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一献にうち鮑、二献にえび、三献にかいもちにてやみぬ…(二百十六段) - (2007/03/12 (月) 03:49:01) の1つ前との変更点

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>最明寺入道、鶴岡の社参の次(ついで)に、足利左馬入道の許へ、先ず使を遣して、立ち入られたりけるに、あるじまうけられたりける様、一献にうち鮑、二献にえび、三献にかいもちにてやみぬ。その座には亭主夫婦、隆弁僧正、あるじ方の人にて座せられけり。さて、「年毎に給わる足利の染物、心もとなく候」と申されければ、「用意し候」とて、色々の染物三十、前にて女房どもに小袖に調ぜさせて、後につかはされけり。&br()&br()その時見たる人の、近くまで侍りしが、語り侍りしなり。 口語訳 最明寺入道(第五代執権北条時頼)が、鶴岡八幡宮に参拝のついでに、足利左馬入道(足利家五代の当主・足利義氏、北条泰時の女婿)のもとへ、まず使いをやった上で、お立ちよりになったときに、足利入道がおもてなしをなさったことの次第は、一献のお膳に打鮑(のしあわび)、二献のお膳にえび、三献のお膳にかい餅(ぼたもちの類か、そばがきの類か)で終わってしまった。その席には主人夫妻と隆弁僧正(鶴岡八幡の別当)が主人側の人としてお座りにになっていた。そのあとで、最明寺入道が、毎年いただく足利の染め織物が待ち遠しいことです」と申されたところ、「用意してございます」と言って、種々の染め物を三十疋(一疋は二反分)、時頼入道の前で女房達に小袖に仕立てさせて、あとから贈りになったという。&br()&br()そのときに、この様子を見ていた人で、近ごろまで存命しておりましたのが、語りましたとのことです。 ---- 太平記の一方の主役、足利氏に関わる話である。いや、足利氏と北条氏に関わる話といったほうが適当かも知れない。兼好が鎌倉下りをしたときに、接待の席に近侍していた人(小姓か?)から七七十年以上前の話を実際に聞いたことをもとにして書いたものである。この段にたいしての一般的な解釈は、兼好が見聞した幕末の過剰なまでに贅沢に流れる鎌倉の酒宴の有り様に、中期の鎌倉の最高権力者・時頼への接待があまりにも質素で簡潔で見事であったのに感じ入り書き記したものとされている。いかに、度はずれた宴会の流行が御家人たちの生活に悪影響を及ぼしているかを知った上で批判的な眼差しで書いたものと思われる。それは、前の二百十五段に書かれている内容からも伺い知ることができる。二百十五段は、北条時頼と平宣時(北条宣時・北条時政の曾孫)にまつわるエピソードである。宣時が晩年に時頼から或る宵に突然呼び出しを受けて酒の相手を仰せつかったときに、直垂(ひたたれ)がなくてぐずぐずひていると、再度呼び出しがあって夜分整った服装でなくてもよいから早く来いとの催促でよれよれの直垂のままで参ったところ、銚子に素焼きの杯を取り添えて、持って出てきて、「酒を一人で飲むのが、もの足りなくさびしいのでお呼びしたのです」 と言って、酒の肴になるものものを捜すように頼まれて、寝静まった家をあちこち隅々を捜しているうちに、台所の棚に小さい皿に味噌の少しついたのを捜しあてて、それを肴に愉快に杯を重ねたことが語られている。「その世にはかくこそ侍りしか」として宣時がしてしめくくっている。この二つのエピソードを持ち出して、鎌倉中期までの時代では、権力者といえども健全で質素なくらし向きであったとことを兼好は伝えたかったのであろうか。 さて、一献にうち鮑、二献にえび、三献にかいもちひにてやみぬ…といった接待の献立であるが、しかも相手は現執権の時頼である。具体的にこれが質素か否かは、直接の比較でなくて気の引けるところだが、一つのヒントとして例を出して置きたい。