人ごとに、我が身にうとき事のみぞ好める。法師は兵(つわもの)の道を立て、夷は弓をひく術知らず。仏法知りたる気色し、連歌し、管弦を嗜みあへり。されど、おろかなるおのれが道よりは、なほ人に侮られぬべし。

法師のみにあらず、上達部・殿上人・上ざままでおしなべて、武を好む人多かり。百度戦ひて百度勝つとも、いまだ武勇の名を定めがたし。その故は、運に乗じて敵(あた)を砕く時、勇者にあらずといふ人なし。兵(つわもの)尽き、矢窮りて、つひに敵に降らず、死をやすくして後、始めて名をあらはすべき道なり。生けられんほどは、武に誇るべからず。人倫に遠く、禽獣に近きふるまひ、その家あらずは、好みて益なきことなり。

口語訳 誰もかれもが、自分に縁遠いことばかりを愛好している。法師は武士の道を専らにし、荒武者は弓を射る方法を知らないで、仏法を知っているふりをし、連歌をしたり、管弦などの音楽をたしなみあったりしている。けれども、いい加減な自分の専門よりは、畑違いなことをしていっそう人に軽蔑されてしまうに相違ない。

法師だけでもなく、上達部・殿上人などのような上層の人たちまで一般に、武術を好む人が多い。百度戦って百度勝っても、まだ勇者の名を決定的なものにするわけにはゆかない。そのわけは、好運にのって敵を討ちやぶるときには、誰でも勇士でないような人はない。武器が尽き、矢がいよいよなくなっても、最後まで敵に降伏せず、平然として死んで後、はじめて、真の勇者たる名をあらわすことができる道理である。だから、生きている間は、武勇を誇ってはならない。武道というものは人間の道にはずれ、鳥や獣に近い行為で、武士の家柄でなくして、好んでも無益なことである。



ここの八十段も前章で触れた百二十二段も期せずして南北朝時代のそれまでのすべての価値観が逆転した狂乱の世相をとらえて批判している。したがって似たような論調になってしまうが、南北朝の乱れ振りについて引き続き語って見ることとする。先ず南北朝の幕開けであるが、倒幕に失敗して捕らわれ、元弘二年(1332年)または正慶元年は後醍醐天皇が幕府より退位を迫られるが頑なに拒み続けて天皇のまま三月に隠岐に遷幸するとあるが流され、替わって幕府より支持されて持明院統の光厳天皇が即位したのが始まりである。隠岐の後醍醐天皇と京の光厳天皇の二統が並立の形で存在する変則の時代が推移していく。鎌倉は光厳天皇が唯一の天皇と認識しているであろうが、曖昧にして完全に政治的な止めを刺さない限り変則の政治形態は残るのである。果たして翌年の元弘三年二月に後醍醐天皇は隠岐より出雲に脱出して、伯耆の土豪名和長年の助けにより船上山にこもる。これを契機に全国にマグマのようにどろどろと漲っていたアンチ北条勢力のエネルギーが一気に爆発し、打倒北条政権を目指して行動を開始したのである。魔法使いのようにあれほど強権を誇っていた幕府が京都に鎌倉に攻め込まれてあっけなく瓦解してしまったのである。営々と権力を一手に集中させ過ぎた北条一族はいつしか孤立し誰からも支持されなくなって滅亡したのである。

