御国ゆづりの節会おこなはれて、剣璽・内侍所わたし奉らるるほどこそ、限りなう心ぼそけれ。
新院のおりさせ給ひての春、よませ給ひけるとかや、
殿守のとものみやつこよそにして掃(はら)はぬ庭に花ぞ散りしく
今の世のことしげきにまぎれて、院には参る人もなきぞさびしげなる。かかる折りにぞ、人の心もあらはれぬべき。
口語訳 花園天皇から尊冶親王(後醍醐天皇)へご譲位の儀式が行なわれて、神剣・神璽および内侍所の、三種の神器をお譲り申されるころは、まことに、このうえもなく心さびしいことである。
新院の花園上皇が位をお退きになさって、その年の春、次のような歌をお詠みになったとのことである。
─主殿寮の下役人らが新院方のことはよそごととして顧みず、為に掃き清めない庭には、花が散り広がっていることである─
新帝(後醍醐帝)の公務が忙しいのに紛れて、新院(花園院)のところには伺候する人もないのが、いかにもさびしいそうだ。かような場合にこそ、人間の本心も表にあらわれてしまうものであろう。
文保元年(1317年)いわゆる文保の和談で、時の天皇の譲位と将来の皇位継承の問題について協議がなされた。持明院統の花園天皇は既に在位九年を数え、皇太子には大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)が立っていた。大覚寺統は一刻も早く尊治親王の践祚の実現に向けて幕府に強くはたらきかけた。幕府は文保元年四月、中原親鑒を使者として派遣して、践祚と立太子のことは十年ごとの交替で話し合いで解決すべしと極めて常識的な提案で、両統が共に栄えるように鎌倉が穏便に収まるよう融和をはかったものであるが、問題の解決を先送りしただけで根本的な解決にはならなかった。取りあえずは文保二年に在位十年の持明院統の花園天皇から大覚寺統の後醍醐天皇に交替したのである。が、立太子は後宇多上皇が関東申次の実兼と鎌倉をうまく抱き込んで同じ大覚寺統の邦良親王があてられた。そこに至るまでに持明院統側は抵抗して譲位を渋っていたが、文保元年九月に主柱の伏見上皇が没するに及んで、大覚寺統側に押し切られたのである。しかし、十年をめどに両統で交互に帝位につく、立太子も同じく交互に立てるという両統迭立の鎌倉案はただの一度も実現したことはなかった。後醍醐天皇はご承知のように十年経っても譲位せず、倒幕に走り失敗しても譲位はしなかった。逆に鎌倉幕府は倒れたが、今度は足利尊氏との権力闘争を続けて、吉野で死ぬまで生涯天皇であり続けた。末期の鎌倉は身内たる武士のさまざまな問題をさばくのに精一杯で、とても朝廷のことを本気で解決するまでには身が回らなかった。
徒然草は、花園天皇から尊冶親王へ譲位されたときの様子を、新院側の立場に思いやってスケッチしているのだが、今まで何かと人が集まり賑わいをみせていたのが、権力の座が移った途端に潮を引くように新帝の方に群がり始めて寂れてしまう人間の無常さを指摘している。それは高貴の世界でもいささかも変わりがないのだ。後醍醐天皇は、正応元年(1288年)後宇多上皇の第二皇子として誕生した。母は談天門院藤原(五辻)忠子である。五辻家は藤原氏北家花山院流の庶家の出で、中流の貴族といったところである。忠子の父忠継は参議どまりでさしたる事績も知られていないが、注目すべきは彼の子孫達から忠子の他に何人もの皇妃を輩出している。母の出自が低いために、幼少・少年の頃の尊治親王は兄の邦治親王(後二条天皇)の影に隠れて薄いものであった。親王宣下も十五才まで長いこと行なわれなかったし(元服は十六才)、兄の後二条天皇の急死により、いわばピンチヒッター的に大覚寺統の中心に据えられて立太子した時は既に二十一才であった。しかし、兄の急死ということで幸運が受動的に急旋回して齎らされたばかりではなく、母・忠子の秘めたる野心も無視することはできなかった筈である。彼女の一族近辺には朝廷の後宮に入り、皇妃となって子を立太子(後伏見天皇)させているようなケースも見知っている。勝気な彼女の発奮材料の一つにはなっていたであろう。忠子は後宇多院の側室として尊冶を筆頭に三男一女の親王・内親王をもうけている。が、尊治親王の冷遇措置に象徴されるように、後宇多院の皇妃には家格も高くて強力なライバル達がおり、忠子と後宇多院の間は必ずしもしっくりとはいってなかったのではないか。忠子は四人の皇子皇女をもうけたのち、ほどなくして後宇多院のもとを去り、こともあろうに舅である亀山法皇のもとに行き、親子ともども五人が寵愛を受けるというウルトラC級の大胆な行動をとった。いかに当時のルーズな性モラルの状況の中でも驚きの感覚で受け止められていた。後宇多院も不快の念は押さえ切れなかった。