御随身近友が自讃とて、七箇条書きとどめたる事あり。皆、馬芸、させることなき事どもなり。その例を思いて、自讃の事七つあり。

…(略)…

一、当代、いまだ坊におはしましし比(ころ)、万里小路殿御所なりしに、堀川大納言殿伺候し給ひし御曹司へ、用ありて参りたりしに、論語の四、五、六の巻をくりひろげ給ひいて、「ただ今御所にて、紫の朱奪ふことを悪むと言う文を御覧ぜられたき事ありて、御本を御覧ずれども、御覧じ出されぬなり。なほよく引き見よと仰せ事にて、求むるなり」と仰せらるるに、「九の巻のそこそこの程に侍る」と申したりしかば、「あなうれし」とて、もて参らせ給ひき。…(略)

口語訳  鳥羽天皇時代の随身で中原兼武の子の近友(馬の名手)の自讃といって七か条書きとめてあることがある。それらはみな、馬術に関することで、たいしたことでもない諸事である。私もその先例を思って、私の自讃のことを七つ書きとめておいた。

…(略)…

一、後醍後天皇が、まだ皇太子でいらっしゃったころ、万里小路殿(冷泉万里小路)の邸が東宮御所になっていたときに、堀川大納言殿(源具親か?)が、お役で出仕なさっていられたその御所の御控えの間へ、用事があって参上しましたときに、「論語の四、五、六巻をおくりひろげになって、「ただ今、東宮におかせられては、紫の朱を奪うことを悪むという本文をご覧になりたいことがあって、ご本をご覧になるのだけれども、お見出しになれないのである。もっとよく捜しだしてみよとのお言葉で、捜しているのだ」と仰せられたので、「第九巻のどこそこのあたりにございます」と申しましたところ、「ああ、うれしい」と言って、それを持って、東宮におさしあげになった。



この二百三十八段は徒然草の構成で言えば終章の方の部分に当たるので、いきなり始めの方に持ってくるのはいささか奇異に感じるかも知れぬが、話の内容からすればさほど異質とは考えられぬのと、この二番目の自讃のエピソードが特に太平記に関連があると考えて敢えて取り上げることにした。元来、あまり自慢話なぞせぬ兼好が珍しく己にまつわる話を七話もしたのである。上に掲げた話は、後醍後天皇が東宮時代のエピソードである。話は、論語のどこそこにある一節「紫の朱を奪うことを悪む」という一文をご覧になりたいのだが、命じられたお仕えの者が巻の四、五、六巻あたりをひろげて捜しあぐねて、重ねての東宮の要望に立ち往生しているところに、たまたま遭遇した兼好がたちどころに「第九巻にございます」と教えて上げて、大層喜ばれたという内容である。これだけの歴史的なエピソードではあるが、実に示唆に富んだ多くの内容が蔵されている様に思われる。

一、先ず、後醍醐天皇に関してである。天皇は父後宇多院の第二子尊治親王として生まれたが、三才年上の長子邦治親王(後の後二条天皇)の陰に隠れて幼小年期は全く注目されることはなかった。邦治は二才で親王宣下されたが、尊治は十五才で親王宣下である。格段の差である。邦治親王は十三才で皇太子になり、十七才で早くも践祚される。(1301年)しかし、後二条天皇は二十四才(1308年)であっけなく早世してしまう。皮肉なことに、これによって尊治親王の天皇としての道が開けてくるのである。大覚寺統と持明院統との皇統争いが鮮明化している最中、その年に父後宇多上皇の工作により大覚寺統の期待として二十一才で立太子するのである。時の天皇は持明院統の花園天皇である。後醍醐天皇は異例の遅さで立太子するが、逆に分別のある青年皇太子として立場を自覚し非常に意欲的になったのではなかったか。それまで皇子としての帝王学の教育は専ら長子の邦治親王のみに注がれ、次子の尊冶はついでで三才年下というハンデもあり、教育する方もされる方もあまり熱が入らなかったのではないかと思われる。当然、論語、史記、白氏文集、文選、老子、荘子等々の書(ふみ)の講読も帝王学の必須科目として学習した機会に与ったであろうが、必然を感じない尊治には退屈な時間だったろう。しかし、論語のかの一節は何故か耳に引っかかっていたものと見える。思っても見なかった東宮になって、そのことを思い出し、お仕えの者に命じて一度ならず二度にわたって熱心に捜させた。そうして偶然その場に遭遇して助けたのが兼好だと言うのである。東宮の意欲に火がついたのが見てとれる。