後醍醐天皇は得意の絶頂であったであろう。元弘三年(1333)五月に船上山より京への凱旋の道のりは一瞬の輝きであった。名和長年はじめ一族に天皇一行は前後左右を警護されて京にのぼった。年来の宿望を果たし、行く先々の沿道では熱狂的な民衆に迎えられて、これまでの幕府の目を恐れて罪人のような逃避行の苦難から解き放たれて堂々の還御に、駕篭の中でこの劇的な変転振りをしみじみ感じとっていたことであろう。しかし、京に着いて建武の新政が樹立されてからは、権力に対してはまるっきり稚児に等しい振る舞いであった。性急であれも欲しい、これもしたいで政治的な配慮・影響に関しては全く無関心であった。「朕が新儀は未来の先例たるべし」という天皇自身の言に象徴されるように綸旨万能主義の発想では、超絶独裁政権の政治を支える有能な官僚が揃わず、忽ち行き詰まり立ち往生することは目に見えていた。北条政権で抑圧されていた地方の武士や地権者が、権利回復の絶好の機会とばかりに文書の入った細葛(ほそつづら)を背負って京へ殺到して己の土地の所有を認めさせようと口々に主張し、永年鎌倉幕府任せで惰眠に慣れていた朝廷の機能は麻痺して大混乱に陥ってしまった。事務処理は遅く、その上極めて不公平で、政令が綸旨よる一遍の通達で朝令暮改式にくるくる変わり、武士や民衆の期待と熱気は一気に冷めてしまった。建武の新政の正体を見たりであった。それに引き替え尊氏は六波羅が陥落すると、すぐその跡に私設奉行所を作って、京畿の治安・秩序の維持に当たり、地方から京に上ってくる武士たちの到着状を記録したり、鎮西探題滅亡の際しては敵方の処置について彼の裁量で御教書を出して処置をしたりした。少なくても朝廷よりは尊氏のほうが安定感もあり民意の掌握にははるかに長けていた。北条幕府から足利幕府の鞍替えを目指して、尊氏は自信と先見性を持って全国の武士の統制、指揮権を確立しようとした。実質の幕府将軍のような振る舞いである。

いかに護良親王・大塔宮が尊氏の野心振りを見抜いて切歯扼腕しても、彼の強大な武力ならびに武士達の信頼の前には後醍醐天皇ともども手も足も出ずにどうにもならない現実があったのである。尊氏は阿野廉子と組んで謀反人に仕立て上げた大塔宮を捕えて、天皇の意に反して鎌倉に送り幽閉して後に殺しているが、その際、大塔宮の側近勢力、南部・工藤等の武士五十名を斬り、日野資朝の弟・律師浄俊なども殺している。正中の変、元弘の変で比較的寛大な処置をとった北条幕府とは対照的に根こそぎ切り取って潰したという印象である。あたかも頼朝が義経を鎌倉幕府運営には邪魔だとして平家滅亡後は執拗に追い回して滅ぼしたごとく、時代の創始者としての彼の冷徹な一面が窺える。王政復古を目論んだ後醍醐天皇の永年の努力も時代の受け入れるところではなく、儚く消え去る運命にあったのである。

建武の新政府が(1334年)発足して間もない八月、後醍醐天皇の政庁にほど近い二条河原に掲げられた落書がある。世にいう有名な「二条河原落書」である。当時の新政府の施策や世相など、社会の混乱振りを皮肉交えて鋭く喝破した落書である。今となっては当時を知る上で貴重な資料となっている。珍重するべき二条河原落書をここに披露して、その混乱振りを検証して見ることとする。

