を殺し、今も霊夢たちを追っている奴らがいる。
その数は――足跡や車輪の跡から察するに、少なくとも3。
四輪車に乗っているのが霊夢たちとして、他に二輪車が1台。
小傘を手に掛けたと思しき生物は、1匹はすぐに二輪車に相乗りしたようだが、2匹分の足跡が付いている。
大きな鳥のような足跡だ。二輪車に付いていけるほどの俊足ということは、
外界の草原に棲むという、ダチョウのような生物なのだろうか。
いや、待て――二輪車という乗り物はダチョウが相乗りできる構造だっただろうか?
そもそもダチョウは二輪車の上で大人しく相乗りできるものなのか?

一方、霊夢たちを逃してくれているのは、
霊夢と承太郎という男の手当にそれぞれ当っている二人に、四輪車の運転手を合わせて、合計3人。
霊夢と承太郎は写真を見る限り、とても手が離せる容態には見えなかった。
向こうには実質1人しか戦力がないことになる。
霊夢の元へ急行している魔理沙が間に合い、徐倫が目を醒まして、ようやく3対3で互角。
だが、徐倫はウェスに狙われている。
魔理沙たちがウェスに追いつかれれば、霊夢たちの敵は4人。

さらに、姫海棠はたては霊夢たちの顛末を記事にしようと彼女らを追いかけているはずだ。
記者がネタを自演するとは思えないが――。
いや、記者だからこそ、もっと『面白くなる』方向へ事件を『演出』してくるかも知れない。
とすれば、霊夢たちの敵は5人。
紅魔館から追加の刺客が送り込まれる可能性だって、ゼロではない。

他に考えうる味方の戦力――。
多々良小傘と共に追手を止めようとした、カエルの神様と十六夜咲夜(?)の姿はやはり見えない。
彼女らのモノと思しき足跡は、追手の進んだ方向にはない。
斃されて湖底に沈められたか、それとも負傷して森の中に撤退したのか。
いずれにせよ、彼女たちはもう戦えないと考えるべきだ。

となると、私しかいない。
私が追いついて、一人前の働きをしてみせてようやく4対5。
敵の中には、先程苦杯を舐めさせられたウェスがいる。
神様たちの防衛戦を突破し、多々良小傘を徹底的に嬲った怪物もいる。
私が行かなければ、魔理沙と霊夢たちは数と戦力の差で圧殺される。
ズタズタに引き裂かれる。小傘のように――。

想像などしたくもない。だが、近いうちに現実となる。
現実とはなって欲しくない。――そんなの誰だってそうだ。
問題は、私が、止めに行けるか――?
もう一度、ウェスに溺死の苦しみを味わわされるのか?
小傘を切り刻んだであろうその爪の前に、私の体を晒せるか?


――鈴仙[わたし]では勝てっこない、やめよう。


私の中の仔ウサギがささやく。


「……ダメだ……」


進み出ようとした鈴仙は足に力を込めることが出来ず、またがくりと膝を突いた。


――鈴仙[わたし]はそれでいいんだ。何も怖いやつに殺されに行くことはない。


「…………ダメだ」


目の前に転がっていた倒木に被さるように倒れこんで、目を瞑る。


――霊夢たちのことは諦めよう。生きてさえいれば、また良い友達に出会えるよ。


「……ダメだって、言ってんのよ!」


鈴仙は叫び、がばと身を起こしたかと思えば、
倒木の幹に、思い切り頭を叩きつけた。

ここで行かなければ、私は殺されるのだ。他ならぬ私自身に。
私は、これまで何度も私を『殺して』きたのだ。
月を守る玉兎兵だった私は、臆病者の私に殺された。
孤高の復讐者を気取っていた私は、臆病者の私に殺された。
今度も、また私は臆病者の私に殺されかけている。
霊夢と、魔理沙の――――友達である私が。

地上に降りてから、人の兎[どうぐ]でない、『人』と同格として扱ってもらえた、初めての友達。
宴会での兎鍋反対に、鳥鍋のメニュー追加で(不十分だけど)意見を聞いてくれた、友達。
ついさっき裏切って、仲間を危機に晒したはずなのに、あっさりと許してくれた、友達。