というのがある。意味するところは、天下の理に正と邪悪とがあるが、邪悪はつねに正に勝ちやすい。色でいえば朱は国の正色で紫は間色であるのに、紫の方が濃艶なので人々はこれを喜び、朱が却って紫のためにその地位を奪われてしまった。ゆえに紫が朱を奪うのを悪むのである。楽でいえば、雅楽は正しく鄭声は淫靡で邪であるのに、鄭声の方が聴いて面白いので人々はこれを喜び、雅楽が却って鄭声のために乱されてしまった。ゆえに、鄭声が雅楽を乱すのを悪むのである。理の是非、人の賢愚には本より定論がある。しかるに口先の上手な人が巧みに弁ずると是非・賢愚を転倒して人を惑わして、君主これを信ずれば遂に邦家を覆すに至るのである。ゆえに口先が上手で人の邦家を転覆する者を悪む。といった内容であるが、特に「紫の朱奪ふことを悪む」が、「間色の紫(幕府)が中国古代の周時代には尊重されていた正色の赤(朝廷)を圧倒するのが憎い」と、今の朝廷と幕府の関係に対比されて、東宮尊冶親王の心にストーンと落ちてきたのではあるまいか。俄かに責任ある立場に就いたばかりに気負いの一端が窺われる。以後の波乱に満ちた倒幕運動、隠岐への遷幸、建武の新政、南朝の樹立などの生涯を考えると感慨深いものがある。


一、「陽貨 第十七」は、冒頭の「陽貨孔子を見んと欲す」の一文からタイトルをとっている。主に人生論を論ずることが多い論語の中では、陽貨篇では珍しく政治的な色合いの強い内容を扱っているのが特徴である。陽貨は陽虎ともいい魯の国の反乱の立役者の一人である。魯は周王室に繋がる君主がいていわば名門で、また世襲の大夫が国政を補佐して身分制が固定化していた。孔子の頃は国が出来て五百年も経て、君主は大夫の傀儡と化し、大夫も家臣に牛耳られ下克上の様相を呈していた。三桓と呼ばれる大夫の一人季孫氏の家臣に陽虎がおり、主人の季氏を拘束して季家の実権を握り、ついで魯の国政をも専断するようになる。反乱者の陽虎は有能な人材を欲しており、孔子の評判と実力に目をつけて、何とか我が陣営に入れようと接近をはかり策を弄する。論語によれば、陽貨が家に招いて面会しようとしたが、孔子は見(まみ)えなかった。陽貨は一計を案じて、孔子の留守に豚(当時束脩料が干肉一束、一頭分か)を贈った。当時の風習として目上の者から贈りものをされたら、お礼のために家に参上しなければならなかった。会いたくない孔子は陽貨の留守を見計らって出掛けるが、途中道で待ち受けていた陽貨と出会う。陽貨の方が一枚上手だったといえる。ここで陽貨と孔子が問答をする。陽貨は孔子に向って「こちらに来なさい。わたしは貴方と話そうと思う」といって、曰(い)うには

陽貨「道徳という世を治める宝を懐いていて国家の混乱を救わないのは仁といわれますか」
孔子「いいえ、仁とはいわれません」
陽貨「世を救うことを願っていながら、たびたびその機会を逸するのは知といわれますか」
孔子「いいえ、知とはいわれません」
陽貨「月日は過ぎていきます。歳月は人を待ってくれません。いつ仕える積もりですか」
孔子「承知しました。お仕えいたしましょう」

と返事をする。弟子達は驚いて従来の言動に矛盾する孔子に反対をするが、政治を実践する場が得られると孔子は本気だったようだ。しかし、陽貨は三桓勢力の反撃にあって間もなく失脚してしまう。この時の孔子の登用はなかった。