此比(このごろ)都ニハヤル物/夜討・強盗・謀(にせ)綸旨
召人(めしゅうど)・早馬・虚(そら)騒動/生頸(なまくび)・還俗(げんぞく)・自由出家
俄(にわか)大名・迷者(まよいもの)/安堵・恩賞・虚軍(そらいくさ)
本領ハナルヽ訴訟人/文書入タル細葛(ほそつづら)
追従・讒人(ざんにん)・禅律僧/下克上する成出者(なりでもの)
器用の堪否(かんぷ)沙汰もなく/モ(洩)ルヽ人ナキ決断所
キ(着)ツケヌ冠・上ノキヌ(衣)/持(もち)モナラヌ笏(しゃく)持テ
内裏マジ(交)ハリ珍シヤ/賢者ガホ(顔)ナル伝奏ハ
我モ我モトミユレドモ/巧(たくみ)ナリケル詐(いつわり)ハ
ヲロ(愚)カナルニヤヲト(劣)ルラム/為中美物(いなかびぶつ)ニア(飽)キミ(満)チテ
マナ板烏帽子(えぼし)ユガメツヽ/気色メキタル京侍
タソガレ時ニ成ヌレバ/ウ(浮)カレテアリ(歩)ク好色(いろごのみ)
イクゾバクゾヤ数不知(かずしれず)/内裏ヲガ(拝)ミト名付タル
人ノ妻鞆(めども)のウカレメ(女)ハ/ヨソノミル目モ心地ア(悪)シ
尾羽ヲ(折)レユガムエセ(似非)小鷹/手ゴトニ誰モス(据)エタレド
鳥トル事ハ更ニナシ /鉛作ノオホカタナ(大刀)
大刀ヨリオホ(大)キニコシラエテ/前サガリニゾ指(さし)ホラス
バサラ扇の五(いつつ)骨/ヒロコシ(広輿)・ヤセ馬・薄小袖
日銭ノ質ノ古具足/関東武士ノカコ(籠)出仕
下衆(げす)・上臈ノキハ(際)モナク/大口ニキ(着)ル美精好(びせいごう)
鎧・直垂(ひたたれ)猶不捨(なおすてず)/弓モ引エヌ犬追物(いぬおうもの)
落馬矢数ニマサリタル/誰ヲ師匠トナケレドモ
遍(あまねく)ハヤル小笠懸(こかさかげ)/事新キ風情也
京・鎌倉ヲコキマゼテ/一座ソロハヌエセ連歌
譜第・非成ノ差別ナク/自由狼藉ノ世界也
犬・田楽ハ関東ノ/ホロブル物ト云ナガラ
田楽ハナヲ(猶)ハヤルナリ/茶香十炷(じっしゅ)ノ寄合モ
鎌倉釣(づれ)ニ有鹿(ありしか)ド/都ハイトヾ倍増ス
町ゴトニ立篝屋(かがりや)ハ/荒涼五間板三枚
幕引マハス役所鞆(ども)/其数シラズ満々(みちみて)リ
諸人ノ敷地不定(さだまらず)/半作ノ家是(これ)多シ
去年火災ノ空地共/クワ(禍)福ニコソナリニケレ
適々(たまたま)ノコ(残)ル家々ハ/点定(てんじょう)セラレテ置去(い)ヌ
非職ノ兵仗ハヤリツヽ/路地ノ礼儀辻々ハナシ
花山桃林サヒシクテ(淋しくて)/牛馬華洛ニ遍満ス
四夷ヲシツメシ(鎮めし)鎌倉ノ/右大将家ノ掟ヨリ
只品有(ひんあり)シ武士モミナ/ナメンタラニゾ今ハナル
朝(あした)ニ牛馬ヲ飼ナガラ/夕(ゆうべ)ニ賞アル功臣ハ
左右(そう)ニヲヨ(及)バヌ事ゾカシ/サセル忠功ナケレドモ
過分ノ昇進スルモアリ/定(さだめ)テ損ゾアルラント
仰テ信ヲトルバカリ/天下一統メヅラシヤ
御代ニ生マレテサマザマノ/事ヲミキクゾ不思議ナル
京童(みやこわらわ)ノ口ズサミ/十分ノ一ヲモラス(漏らす)ナリ  (建武年間記)