元徳元年(1329年)、美濃国小木曽荘にやって来た領家仁和寺の検注使の一行二十人を迎えた現地の荘官・百姓達は、まず集落の境界で「境迎」(酒迎)の酒肴を供したのち、荘内で「落着」「昼埦飯」などの酒宴を行い鳥、川魚、芋、御菜(山菜?)など山深い当地としての精一杯の珍味を肴に三日間使者達を接待している。この三日間で消費された酒は、白酒(濁酒)九瓶子に、その三倍以上の値段もする清酒を十九瓶子、それに加え白米五斗四升が飲み食いの使われたとある。(中世的世界とは何だろうか 網野善彦朝日選書)無論、検注使だけではなく地元の荘官・百姓達も加わっての飲食であろうが山深い地方でも手厚い接待をしている。鎌倉末期は地方といえども相当量の消費をしていることが窺える。鎌倉上級武士の典型的な食事に一日二食で五合の玄米の強飯と梅干とうちあわびとくらげの三種に酢と塩の調味料がつくものがある。これに比べれば義氏の時頼への接待はさほど遜色のないものではなかったかと思われる。当時の食習慣からすればむしろ気張った接待とも言えるかも知れない。ただし兼好が下った頃の鎌倉末期では、繰り返すようであるが北条氏の得宗および身内人を中心とした酒宴や饗応の豪華さ(二汁五菜、三汁七菜、品数も十二品、二十品等々とエスカレートしている)や頻度の多さ、或いは禅僧を招いての連日の供養に伴う華美な膳に対して諌める声もあがっており、また唐物(輸入品)の遣り取りもあり、それに呼応するかのような兼好の一文と考えられる。しかし、兼好の批判の眼が当時の酒宴の過剰ぶりつまり頽廃する社会風潮にありあるとする一事よりも、私はむしろ北条氏に対する足利氏の緊張した対応ぶりに関心がそそられる。兼好の文の端はしから義氏の時頼に対する気の使いようが見て取れる。先ず客を迎える姿勢である。最明寺殿(時頼)が鶴岡八幡の社参を終えた序でに、足利左馬入道(義氏)の許に使いを遣わして(気軽に?)立ち寄ったところ、迎える側の義氏は亭主夫妻と鶴岡八幡の別当である隆弁僧正が座っていた。何か気張った出迎えである。何故鶴岡八幡の別当が迎える側に座っているかであるが、元来足利家は頼朝ゆかりの鶴岡八幡宮に対して主要な経済的なスポンサーとして関係を持続しており、しかも義氏の子女が隆弁の甥の妻にもなって因縁浅からず、同時に別当として執権時頼の深い信頼を勝ちえていることつまり双方にパイプがあることを考慮に入れて彼を迎える主人側に取り込んで当日の接待の運びになったと思われる。足利家としては精一杯の顔ぶれで時頼を迎えている。饗応の出された食べ物は品数が少なくても一品一品贅を凝らした気の利いたものであり、手抜かりがないように見受けられて、義氏の気配りが良く感じられる。饗応の後、時頼は「毎年給わる足利の染物、心もとなく候」と無造作に切り出してご当地名産の反物を義氏に所望している。権力者の本質を垣間見る思いである。義氏は直ぐに反応して三十疋(六十反)用意してございますと応えて、時頼の前で女房達に小袖に仕立てさせて後日届けさせている。妻が家の女房達を動員して懸命に縫っている図が浮かんでくるようである。この挿話の前後して、義氏の子息が勝手に出家してしまい、その咎で所領を没収されるという事件があった。そのための関係修復の接待であろうという話もある。いずれにせよ鎌倉時代百五十年の終始にわたって権力者の北条氏と名門の足利氏との間には、お互いを意識する存在感もしくは緊張感が常について回ったことの反映ではなかったか。北条氏は元来伊豆・韮山地方の一土豪に過ぎず、平家の天下では国府の役人をやっていた。それが時代変換の転機ともなった時政の娘・政子が流人として伊豆にいた頼朝と結婚したことである。それにより事態は一変する。頼朝は平家打倒のシンボルとなり、緒戦はつまずくが関東の武士勢力をたちまち糾合して平家を打倒して、東国を支配する武家政権を鎌倉に打ち立てた。