陽貨の失脚後、今度は同じ仲間の公山弗擾(こうざんふつじょう)が費という町で反乱を起し、陽貨と同様孔子を我が陣営にと招請してくる。この時も孔子は周囲の反対にも拘らずはっきりと参加の意志を表示する。理由は、「如し(もし)我を用うる者有らば、吾は其れ東周を為さんか」と述べる。意味は、私を登用して政治に参画させてくれるならば、私はこの中国の東の地にかつての輝かしい周王朝を再興してみせよう。という極めて高い次元での動機のためである。結局これも弟子の子路が強く反対して実現するには至らなかった。

陽貨といい、公山弗擾といい彼等を反乱者と見なせば、彼等の招聘に応えようとした孔子は、日頃の思想信条からは矛盾したものになり、長いこと政治的に漂白して世に受け入れられない孔子の焦りから来た迷いであるというのが大方の見方である。が、陽貨も志のあるひとかどの人物であると見ればどうなるか。むしろ固定化した体制にあぐらかいていた大夫達の方が国を乱す元凶であり、君主をないがしろにして国外に追放するなどして、反逆者のレッテルを貼るに値する十分な資格を有していたのではないか。反乱にも理があり、孔子が陽貨の招請を受けて動こうとしたのはあながち矛盾した行動ではなく筋の通ったことだったかも知れない。名門魯国ばかりではなく、大国晋の大夫趙簡子の領地である中牟(ちゅうぼう)の代官仏肸(ひつきつ)は主人が晋より叛いたのに因って、彼も中牟で叛いた。その時も仏肸は亡命中の孔子を召(よ)んだ。それに応えて孔子は往こうとしたが、やはり子路の反対にあって実現しなかった。春秋末期は、社会秩序が急速に崩壊した時期で、氏族制の紐帯の弛緩が著しく力あるものが台頭する土壌が醸し出されていた。盗と呼ばれる政治的テロリストが国を超えて自由に出入りし、中国全体がフライパンに熱せられた豆のように弾けて沸き立っていた時代である。陽貨も盗を使って政敵を暗殺してのし上がった凄腕である。孔子と弟子達は反体制派から一目置かれて引っ張りだこであったが、彼等の誘いを断ることは相当の政治的緊迫を強いられることを覚悟しなければならない。高遠な理想を説く政治より、今日の現実的な政治のほうが切実に必要とされて、古き体制も根強く温存されている現状では孔子の出番はまだ道遠しであった。孔子が亡命を余儀なくされるのも誘いを断って孤立していたのと無縁ではなかった。孔子が蘇えるのは、戦国時代を経て、秦の全国統一から、漢王朝の樹立を経てからである。

「紫の朱を奪うを悪む」

と言ったのは、事の本質を見極めて見失うなということであろう。安易な言葉ではない。

一、後醍醐天皇が夢にも思わなかった東宮になって、果たして鎌倉末期の政治状況や社会状況を見て見誤ることなく事態の本質を見極めて行動したであろうか。論語のほんの一節に触れただけで共鳴しボルテージが跳ね上がったのではあるまいか。後醍醐天皇の倒幕のスローガンの原点は、論語のこの一節にあったと考えてもよいのではなかろうか。朝廷と幕府の関係を考えれば、兼好が目撃した光景は何とのんびりとした無防備な振る舞いではなかったか。周囲にはいろいろな人間が出入りしたであろう。堀川大納言の大仰な本を捜しあぐねている時の振る舞い、また兼好に教わって捜し出した時の無邪気な喜びよう。東宮の真意を知れば喜んでばかりはいられなかったのでは。東宮には既にこの時点で倒幕の芽が萌芽していたと見てはどうだろうか。また、東宮は側近を交えて勉強会を開いていたとも考えられる。腹をわって安心して相談出来る腹心を探していたのはないか。論語をお一人で読んでも様にならないし、師を招いて内輪で勉強会を開いていたのかも知れない。後年の陰謀の温床となった勉強会の原型が出来つつあったか。それにしても公共の場ともいえる所で、持明院統側の眼も有り、六波羅の存在も有り、お側にお仕えしている者達は呑気で無警戒で、東宮の深奥にひそむ意図には全く気がつかなかったのか。慎重さのかけらもなく興味のあるところである。

