唐の物は、薬の外は、なくとも事欠くまじ。書どもは、この国に多くひろまりぬれば、書きも写してん。唐土舟のたやすからぬ道に、無用の物どものみ取り積みて、所狭く渡しもて来る、いと愚かなり。
「遠き物を宝とせず」とも、又「得がたき賃(たから)を貴まず」とも、文に侍るとかや。
口語訳 中国の物は、薬のほかは、なくとも不自由はしないだろう。書物の類は、既に日本の国にたくさん広まっているから、いくらでも書き写すことができよう。唐船が、困難な航路なのに、無用の諸物ばかりを積みとって、船いっぱいにどんどん運んでくるのは、たいそうばかげたことである。
「遠国のものを(ただ遠いだけで)宝としない」とも、また、「得難い財貨を(貴重だけで)尊ばない」とも、古典にも書いてございますとか。
この話も、恐らく鎌倉に下り京都で面識のあった六波羅探題・金沢貞顕のつてで、本貫地の六浦庄に滞在中に見聞したことを基に書いたのではないかと思われる。彼は金沢文庫の充実した書物に接するのが目的であったろうが、あいまに六浦の港の活況にも触れたであろう。大陸からの貿易船が六浦に盛んに出入りし輸入品を陸揚げしていた関係上、輸入の品々を見る機会があったと思われる。唐物珍重の風潮のあまり、膨大な量の唐物の流入を目の当たりにして、思わず批判の筆を執ったに違いない。幕末の頃は、鎌倉が唐物輸入の有力な拠点の一つになっており、和賀江の津や六浦が貿易港としての役割りを果たしていた。当時の貿易は伝統的に朝貢の形態をとり、日本からは刀剣、砂金、硫黄、漆器、蒔絵、水銀、螺鈿などの品々を輸出し、中国からは宋銭を筆頭に陶磁器、香料、薬品、書籍(経文・書画も含む)、木綿などを主に輸入していた。兼好の頃は、既に日本も貨幣経済のシステムに巻き込まれており、決済は貨幣で済まされていた。日本には全国に流通するほどの大量の貨幣を鋳造する能力はなく、勢い宋銭に頼る形となっていたのである。輸入するときは宋銭が重要な品目の第一に挙げられている。陶磁器は政治的な思惑もあり、奇貨となして実勢以上の価値を生み出していった。権力者間の取り引き、若しくは引き出物として格好の馳走品であった。そもそも貿易の本来は、大寺院が勧進元となり寺社の造営費用を捻出するためのものであったが、莫大な利益をもたらすため、政治的な有力者や富裕層が盛んに資金を提供して一儲けを目論んで貿易に活況を呈させていた。事実、金沢氏および菩提寺の称名寺が唐船を催して、勧進僧の俊如房を乗船させて、中国(当時は元)に派遣して無事帰国したと喜びの報告が文書に記録されている。唐船によってもたらされた多数の陶磁器や文物よって得た利益は鎌倉大仏などの寺社の造営あてられたし、土倉などの金融業者も潤った。先の文書が徳治元年(1306)頃とされているから、滞在中の兼好が多分(?)目撃した船からの荷卸の光景は、その辺りの事情と何らかの関連があったのかも知れない。
これはと言うのも、金沢氏は各地の守護を務めており、伊勢・志摩(東国から西国へ行くときの窓口)の守護を務め、さらに周防・長門・豊前(瀬戸内海の入り口)の守護になり、やがて鎮西探題となり博多(大陸への窓口)を支配下におく。この鎮西探題は肥後の守護になるのが慣例になっており、今の長崎・佐賀県も押さえて、五島列島とも繋がりを持つようになる。大陸との交渉が活発な海上ルートを押さえて、見事鎌倉から瀬戸内海を通り中国に至る一本の道が出来上がり、金沢氏が幕府内での地位を利用して政治的・経済的な意図のもとに集中して掌握したものであろう。金沢文庫に所蔵されていた宋・元からの書籍をはじめ、その他の多種多様な文物の充実振りもこの背景がなければ考えられぬことである。(「海と列島の中世」 網野善彦著による)