ああ、そうか。
私は魔理沙と霊夢のことが、気に掛かって仕方ないのだ。
そもそも、私はディアボロの行く手を知るために、
念写能力を持つ姫海棠はたてを追っていたのではなかったか。
だけど無心で走っているうちに、そして現実を目の当たりにしていくうちに、
魔理沙たちの方が心配になってきていたのだ。


「……よし、聞こえなくなった」


しきりに頭を叩きつけていた鈴仙がむっくりと立ち上がる。
額からは一筋の血が流れ、鼻筋を通って滴り落ちているが、気にする様子はなく走り出す。


私の心には、今もアリスを殺したあの男への憎しみが燃えている。
だが、一旦それは胸の中に秘めておく。
今私が行くのは、生きるため。
霊夢と魔理沙の友達である私が、臆病な私に殺されないために行く。
霊夢と魔理沙の友達であることも、やはり臆病な私の上っ面に被った仮面なのかも知れないが、関係ない。
それが仮面でないことは、行動で示すほかない。

それに私だからできないとか、私が臆病だからとか、もう言っていられる状況ではないのだ。
私が行くのがプラスにならない?
霊夢に魔理沙らは、死んでもともとの状況に追い込まれつつあるのだ。
行かなければ、私も彼女らも、みんなみんな『殺される』。

私が何を欲しているか、私が何をしたいか。

そんなもの、ある訳がない。
私に、望みを持てる訳がない。
私が私であるという土台が、重大な欠陥を抱えている。
何も成し遂げる望みのない者が――自分に何もできないと思っている者が、
望みを持って、それに向かって歩むことなどできないのだ。

そうだ、私に欠けているのは――『大地』なのだ。
大地がなければ、自分自身の道など見つけることが、できない。
大地がなければ、心の中に地図を持つことなど、できない。
大地がなければ、臆病風に吹かれた時に踏ん張ることも、できない。
大地がなければ、望みのために最初の一歩を踏み出すことさえ、できない。
大地がなければ、空に向かって飛び立つことなど、できるわけがない。
まず大地があって、はじめてその上に空ができるのだから。

『大地』とは、自分には生きる価値がある、自分なら大丈夫、自分ならやれる、という、根拠なき自信。

地上で薬売りを始めて、私はその時、人間の生態を知った。
それは驚くべきことだった。
妖怪と違って、人間は皆、乳児という極限まで無力な状態で生まれてくるのだ。
食事に排泄に、着替えに入浴に睡眠――何から何までを親に依存しなければ生きていけないのだ。

もし私が赤子の状態で永遠亭に拾われたとしたら、
当時の八意様たちは私を育てるのを面倒がって殺処分していたかもしれない。
私自身、彼女らに申し訳なくて自殺していたかもしれないが、
赤ん坊では申し訳ないという概念は理解できず、自殺を実行に移す能力もない。

だけど人間は――少なくとも正常な家庭ならば、
生まれたばかりの赤ん坊の親は、昼夜を問わずうるさく泣きわめく赤ん坊に付きっきりで世話をする。
まるで赤ん坊こそがその家庭の王となったかのように。
そして三ヶ月ほどで、ようやく赤ん坊は自分の名を呼ぶ声に反応し、それだけの事で親は手を叩いて喜ぶのだ。
一年ほど経って、ようやく立って歩くことができた時に、親は涙を流して喜ぶのだ。

極限まで無力な時代に何もかも世話された経験があるからこそ、
人間は根拠なく自分の存在に価値を感じられる。

理由もなく不安で泣いていた時につきっきりであやしたもらった経験があるからこそ、
人間は根拠なく自分の不安を振り払うことができる。

ただ自分が立ち上がっただけで歓喜された経験があるからこそ、
人間は根拠なく自分の成長を信じることができる。

親の愛情が、人間の心の中に『大地』を育むのだ。

私が、ヒトが生きていく上で必要不可欠なもの。
いや、『大地』を手に入れてはじめて、ヒトはこの世に生まれ落ちたことになるのだろう。

そしてアリスは――わたしの『大地』になってくれたかもしれないヒトだった。
アリス自身がどう考えていたかはともかく、その時アリスは私にかりそめの『大地』を与えてくれた。
私がディアボロを憎むのは、自分自身の『大地』を取り戻したいがためなのだ。
それがかりそめのものだったかもしれないにせよ。