この落書が張り出される十ヶ月前に大塔宮(護良親王)が捕らえられ、鎌倉に送られている。落書の始めの部分は大塔宮と密接に関わりを持った内容であると言われている。先ず出だしを「このごろ都にはやるもの」と梁塵秘抄のフレーズを借りて関心を引きつけて、落書の夜討・強盗とは新政府内の人間(大塔宮)に連なる人間の従者が六波羅陥落の際に金融業者(土倉)の蔵から財宝を持ち出して狼藉を働き、のちに尊氏が略奪行為を働いた下手人二十数名を捕えて処刑したことを指している。必ずしも都が闇討ち・強盗が日夜横行するかのような治安情況の不穏状態を指しているのではない。謀綸旨(にせりんじ)も天皇の綸旨万能主義が制度障害を起こして行き詰まっていることの批判である。綸旨は本来格式があって身分の低い者には出されないものであったが、すべて綸旨によるとなると不慣れからその真贋の見極めができずに、忽ち事務の停滞が発生し現場を混乱させた。土地の領有権に関する紛争から始めとして、様々な人々の多くの要求に対して到底応えられるものではなく、天皇のあずかり知らぬところで綸旨万能の弊害が噴出していたのである。召人・早馬・虚騒動も、逮捕者が出たとか、急を知らせる早馬が発進したとか噂が飛び交い、また、大塔宮が尊氏追討のため急襲するかも知れないという物騒なデマも飛び交う不安定な政情を指している。「生頸・還俗・自由出家」は、出家して剃髪したばかりの青白い頭、それもすぐに還俗して、もとに戻ってしまうご都合主義の輩を指す。仏の教えとは無関係の連中である。落書は、さらに次のように続いていく、「俄大名・迷者、安堵・恩賞・虚軍(そらいくさ)、本領ハナ(離)ルヽ訴訟人、文書入タル細葛(ほそつづら)、追従・讒人(ざんにん)・禅律僧、下克上スル成出者…」一夜明けると大名になる者、主君を失って浮浪人になる者、所領の確認を求めたり、新しく恩賞を得ようとしたりして、ありしもない合戦をデッチ上げたり、手柄を主張する不心得者が現れたりする。続けて、戦後の混乱の中で先祖伝来の領地が他人の手に移ってしまった者が、代々の領有を証明する証拠書類を細葛に携帯して、訴訟のためにはるばる上洛しなければならなかったことを指す。「追従・讒人・禅律僧…」とは、新政府にオベンチャラをいったり、ライバルを中傷したりして権力に食い込んだり、後醍醐天皇の信任をいいことに権勢を欲しいままにした文観・円観のような僧侶たちを暗に指し、あたかも下克上をして急速に成功者にのし上がったようなおかしな情況を皮肉っている。以下、落書を抜粋して当時の世相を浮き彫りにして見ることにする。「器用堪否沙汰もなく…」は、能力の適否をろくに調べもせずに、雑多な人材を掻き集めた俄の雑訴決断所(裁判所)の人的構成を揶揄している。加えて彼らの立ち振る舞いが板につかずに、「キツケヌ冠・上ノキヌ/持モナラハヌ笏持テ/内裏マシハリ珍シヤ」と場違いな存在として笑いものの対象にされてしまう。これに関しては、後醍醐天皇が隠岐から脱出して無警護の裸同然で伯耆に着いたとき、天皇をお守りして船上山に導いた功により覚えのめでたかった親衛隊長然たる名和長年が、一介の地方武士からいきなり従四位下・伯耆守に抜擢され、新政府では雑訴決断所・恩賞方・記録所などの職員になって不慣れな勤めをしている。あまつさえ東市正(ひがしのいちのかみ)にも任ぜられ、京都の商業を管理するポストまで登りつめた。お陰で京童の目に晒されて、その見慣れぬ烏帽子のかぶり様と共に横柄な態度も含めて田舎丸出しの彼を「伯耆様」と諸人から賞玩されて話題の種を提供していた。正に落書に書かれたような下克上スル成出者としてのモデルを務めていた。更に批判の目は京都への新参者の風俗にも及び、たそがれ時にもなれば、派手な為中美物(いなかびぶつ)の色好みの京侍が満ち溢れて数知らず、女漁りに耽る様は傍目にも気色悪いと批判している。また、鉛作の太刀より大きい大刀を前下がりに差し込んで虚勢を張る。質屋から日銭で古具足を借りて、籠で出仕したりして、下衆上臈の区別もない関東武士の滑稽さ。更に、京文化に対する半可通な東国武士の技芸に対しても、「尾羽ヲ(折)レユカムエセ小鷹/手コトニスエ(据え)テレド/鳥トル事ハ更ニナシ」「弓モ引エヌ犬追物/落馬矢数ニマサリタリ」と鷹狩も犬追物も武芸の訓練の体をなさず地に落ちた状態を冷笑する。徒然草の八十段に「夷(えびす)は弓ひく術知らず、仏法知りたる気色し、連歌し、管絃を嗜みあへり」とある文と妙に符合する。他にも符合する文章は見られるが、兼好が落書の書き手の一員ではないかと擬せられる所以でもある。「京鎌倉ヲコキマセテ/一座ソロハヌエセ(似非)連歌」「在々所々ノ歌連歌/点者ニナラヌ人ソナキ」「譜第非成ノ差別ナク/自由狼藉ノ世界也」、貴族のかちっとした作法に慣れ親しんだ連歌とはかけ離れたルールで、歌会の審判員も碌な人物しか揃わなくて、民衆も参加して所々で興行された自由気ままな歌会を指す。さしずめバサラ大名の異名をとる茶会・連歌好きの佐々木道誉あたりが格好のモデルとなっているか。