頼朝の御台所を出したということで北条氏は鎌倉政権の中枢に座り、あまた多くのライバたる畠山氏や和田氏や三浦氏などの御家人達を漸次巧みに屠り独裁者としての地位を確立していく。時頼は北条政権の権力がピーク時の際の執権とされており、いかに足利義氏の母が時政の娘であり、妻は北条泰時の娘で北条一門と色濃く結び付けられていても、接待への気の使いよう、緊張のしかたは並々ではなかった。本来ならば、足利氏は源氏一門の血をひくものであり、陸奥・出羽の前九年の役(1051~62)、後三年の役(1083~87)で活躍した八幡太郎源義家が東国の武士団の棟梁として地歩を固め、その子の義国には義重と義康の二子があり、義重は新田氏の祖となり、義康が足利氏の祖となった。赫赫たる源氏の血を引く足利氏と一地方の土豪に過ぎない北条氏とでは血統の原理からいけば足元にも及ばない身分関係であるが、歴史の妙味で頼朝との婚姻関係を最大限に政治的に活用して、平家の打倒、承久の乱での勝利などを経て所領の膨張に努めて北条氏は権力者へとのし上がっていく。一方足利氏は、頼朝の命により義康の子・義兼が北条時政の娘をめとってから鎌倉御家人化への傾斜が始まり、以後高氏(尊氏)に至るまで代々足利の当主は北条の一門から妻を迎えて北条執権体制に甘んじてきている。しかし、完全なる御家人でもなく準北条一門とみなすべきか他の有力御家人のような粛清の憂き目にも遇うこともなく一目おかれた名門として栄えている。高氏の代には、足利荘は無論のこと曽祖父や祖父や親達から代々受け継いできた上総や三河の守護職を兼ね、丹波や九州など全国各地に散在する十二ヵ国以上の領地を支配するまでになっていた。北条氏と足利氏の確執の濃淡は、鎌倉時代百五十年の長きわたっていろいろあったに違いないが、この章で取り上げている義氏(1189~1254)は、三代将軍実朝が1219年に暗殺されたとき足利氏の当主として源氏の嫡流と目されたが御家人の立場をとって乗らず、結局幕府は京から九条頼経を四代将軍として迎えて体裁を整えている。彼は先に和田の乱(1213)から承久の変(1221)、三浦の乱(1247)では武将として活躍して北条政権にべったりで助けた。時頼(1227~63)が長年の政敵三浦氏を宝治の合戦(1247)で倒したこともあり、義氏の館訪問の時は執権として気分が昂揚していたに相違いなく、その分義氏は神経をぴりぴりしていて大過なく過ごすことに腐心していたのではなかろうか。 歴史家ではないが、歴史紀行の作家として有名な宮脇俊三氏の作品・平安鎌倉紀行の中に足利市と新田郡の章のくだりに次のような一節がある。それは徒然草の二百十六段にふれて所感を述べているところである。 以下それを引用させていただだく。徒然草の義氏と時頼のエピソードを紹介した上で、── そうして、この挿話は北条氏にたいする足利氏の無念の雌伏を象徴しているかに見える。それをつぎのようなかたちで示してみよう。 初代・源義家 「われ七代の孫(そん)に生まれかわりて天下を取るべし」との置文(おきぶみ)が足利家に伝えられている。 四代・義兼 北条氏の疑念を怖れてか、物狂いを装おう。子の義氏の妻に北条泰時の娘を頂戴したのも、足利家の安泰をはかるためであったろう。 五代・義氏 前述のごとし。 八代・家時 先祖の義家の言う「七代の孫」に当たるが、天下を取れないので、八幡大菩薩に「わが命つづめて三代のうちにて天下を取らしめ給え」と祈念して切腹。 そして、十代目の高氏(尊氏)が宿願をはたしたわけである。──と足利家に伝わる置文について書いてある。更に続けて、引用した「徒然草」の一段は「その時見たる人の……」とあるように言い伝えであり、「徒然草」執筆時期より七十年ぐらい昔のことと推定されるが、さすが兼好法師で、よくぞ書きとどめてくれたと思う。