兼好が金沢文庫に魅せられて鎌倉に下ったのも何しかの因縁があったからであろう。兼好は健康な体とは言えず病気とはいろいろと縁が切れなかったから、薬の輸入はやむを得ないとしても他の品目は大抵のものはわが国で間に合っているから、危険を冒してまで持ってくる必要はないと批判している。また、ただ遠方から来たからだとか、珍しいからだとかいって有り難がることもないないと昔の本には戒めていると醒めた調子で書いている。兼好は舶来品をむやみに有り難がる世間の風潮に苦々しく思ったのは道徳的にばかりではなく、京の文化的なセンスに薫陶された彼の美学的な見地からしても、権力と財力とで物を掻き集める鎌倉の成り金的な趣味が肌に合わなかったのだ。しかし、彼がいかに嫌悪しようとも唐物の流入熱は衰えるどころか、ますます盛んになっている。三十年ほどばかり前には、あれほど国難として国中が元寇に怯えていたことが嘘のようである。北条政権が権力を浮揚・維持するためには莫大な財政の裏付けがなければ不可能であり、その手段として交易による利潤を獲得することが重要事項の一つであった。既に、平安後期から日本列島各地の港に中国大陸からの船がぞくぞく入港するようになり、その結果、予想も出来ないほどの大量の文物が日本の北に南にもたらされている。鎌倉(北条)政権に関していえば、北海道南部の渡島半島(江差付近や函館付近の遺跡)、東北北部(津軽の十三湊)の多くが、地元に独自の勢力を持つ安藤氏と強く結びついて、地頭代に任命して、それらの地域に政治的・経済的影響力を保ち続けていた。その地域から出土する大量の中国大陸製の白磁・青磁の破片や宋銭が往時の活性化を物語っている。一族の金沢氏も前述したように手分けをして中国大陸との交易に精を出していたのだ。おそらく北条氏は中国の国家、宋・元との公式の貿易ルートをほぼ自分の手中に独占していたといってもよい状態で、大型船の「唐船」を日本列島から何回も出して利潤を得るために狂奔している。(前述の「海と列島の中世」による)その他、国と関わりなく、地域の各港が中国大陸との交流を目指して独自に船を出しているのもある。九州の坊津や日本海の北陸の敦賀、小浜、瀬戸内海の山口などさまざまな例がある。
兼好が批判する力よりも、遥か大きな経済的なうねりが貿易という形で日本を動かしていたのである。鎌倉末期の経済的な動向でいえば、鎌倉が実質的なリーダーで京都は中心から取り外された存在であったともいえるかも知れない。兼好の対鎌倉に対する苦言をよそに、夥しい量の唐物の流入は日本各地に及び社会生活の中に浸透して、特に貨幣経済が根をおろし一部の高利貸し業者(土倉・馬借)が栄え、一方武士といわず庶民の各層に至るまでが借金に縛られて返済に苦労し没落するといった、いわゆる贅沢化と貧困化の格差社会が出現して、幕府を支える御家人の弱体化、庶民の流人化など社会に大きな影響を与えていった。やがて大陸(中国)貿易の利権および遠隔地の支配の行方が北条氏の命運を左右するほどの重みを持つに至る。
長年東北北部から北海道南部を実質支配していた津軽の十三湊に拠点を持つ蝦夷管領安藤氏の膝元で、元のフビライが文永五年(1268)に日本に通交を求めてきた使者を斬り捨てる大事件が起きた年に、やはり元が北アジア侵攻をも企図したのを契機に蝦夷地の世情が不穏になり、やがて蜂起した蝦夷の民との戦いの最中に時の当主・安藤五郎が不運にも戦死してしまい、強力なリーダーが不在になってしまった。文永の役(1274)や弘安の役(1281)に先立つ北の変事であった。その後も文保二年(1318)、続いて元応二年(1320)にも出羽国の蝦夷の蜂起が起きて、その間豊かな物産を誇る東北北部や北海道南部の蝦夷地は暫らくの間政治的・経済的に不安定な状況を迎え、幕府の権力を支える象徴であった東北地方における植民地的な支配は揺らぐことになる。安藤氏の権威の低下、ひいては幕府の権威の失墜が円滑な支配を困難にし、不安定な状況を生み出したと言える。更に追い打ちをかけるように元亨二年(1322)、安藤氏自身が総領の安藤季長と庶子の安藤季久が所領と管領職を巡って分裂し、激しく対立し出したことである。両者は鎌倉に上り、幕府に己の正当性をそれぞれに主張して訴えた。