闘犬・田楽踊りは関東の滅ぶもの言いながら、京では田楽はなお流行っている。茶香の寄合も旧に倍して盛んになっている。裏に賭け事の盛行がある。洛中の有様は、「諸人ノ敷地不定/半作ノ家是多シ、去年火災ノ空地共/クワ(禍)福ニコソナリニケリ」と前年の戦いの余燼が燻っており、「適(たまたま)ノコル家々ハ/点定セラレテ置去ヌ」と、洛中に残った家々は武士たちに陣取りされて、戦乱の再発を予感させている。今や京都は公家社会の外側からやってきた武士たちの軍事拠点の場とされて、時代の変革を大きく実感したに相違ない。何故なら、それまでなら公家と武家は洛中と京都東郊の幕府の出先機関である六波羅の置かれている河東地域とで暗黙の内に棲み分けをしていて、洛中における武士の活動は厳しく制限されていたからである。それが解消され始め、武士が洛中に堂々と進出して傍若無人の振る舞いをしている。さぞかし京童は隔世の感を味わったことであろう。「非職ノ兵仗ハヤリツヽ/路次ノ礼儀辻々ハナシ」私的な軍隊で満ち溢れ、街中の規律は乱れ、武士たちの牛馬が洛中に満ち溢れる。と、嘆かれる始末。「朝ニ牛馬ヲ飼ナガラ/夕ニ賞アル功臣ハ、左右ニオヨハヌ事ソカシ/サセル中功ナケレドモ、過分ノ昇進スルモアリ/定テ損ゾアルラント」さしたる功労がなくとも破格な昇進をするちぐはぐさを指している。これらの人材登用は武士階級にとどまらず、後醍醐天皇が貴族の伝統的な家格まで無視して登用するために、天皇の措置は正気の沙汰ではないと貴族間で噂される始末であった。

当時の政治の様子から下克上する成出者たる新参者への不快感、都中の世相の有様まで「建武の新政」なるものの何かを多岐にわたっていろいろと批判しているが、批判者はこれでも知っていることの十分の一しか漏らしていないと皮肉ぽっく締め括っている。落書は七五調か八五調で調子よく語られ、字が読めない者でも読んで聞かせてもらえば耳から自然に入るように工夫されている。落書の哄笑は、恐らく忽ちの内に京一円には広まったことであろう。書き手は匿名のため、新政府のお膝元でありながら批判者を罪人として捕えられることはなかった。新政府に協力する者がいなかったということであろう。