「徒然草」は史料としても第一級であり、冷徹な眼で題材を選んでいる。──と褒めている。 足利家に伝わる置文は、後に作られた伝文であり歴史的な価値は疑問視されている面はあるが、所々には事実が顔を出している。義兼が狂人を装おったり、家時が自殺したりしているなどがそれである。宮脇俊三氏は歴史家ではないけれども歴史紀行をシリーズで出している作家で歴史を見る眼は確かなものがあると思う。私も宮脇氏が指摘した足利氏の無念の雌伏を象徴したという説に共鳴するものである。 足利氏の居館であった鑁阿寺の山門をくぐって諸堂宇に向かう途中に黒曜石に刻まれた碑文が建っている。内容は徒然草の第二百十六段全文である。この碑文の建てた由来について足利教育委員会にお伺いしたところ、返ってきた答えは、足利の織物が鎌倉時代から有名であったことを示すものとして、また、足利義氏が当時の権力者であった北条氏といかに親しい関係にあったかを示す格好の話として、足利氏顕彰会により建てさせていただいたものであります。とのことであった。足利尊氏は戦前かつて皇国史観の影響で一時国賊の汚名着せられたこともあったが、いまや地元足利市では温かい眼差しで受け入れられているようである。 兼好の二百十六段は歴史的にも、政治的にも、商業的にも、食文化的にも色々と示唆に富んだ一章となったことだけは間違いないようである。 参考文献 吾妻鏡 龍 粛 訳注  岩波書店刊 中世的世界とは何だろうか 網野善彦  朝日選書 朝日新聞社刊 太平記の群像 森茂暁  角川書店刊 きらめく中世 歴史家と語る 永井路子  有隣堂刊 平安鎌倉史紀行 森脇俊三  講談社刊 日本の食文化 二 石川寛子 芳賀 登  有山閣刊 その他 教えて頂いたところ 足利市教育委員会 鎌倉市教育委員会 ※今後は随時更新していきます。 >※お願い:鎌倉末期の酒宴における料理のメニューがおわかりになれば御教授して頂けませんか。幕府要人の酒宴ならびに引き出物のようすがわかれば幸いです。宜しくお願いいたします。 #comment_num2
>最明寺入道、鶴岡の社参の次(ついで)に、足利左馬入道の許へ、先ず使を遣して、立ち入られたりけるに、あるじまうけられたりける様、一献にうち鮑、二献にえび、三献にかいもちにてやみぬ。その座には亭主夫婦、隆弁僧正、あるじ方の人にて座せられけり。さて、「年毎に給わる足利の染物、心もとなく候」と申されければ、「用意し候」とて、色々の染物三十、前にて女房どもに小袖に調ぜさせて、後につかはされけり。&br()&br()その時見たる人の、近くまで侍りしが、語り侍りしなり。 口語訳 最明寺入道(第五代執権北条時頼)が、鶴岡八幡宮に参拝のついでに、足利左馬入道(足利家五代の当主・足利義氏、北条泰時の女婿)のもとへ、まず使いをやった上で、お立ちよりになったときに、足利入道がおもてなしをなさったことの次第は、一献のお膳に打鮑(のしあわび)、二献のお膳にえび、三献のお膳にかい餅(ぼたもちの類か、そばがきの類か)で終わってしまった。その席には主人夫妻と隆弁僧正(鶴岡八幡の別当)が主人側の人としてお座りにになっていた。そのあとで、最明寺入道が、毎年いただく足利の染め織物が待ち遠しいことです」と申されたところ、「用意してございます」と言って、種々の染め物を三十疋(一疋は二反分)、時頼入道の前で女房達に小袖に仕立てさせて、あとから贈りになったという。&br()&br()そのときに、この様子を見ていた人で、近ごろまで存命しておりましたのが、語りましたとのことです。 ---- 太平記の一方の主役、足利氏に関わる話である。いや、足利氏と北条氏に関わる話といったほうが適当かも知れない。兼好が鎌倉下りをしたときに、接待の席に近侍していた人(小姓か?)から七七十年以上前の話を実際に聞いたことをもとにして書いたものである。