因みに太平記に記されている勉強会とは、無礼講と言われているもので、正中の変(1321)の起因となる曰くつきの事件である。この話は太平記の虚構であるという説もあったが、花園院の日記にも書かれてあったことから信憑性は確認された。「21才で異例の立太子をし、念願の天皇の位に就いたのは十年後の31才(1318年)である。正に気力充実していた壮年である。しかし即位した頃は、父後宇多上皇が院政を敷いていた手前さほど反幕府的な行動は取らなかったが、上皇が健康を害して院政を停止して親政(1321年)に移ってからは、次第に反幕府的な色合いを密かに強めて行く。天皇は側近の日野資朝や日野俊基らと諮り、倒幕の狼煙を上げるならば何としてでも頼りになる武士を引き入れることが必要と考え、強力な同士を募る目的で無礼講なる勉強会が企画された。それに因れば、美濃国の住人土岐伯耆十郎頼貞、多治見四郎次郎国長という武勇の誉れの高い武士がおり、日野資朝は縁故を頼りに彼等に近づき、密かに同士に引き入れるように画策した。しかし倒幕という大事を簡単に打ち明けるわけにもゆかないので、相手の心を見定めるために現代にいう乱交パーティに近い無礼講なるものを開いた。本能をゆさぶりにかけて相手の本心を見極めてしっかりと取り込む作戦である。ある日集まった主な面々は、大納言藤原師賢、中納言四条隆資、洞院実世、日野俊基、伊達游雅、法眼玄基、足助次郎重成、そこへ例の多治見四郎次郎国長も加わった。公家、僧侶、武士の面々である。集まりの中身は実に驚くもので盃をさす順序は身分の上下を問わず、男は烏帽子を脱ぎ、髻を解いてざんばら髪になり、僧侶は衣を着けずに白衣になった。要するに寝室スタイルで宴会をしたということである。更に、みめ麗しく肌の清らかな十七、八の美女二十余人も加わった。彼女達には、みな薄く透けるすずしという単衣だけを着せて酌をさせたから白い肌は単衣から透けて見えて、かの白楽天が楊貴妃をうたった長恨歌の、太液の池の芙蓉の花が、今水の中から咲きそめたというのも、かくやと思われる美しさであった。宴席には山海の珍味が並べられ、美酒は湧き出る泉のごとく尽きず、歌や舞の乱痴気騒ぎのパーティであった。このようなパーティが続けられ、この間に専ら倒幕の計画が練られていたというのである。しかし、何の目的もなしに会合をしていれば人に怪しまれるだろうということになり、文学談義の会という勉強会にしようかと、当時才学無双といわれた、後醍醐天皇の宋学の侍講である玄恵法印という儒者を招いて「昌黎文集」の講義を行なわせた。法印は謀反の企てのだしに使われているとは夢にも知らず会合の日ごとに出掛けては、その深遠なる道理を講義した。しかし、もともと偽装の上の勉強会であるが故に、テキストの文中の一句に「昌黎が皇帝の怒りにふれて潮州に流された」という長編の部分にさしかかったところ、講義を聴いていた人々が、

「これは不吉な書だ。今は呉子、孫子、六韜三略というような戦術の書こそ読むべきなのに」

と言って、講義をやめてしまった。結局、気持が勉強会に馴染まないのである。日野資朝や日野俊基等が苦心して同士を糾合する工作を続けていても、密計はまもなく幕府の知られるところとなる。仲間の一員に加わっていた土岐頼員(頼春?)が裏切ったのである。彼の妻が事の重大さに悩む夫の異常に気づいて問い質したところ、問われるままに六波羅襲撃の計画を打ち明ける。驚いた妻は夫や身内を助けたい一心で、六波羅の役人でもある父・斉藤利行に計画を密告してしまう。計画の内容は、九月下旬の北野天神の祭りで喧嘩騒動をひき起こして六波羅の役人等をそこに惹きつけ、役所の備えが手薄になったところを襲って占拠し、南都北嶺の僧兵や近国の体制に不満な武士を糾合するという反乱側に極めて都合の良い計画であった。六波羅は鎌倉に急使を送る一方、九月十九日の早朝京内外の武士を集めて、陰謀に加担した土岐頼貞、多治見国長を急襲して自害させ、反乱の首謀者と目されている日野資朝、日野俊基を捉えた。彼等は隠密に行動していた積もりでも、当局からは危険分子としてマークされていたのである。やがて二人は尋問のため鎌倉に移送される。天皇も心痛穏やかならず、重臣の万里小路宣房がよりより相談してみずから告文(誓紙)を携えて勅使として関東におもむき、巧く釈明をして天皇の身の安泰を取り付ける。俊基は赦されて京に戻るが、資朝は有罪と裁かれて佐渡に流される。不燃焼に終わった正中の変は一応のピリウドを打つが、以後朝廷における幕府の僭上を批判する大義名分論の宋学(朱子学)の活況は尻すぼみになってしまう。