落書に書かれるまでもなく、後醍醐天皇の親政政治は多難であった。わが子の大塔宮(護良親王)を犠牲にしてまで足利尊氏を懐柔してきたが、武家政権を目指す尊氏とは相容れず、所詮水と油の関係であった。建武二年(1335年)七月、北条高時の遺児、北条時行が信濃で挙兵して、武蔵にはいり、鎌倉に迫った。いわゆる中先代の乱である。鎌倉にいた足利直義は時行に敗れて鎌倉を退く。その際に、牢に幽閉していた大塔宮を部下に命じて殺させる。この機に尊氏も天皇の許しなくとも、勝手に征東将軍(征夷大将軍ではない)を名乗って鎌倉に行き、時行を破って鎌倉を取り戻す。あたかも野に放たれた虎になると評された尊氏は、最早天皇の帰洛の命にも服さず、しばらくは鎌倉から動かなかった。それどころか従ってきた諸将への恩賞を行い、将軍としての振る舞いをして来るべき幕府設立の地歩を固めて、後醍醐天皇の新政権との決別を鮮明にする。戦の実際の担い手は地方の武士たちであった。彼等の心理を掌握するか否かで、政権の帰趨が決定されることを尊氏はきちんと理解しており、天皇は権威の雲の上に立って理解どころか考慮にも入れてなかったのだ。地方武士達の土地が安堵され、より公平な恩賞にあずかることが出来るのは、天皇か尊氏かどちらか本能的に嗅ぎ分けていたのである。尊氏が中先代の乱を鎮めるべく京を出発したときは、手兵僅かに五百騎に過ぎなかったのが、東下するにつれて次第に不満武士などが合流してふくれ上がり、ゆくゆくは三万騎にも及ぶ大勢力になったという。尊氏は魔法使いでなければ奇術師でもなく、冷徹な現実主義者で現状がどう云う情況であったのかを理解していたに過ぎない。三万騎の中には旧北条方の武士も交じっていたとのことである。これにより天皇と尊氏の決裂は決定的になり、以後おどろおどろとした南北朝の戦乱が始まるのである。天皇方の武将は楠木正成を始め、新田義貞、あの名和長年、千種忠顕など尊氏との戦いであらかたが死んでしまう。天皇は屈せず吉野に逃れて南朝を建てるが、吉野の奥地での劣勢は免れない。天皇は三年後の延元四年(1339)に京に戻ることもなく崩御する。しかし、天皇の死でも戦乱は収まらない。いわば時代の変換点に差しかかっていたからである。分裂した南北朝はおよそ七十年後に南朝が北朝に吸収されて終焉を迎える。別の言い方をすれば、公家対武家の争いで後者が前者を圧倒して終ったということである。歴史は、頼朝の鎌倉時代から武士の世が始まるとされているが、真の意味での武士の世は尊氏の室町時代から始まると考えたほうが妥当なのではないか。武士が公家を駆逐して権力の頂点に立ったのである。為に、将軍は絶えず権力争奪の攻撃目標にさらされ、力が弱まればたちまち倒される運命を背負っていた。将軍は単に武力の棟梁に過ぎなかったために、逆に室町時代は未熟な軍事政権の統治であるが故に政治的に不安定であったともいえる。

兼好は、正にこの混乱の過度期を生きた知識人である。武士が弓矢より仏法に興味を示し、連歌をし、管絃を嗜む。逆に、法師・上達部など武士と対極にあるものが武士の道の鍛錬に現(うつつ)を抜かしている異常で狂乱の有様を捉えて記している。それまで支えてきた厳然たる身分の区分けが崩れて、伝統としての文化の権威が相対的に低下して、正統と異質が混じりあって混沌且つ変容していく時代を肌で感じたのであろう。期せずして二条河原落書とは別の視点で公家の没落、武士の跳梁など京都社会の変貌ぶりを、強いて云えば南北朝期の世相を証言し、慨嘆的に批判している。正に「土崩瓦解」(「誡太子書」・花園上皇)の危機への突入であった。

参考文献
日本古典文学大系  太平記  岩波書店刊
太平記の群像  森 茂暁  角川書店刊
後醍醐天皇  森 茂暁  中央公論新社刊
南北朝と室町政権  小和田 哲男 監修  世界文化社刊

最終更新:2008年09月07日 02:00