この段にたいしての一般的な解釈は、兼好が見聞した幕末の過剰なまでに贅沢に流れる鎌倉の酒宴の有り様に、中期の鎌倉の最高権力者・時頼への接待があまりにも質素で簡潔で見事であったのに感じ入り書き記したものとされている。いかに、度はずれた宴会の流行が御家人たちの生活に悪影響を及ぼしているかを知った上で批判的な眼差しで書いたものと思われる。それは、前の二百十五段に書かれている内容からも伺い知ることができる。二百十五段は、北条時頼と平宣時(北条宣時・北条時政の曾孫)にまつわるエピソードである。宣時が晩年に時頼から或る宵に突然呼び出しを受けて酒の相手を仰せつかったときに、直垂(ひたたれ)がなくてぐずぐずひていると、再度呼び出しがあって夜分整った服装でなくてもよいから早く来いとの催促でよれよれの直垂のままで参ったところ、銚子に素焼きの杯を取り添えて、持って出てきて、「酒を一人で飲むのが、もの足りなくさびしいのでお呼びしたのです」 と言って、酒の肴になるものものを捜すように頼まれて、寝静まった家をあちこち隅々を捜しているうちに、台所の棚に小さい皿に味噌の少しついたのを捜しあてて、それを肴に愉快に杯を重ねたことが語られている。「その世にはかくこそ侍りしか」として宣時がしてしめくくっている。この二つのエピソードを持ち出して、鎌倉中期までの時代では、権力者といえども健全で質素なくらし向きであったとことを兼好は伝えたかったのであろうか。 さて、一献にうち鮑、二献にえび、三献にかいもちひにてやみぬ…といった接待の献立であるが、しかも相手は現執権の時頼である。具体的にこれが質素か否かは、直接の比較でなくて気の引けるところだが、一つのヒントとして例を出して置きたい。元徳元年(1329年)、美濃国小木曽荘にやって来た領家仁和寺の検注使の一行二十人を迎えた現地の荘官・百姓達は、まず集落の境界で「境迎」(酒迎)の酒肴を供したのち、荘内で「落着」「昼埦飯」などの酒宴を行い鳥、川魚、芋、御菜(山菜?)など山深い当地としての精一杯の珍味を肴に三日間使者達を接待している。この三日間で消費された酒は、白酒(濁酒)九瓶子に、その三倍以上の値段もする清酒を十九瓶子、それに加え白米五斗四升が飲み食いの使われたとある。(中世的世界とは何だろうか 網野善彦朝日選書)無論、検注使だけではなく地元の荘官・百姓達も加わっての飲食であろうが山深い地方でも手厚い接待をしている。鎌倉末期は地方といえども相当量の消費をしていることが窺える。鎌倉上級武士の典型的な食事に一日二食で五合の玄米の強飯と梅干とうちあわびとくらげの三種に酢と塩の調味料がつくものがある。これに比べれば義氏の時頼への接待はさほど遜色のないものではなかったかと思われる。当時の食習慣からすればむしろ気張った接待とも言えるかも知れない。ただし兼好が下った頃の鎌倉末期では、繰り返すようであるが北条氏の得宗および身内人を中心とした酒宴や饗応の豪華さ(二汁五菜、三汁七菜、品数も十二品、二十品等々とエスカレートしている)や頻度の多さ、或いは禅僧を招いての連日の供養に伴う華美な膳に対して諌める声もあがっており、また唐物(輸入品)の遣り取りもあり、それに呼応するかのような兼好の一文と考えられる。しかし、兼好の批判の眼が当時の酒宴の過剰ぶりつまり頽廃する社会風潮にありあるとする一事よりも、私はむしろ北条氏に対する足利氏の緊張した対応ぶりに関心がそそられる。兼好の文の端はしから義氏の時頼に対する気の使いようが見て取れる。先ず客を迎える姿勢である。最明寺殿(時頼)が鶴岡八幡の社参を終えた序でに、足利左馬入道(義氏)の許に使いを遣わして(気軽に?)立ち寄ったところ、迎える側の義氏は亭主夫妻と鶴岡八幡の別当である隆弁僧正が座っていた。何か気張った出迎えである。