一、さて兼好のことであるが、この二百三十八段を書いた頃は徒然草も後半部分で時代は彼の想像以上に大きく変っていたに違いない。文中にある「当代、いまだ坊におはしましし比、……」とは、後二条天皇が急逝されて花園天皇が即位され、尊治親王が皇太子になられてそう日が経ってないころのことではないか。兼好は十九才で後二条天皇の蔵人として仕え、手足となって張り切っていて、鎌倉にも下向(一説)し、さあこれから本格的に奉公するという矢先に頼みの盾を失ってしまった。二十六才の時である。まだ、出家もしていなかっただろう。一生懸命勉強もしていただろうし、歌の精進もしたであろう。すべて宮廷で役立てて出世の手段としたであろう。論語の内容にも精通していたであろう。先のエピソードのようなことは朝飯前のことだった。本来ならば後二条天皇の朝廷で役立てる筈のものが、不本意な形で役立ってしまったのである。それと後醍醐天皇の企みの伏線になることとは見抜けなかったし、自讃することではなかった。世は持明院統の花園天皇に変って朝廷内部の勢力もあっという間に交替した。彼は朝廷に頼らず己の才覚で自立していかねばならなかった。学識をみがき、歌にも精進し、仏門の道にも入り、三十才前後には出家をもした。歌では二条派の四天王の一人と謳われる程に貴族社会に認められるようになった。

後醍醐天皇が1318年に予定通りに即位して、後二条天皇の遺子、邦良親王が皇太子にあてられた。しかも、後醍醐天皇は一代の天皇として、十年後には皇太子に譲位しなければならなかった。後宇多上皇の意向である。当然、邦良親王は天皇になる気でいるし、兼好もその気ではなかったか。邦良親王のサロンに出入りし、歌も献上している。下はその一例。

正中二年、春宮より歌合の歌めされ侍りしに、山路(ノ)花、稀(ニ)逢(フ)恋けふも又ゆくての花にやすらひぬ山わけごろも袖ににほふまで

訳 日々桜の咲く山路を分けながら旅をつづけてきて、今日もまた行く手に花を見ながら休んだことだ。旅の衣の袖に花の香が移ってにおうまでに。(邦良親王の約束されている王位の道をしっかりと見据えて…)



邦良親王の将来を祝福したかのような歌である。前年には正中の変の挫折で、後醍醐天皇の将来はないと見たか。しかし、皮肉なことに邦良親王は翌年の三月には薨じてしまうのである。兼好にとっても再度の挫折である。後醍醐天皇の倒幕運動はますます燃えさかり、世の中を未曾有の乱世へと導いて行く。貴族階級の没落、武士階級の完全なる権力掌握、兼好の若いときとは世の中の風景が全く異なっていたのではないか。自讃のことを書いた頃は、彼の活躍する場は乏しく、あっても高師直に有職故実を教えるとか、とても誇りの持てるものではなかった。真偽の程は兎も角、高師直の恋文の代筆事件というのもある。それに類似した代筆の内職はやっていたと考えてもあながち的外れにはならないのではないか。晩期は正に貴族の世界が崩壊し失意のどん底にあり、若き日の一瞬の恵まれた時期を思い出して、せめての矜持を保つために述懐したものと思われる。このエピソードは、「わが世既に蹉跎たり」と人生を厳しく嘆じた生涯の序章に過ぎなかった。 如何であろうか。

三章の参考文献、徒然草、太平記、太平記の群像、後醍醐天皇は二章と同じ

新たな参考文献
論語新釈 宇野哲人 講談社学術文庫 講談社刊
孔子伝 白川静著 中央公論新社刊
新日本古典文学大系 中世和歌集 室町篇 岩波書店刊


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最終更新:2006年09月02日 16:58