そして残念ながら――永遠亭は、私の『大地』ではなかったのかもしれない。
八意様に輝夜様にてゐ。
彼女らは私からみれば足元に手も届きようがないほど強大で、しかも永遠に不滅の存在。
風船のようにフラフラ飛ぶ私を今まで首輪で繋いでいてくれた恩義はあるが、
彼女が私をそうしてくれた理由が――少なくとも私には理解できない。
たかが兎一匹などと口にする彼女のこと、気まぐれでいつ追い出されても、殺されてもおかしくない。
そんな彼女らのもとでは、私の『大地』は天寿を全うして死ぬまで見つからないのかも知れなかった。


私の『大地』は未だ見つからない。
今はただ、魔理沙の繋いでくれた一筋の糸だけが頼り。
手繰った先には、何があるのか。少なくとも人間はいる。
『大地』を踏みしめて歩く人間の友達が。
その人間の『大地』が、私の『大地』である保証はない。
だけどその姿は、私の『大地』を探す手がかりになるかもしれない。
だから私は、友を守るために死地に赴く。


『大地』は、私自身の中に見出す。
私自身の『大地』を見つけるために、私は戦うのだ。

いつか『大地』を見つけて私は――『地上の兎』になる。


【昼】C-4 霧の湖のほとり

鈴仙・優曇華院・イナバ@東方永夜抄】
[状態]:疲労(中)、妖力消費(小)、額から少量の出血、雨で濡れている、泥で汚れている、『大地』への渇望
[装備]:スタンドDISC「サーフィス」
[道具]:基本支給品(食料、水を少量消費)、ゾンビ馬(残り20%、20%を魔理沙に譲渡)、綿人形@現地調達、
多々良小傘の下駄(左)、不明支給品0~1(現実出典)、鉄筋(数本)、その他永遠亭で回収した医療器具や物品(いくらかを魔理沙に譲渡)
[思考・状況]
基本行動方針:自分自身の『大地』を見つけ出し、地上の兎になる。
1:霊夢と魔理沙たちを守るために、彼女らを追う。
2:アリスの仇を討ち、自分の心に欠けた『大地』を追い求めるため、ディアボロを殺す。確か今は『若い方』の姿だったはず。
3:姫海棠はたてに接触。その能力でディアボロを発見する。
4:『第二回放送前後にレストラン・トラサルディーで待つ』という伝言を輝夜とてゐに伝える。ただし、彼女らと同行はしない。
5:ディアボロに狙われているであろう古明地さとりを保護する。
6:危険人物に警戒。特に柱の男、姫海棠はたては警戒。危険でない人物には、霊夢たちの援護とディアボロ捜索の協力を依頼する。
[備考]
※参戦時期は神霊廟以降です。
※波長を操る能力の応用で、『スタンド』に生身で触ることができるようになりました。
※能力制限:波長を操る能力の持続力が低下しており、長時間の使用は多大な疲労を生みます。
 波長を操る能力による精神操作の有効射程が低下しています。燃費も悪化しています。
 波長を読み取る能力の射程距離が低下しています。また、人の存在を物陰越しに感知したりはできません。
※『八意永琳の携帯電話』、『広瀬康一の家』の電話番号を手に入れました。
※入手した綿人形にもサーフィスの能力は使えます。ただしサイズはミニで耐久能力も低いものです。
※人間の里の電子掲示板ではたての新聞記事第四誌までを読みました。


  • アイテム紹介
多々良小傘の下駄(左)
【出典:東方星蓮船】
多々良小傘の初期装備。小傘が左足に履いていた下駄である。
血と泥で汚れた上に深々と爪痕が刻み込まれており、かろうじて原型を留めているに過ぎない。
彼女の死を仲間に伝える物証として、鈴仙が回収した。


151:緋想天に耀け金剛の光 ――『絆』は『仲間』―― 投下順 153:スターゲイザー
151:緋想天に耀け金剛の光 ――『絆』は『仲間』―― 時系列順 153:スターゲイザー
144:愛する貴方/貴女と、そよ風の中で 鈴仙・優曇華院・イナバ 155:この子に流れる血の色も

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最終更新:2017年03月16日 20:31