何故鶴岡八幡の別当が迎える側に座っているかであるが、元来足利家は頼朝ゆかりの鶴岡八幡宮に対して主要な経済的なスポンサーとして関係を持続しており、しかも義氏の子女が隆弁の甥の妻にもなって因縁浅からず、同時に別当として執権時頼の深い信頼を勝ちえていることつまり双方にパイプがあることを考慮に入れて彼を迎える主人側に取り込んで当日の接待の運びになったと思われる。足利家としては精一杯の顔ぶれで時頼を迎えている。饗応の出された食べ物は品数が少なくても一品一品贅を凝らした気の利いたものであり、手抜かりがないように見受けられて、義氏の気配りが良く感じられる。饗応の後、時頼は「毎年給わる足利の染物、心もとなく候」と無造作に切り出してご当地名産の反物を義氏に所望している。権力者の本質を垣間見る思いである。義氏は直ぐに反応して三十疋(六十反)用意してございますと応えて、時頼の前で女房達に小袖に仕立てさせて後日届けさせている。妻が家の女房達を動員して懸命に縫っている図が浮かんでくるようである。この挿話の前後して、義氏の子息が勝手に出家してしまい、その咎で所領を没収されるという事件があった。そのための関係修復の接待であろうという話もある。いずれにせよ鎌倉時代百五十年の終始にわたって権力者の北条氏と名門の足利氏との間には、お互いを意識する存在感もしくは緊張感が常について回ったことの反映ではなかったか。北条氏は元来伊豆・韮山地方の一土豪に過ぎず、平家の天下では国府の役人をやっていた。それが時代変換の転機ともなった時政の娘・政子が流人として伊豆にいた頼朝と結婚したことである。それにより事態は一変する。頼朝は平家打倒のシンボルとなり、緒戦はつまずくが関東の武士勢力をたちまち糾合して平家を打倒して、東国を支配する武家政権を鎌倉に打ち立てた。頼朝の御台所を出したということで北条氏は鎌倉政権の中枢に座り、あまた多くのライバたる畠山氏や和田氏や三浦氏などの御家人達を漸次巧みに屠り独裁者としての地位を確立していく。時頼は北条政権の権力がピーク時の際の執権とされており、いかに足利義氏の母が時政の娘であり、妻は北条泰時の娘で北条一門と色濃く結び付けられていても、接待への気の使いよう、緊張のしかたは並々ではなかった。本来ならば、足利氏は源氏一門の血をひくものであり、陸奥・出羽の前九年の役(1051~62)、後三年の役(1083~87)で活躍した八幡太郎源義家が東国の武士団の棟梁として地歩を固め、その子の義国には義重と義康の二子があり、義重は新田氏の祖となり、義康が足利氏の祖となった。赫赫たる源氏の血を引く足利氏と一地方の土豪に過ぎない北条氏とでは血統の原理からいけば足元にも及ばない身分関係であるが、歴史の妙味で頼朝との婚姻関係を最大限に政治的に活用して、平家の打倒、承久の乱での勝利などを経て所領の膨張に努めて北条氏は権力者へとのし上がっていく。一方足利氏は、頼朝の命により義康の子・義兼が北条時政の娘をめとってから鎌倉御家人化への傾斜が始まり、以後高氏(尊氏)に至るまで代々足利の当主は北条の一門から妻を迎えて北条執権体制に甘んじてきている。しかし、完全なる御家人でもなく準北条一門とみなすべきか他の有力御家人のような粛清の憂き目にも遇うこともなく一目おかれた名門として栄えている。高氏の代には、足利荘は無論のこと曽祖父や祖父や親達から代々受け継いできた上総や三河の守護職を兼ね、丹波や九州など全国各地に散在する十二ヵ国以上の領地を支配するまでになっていた。北条氏と足利氏の確執の濃淡は、鎌倉時代百五十年の長きわたっていろいろあったに違いないが、この章で取り上げている義氏(1189~1254)は、三代将軍実朝が1219年に暗殺されたとき足利氏の当主として源氏の嫡流と目されたが御家人の立場をとって乗らず、結局幕府は京から九条頼経を四代将軍として迎えて体裁を整えている。彼は先に和田の乱(1213)から承久の変(1221)、三浦の乱(1247)では武将として活躍して北条政権にべったりで助けた。