幕府側で事の処理に当たったのは、幕府の実権を握っていた内管領・長崎高資であったが、彼は季長と季久の両者から莫大な賄賂を受け取って決断を先延ばしにする体たらくで解決することはできなかった。このあやふやな事態に得宗の北条高時が正中二年(1325)に、安藤氏の総領権や蝦夷管領の職権は一方的に庶子の季久に帰すると逆転判決してしまった。収まらないのは無冠になった元惣領の季長であった。彼は直ちに津軽に戻ると一族を中心に同調する蝦夷の人を集めて、季久改め新惣領の宗季軍と戦った。この安藤氏同士の戦い見守っていた幕府も翌正中三年(1326)に宗季軍側に援軍を差し向け、季長軍を圧倒して彼を首尾よく捕らえて鎌倉に凱旋した。これで一件落着かに見えていた津軽は、季長の郎従である季兼が残党を集めて抵抗を続けて紛争は決着するに至らなかった。幕府は再度軍事的な解決を図ろうとして、嘉暦二年(1327)に蝦夷追討使を派遣するが戦いは巧くいかず、翌年に和談することでようやく長き津軽の動乱に終止符を打ち、辛うじて幕府の面目を保つことができた。しかし、幕府の凋落振り、幕政の深刻な腐敗、幕府軍の弱体化、戦後処理の不手際さが浮き彫りにされて、幕府の権威の失墜は天下の白日の下に曝されてしまった。当然朝廷側もこの実態を知り、倒幕に情熱を燃やす後醍醐天皇も鼓舞されたことであろう。十年に及んだ津軽の乱のダメージは、終息の年から五年後の幕府滅亡(1333)の遠因になったことは疑いのないところである。
さて、日本の輸入熱は兼好が嘆いた時代だけにとどまらず、衰えることなく連綿として現代まで続いている。室町時代の天竜寺船や勘合貿易の遣明船による中国(元・明)からの唐物の輸入然り、戦国・鎖国時代における南蛮物の渡来然り、明治以降の欧米からの舶来品然り、現代では戦後経済の目覚しい復興を遂げてからは、海外からのブランド物に象徴されるように装飾品やバッグ・時計などの身の回り品や化粧品・衣類までに及ぶさまざまな品々の異常なまでの輸入がある。今、兼好がこの有様を見れば恐らく目をまわすのではなかろうか。日本人のブランド品にかける執着は世界でも類を見ない程の情熱を持っている。ブランドは現代の神話とすらいう人もいる。人々が抱くブランドに対する無条件の憧憬、愛情、信仰などは、宗教をただひたすらに信じることと相通じるものがあり、正に現代の神話といえるかも知れない。日本、東京、銀座の(二)~(七)丁目一帯の狭いところに世界のトップブランド─ハリー・ウィンストン、ティファニー、カルティエ、シャネル、ルイ・ヴィトン、ショーメ、ソニア・リキエル、フルラ、グッチ、クリスチャン・ディオール、エルメネジルド・ゼニア、ブルガリ、プラダ、サルヴァトーレ・フェラガモ、ランバン、ロエベ、モーブッサンなどなど─が競って出店して、世界最高級のブランドの街へと急速に変貌しつつある。06年には世界初の「グッチビル」(地下一階、地上八階)が銀座晴海通りに出店し、07年中までには主なブランド店の本店がほぼ出揃うという盛況ぶりである。かって真珠王の御木本幸吉が世界中の婦人の首を真珠の首飾りで締め付けてやると豪語したが、今や世界のブランド物で日本の婦人連の体は飾り尽くされ、征服されてしまっているのではあるまいか。世界戦略の中に組み込まれているのである。六十数年前の世界大戦中での戦争スローガン「欲しがりません勝までは」と唱えていた民族と同じDNAを受け継ぐ体だとはとても考えられない激変ぶりである。兼好法師の批判なぞもはや時代遅れとして一顧だにすら値しないご時世ではあるが、時には徒然草などをゆっくり読んで静かに反省するのもあながち無駄なことではないのではないかと考えるが如何なものであろうか。
■参考文献
「海と列島の中世」 網野善彦 講談社刊
「鎌倉びとの声を聞く」 石井進 日本放送出版協会刊
■教えていただいたところ
鎌倉教育委員会、足利教育委員会
最終更新:2007年06月04日 23:48