時頼(1227~63)が長年の政敵三浦氏を宝治の合戦(1247)で倒したこともあり、義氏の館訪問の時は執権として気分が昂揚していたに相違いなく、その分義氏は神経をぴりぴりしていて大過なく過ごすことに腐心していたのではなかろうか。 歴史家ではないが、歴史紀行の作家として有名な宮脇俊三氏の作品・平安鎌倉紀行の中に足利市と新田郡の章のくだりに次のような一節がある。それは徒然草の二百十六段にふれて所感を述べているところである。 以下それを引用させていただだく。徒然草の義氏と時頼のエピソードを紹介した上で、── そうして、この挿話は北条氏にたいする足利氏の無念の雌伏を象徴しているかに見える。それをつぎのようなかたちで示してみよう。 初代・源義家 「われ七代の孫(そん)に生まれかわりて天下を取るべし」との置文(おきぶみ)が足利家に伝えられている。 四代・義兼 北条氏の疑念を怖れてか、物狂いを装おう。子の義氏の妻に北条泰時の娘を頂戴したのも、足利家の安泰をはかるためであったろう。 五代・義氏 前述のごとし。 八代・家時 先祖の義家の言う「七代の孫」に当たるが、天下を取れないので、八幡大菩薩に「わが命つづめて三代のうちにて天下を取らしめ給え」と祈念して切腹。 そして、十代目の高氏(尊氏)が宿願をはたしたわけである。──と足利家に伝わる置文について書いてある。更に続けて、引用した「徒然草」の一段は「その時見たる人の……」とあるように言い伝えであり、「徒然草」執筆時期より七十年ぐらい昔のことと推定されるが、さすが兼好法師で、よくぞ書きとどめてくれたと思う。「徒然草」は史料としても第一級であり、冷徹な眼で題材を選んでいる。──と褒めている。 足利家に伝わる置文は、後に作られた伝文であり歴史的な価値は疑問視されている面はあるが、所々には事実が顔を出している。義兼が狂人を装おったり、家時が自殺したりしているなどがそれである。宮脇俊三氏は歴史家ではないけれども歴史紀行をシリーズで出している作家で歴史を見る眼は確かなものがあると思う。私も宮脇氏が指摘した足利氏の無念の雌伏を象徴したという説に共鳴するものである。 足利氏の居館であった鑁阿寺の山門をくぐって諸堂宇に向かう途中に黒曜石に刻まれた碑文が建っている。内容は徒然草の第二百十六段全文である。この碑文の建てた由来について足利教育委員会にお伺いしたところ、返ってきた答えは、足利の織物が鎌倉時代から有名であったことを示すものとして、また、足利義氏が当時の権力者であった北条氏といかに親しい関係にあったかを示す格好の話として、足利氏顕彰会により建てさせていただいたものであります。とのことであった。足利尊氏は戦前かつて皇国史観の影響で一時国賊の汚名着せられたこともあったが、いまや地元足利市では温かい眼差しで受け入れられているようである。 兼好の二百十六段は歴史的にも、政治的にも、商業的にも、食文化的にも色々と示唆に富んだ一章となったことだけは間違いないようである。 参考文献 吾妻鏡 龍 粛 訳注  岩波書店刊 中世的世界とは何だろうか 網野善彦  朝日選書 朝日新聞社刊 太平記の群像 森茂暁  角川書店刊 きらめく中世 歴史家と語る 永井路子  有隣堂刊 平安鎌倉史紀行 森脇俊三  講談社刊 日本の食文化 二 石川寛子 芳賀 登  有山閣刊 その他 教えて頂いたところ 足利市教育委員会 鎌倉市教育委員会 [[「鎌倉の海に鰹と言ふ魚は、…… (百十九段) 」に続く>鎌倉の海に鰹と言ふ魚は、…… (百十九段) ]] >※お願い:鎌倉末期の酒宴における料理のメニューがおわかりになれば御教授して頂けませんか。幕府要人の酒宴ならびに引き出物のようすがわかれば幸いです。宜しくお願いいたします。 #comment_num2

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