これを、作家の村松剛氏は忠子の「恋」(帝王後醍醐)と表現したが、忠子にはもっと切実なそうして現実的な理由が秘めていたものと思われるのである。忠子は十八才のころ後宇多帝の女房として入内し、二十一才で尊治を生んでいる。だが、尊治は父・後宇多帝の眼中にはおよそなかった。もっぱら兄の邦治親王に目が注がれていて(彼は二才で親王宣下を受ける)、尊治の親王宣下の沙汰すらなかった。宮廷社会で生きていくためには、高貴であればあるほどきちんとした身分が不可欠であった。尊治が漸く親王の宣下を受けるのは十五才で、元服は十六才である。忠子が亀山法皇のもとに奔しったのは、尊冶が親王宣下を受ける以前ではなかったか。我が子を日の当たる場所に置くための彼女の執念ではなかったか。或いは色恋沙汰よりも彼女の秘めたる野心といってもよい。事実、彼女自身大覚寺統の実力者亀山法皇の沙汰として三十一才(1298年)のときに従三位に叙されているし、母同様に法皇に寵愛された尊治も次第に存在感を増していく。しかし、祖父亀山法皇の好色が吉から災いに転じて、嘉元元年(1303年)に恒明親王が誕生(母は西園寺実兼・二女瑛子)すると、尊治への寵愛が忽ち子の恒明親王に移り(亀山院鐘愛の御末子)、晩年の妄執であろうか我が子の立坊まで画策する始末であった。関東申次を通して鎌倉の了解をとりつける段取りまでしていた。かかる事態に父後宇多上皇が動き出して、ある意味では亀山法皇への対抗策として、長いこと放置していた尊治を前述の通り十五才になってやっと親王宣下させ、翌年には慌しく立太子の前に元服させている。亀山法皇と後宇多上皇の大覚寺統内での内なる主導権争いの微妙なる葛藤が、尊治親王実現の後押しになったとしても何ら不思議はないのでなかろうか。恒明親王と後宇多上皇は兄弟という関係になり、上皇側の子孫に禍根を招来するとも限らないからである。しかし、亀山法皇は嘉元三年(1305年)に幼い恒明親王(三才)を残して五十七才で崩御する。恒明親王の強力な後ろ楯になる筈だった法皇の思いは実らなかった。
忠子の執念は予期していた以上の成果をあげることとなる。後宇多上皇が期待してやまなかった後二条天皇が二十四才であっけなく急逝してしまう。僅か八年足らずの在位であった。次は持明院統の花園天皇が立った。立太子は大覚寺統の尊治親王である。遅ればせながら二十一才で次の皇位が約束された。偶然だけでは急旋回して皇位は転げこんでは来なかった。彼女の執念が実を結ばせたのである。「一代限りの主」という制約つきではあるが最高権力を獲得するところまでに辿り着いたのである。後醍醐天皇はスタートが遅れたばかりに即位するのは十年後の三十一才である。遅咲きも遅咲きの大輪であった。関東申次の西園寺家と鎌倉幕府との監視下で五辻家程度の家格から出た皇子が帝位を継ぐということは異例中の異例に属したことだとされている。(帝王後醍醐 村松剛著) 五辻家は家格の低い貴族でも、女達は十分魅力のある女性だったのはほぼ間違いのないところであろう。女性の魅力を武器に権力に切り込んでいったと思われる。持明院統側や大覚寺統側に関わりなく、天皇の後宮に侍女として入り、時の天皇や上皇の目に留まったのである。忠子はたまたま大覚寺統側と関わりを持ち、そうして人一倍権力志向の強い女性であったかどうかわからないが、強烈な母性をもって家格の低さ・第二皇子というハンディを背負った尊治を支えて、天皇践祚まで漕ぎつけた陰の功労者の第一は彼女であることには間違いのないところである。いや、彼女無しには実現しなかったに相違いない。
後醍醐天皇は人間的にある程度成熟して、分別や判断力を身につけて皇位についたから、世の矛盾やら鎌倉の存在など納得のいかない問題は多々目についたであろうし、強大な鎌倉幕府が末期症状呈しているのも肌で知ってだろう。母にも似た不屈の気質は濃厚に受け継いだろうし、正に延喜・天暦年間の聖天子のご治世に引き戻すべく革命をひき起こす気概をもって鎌倉末期に登場したのである。天皇周辺には大輪どころか異形・異彩の言葉が常について回る。末期症状の時代が天皇を呼んだのか、天皇が時代を創ったのか、そこには両者が出合う運命的な何かがあったのであろう。
兼好は正に後醍醐天皇の登場で時代の騒乱の扉が開いた瞬間に居合わせたわけであるが、内裏の記憶として書き留めただけで、仕えた後二条天皇亡き後の自分の生活設計を模索中で、まさかかくも歴史的な大乱が招来するとは夢にも思っていなかったのではあるまいか。兼好時に三十六才であった。如何であろうか。
翻って、現代自民党総裁選挙で時の官房長官の当選が決まる。これは選挙が始まる前から確実視されていたことである。官房長官人気に反対勢力も雪崩れをうって賛成に回り、権力の一端にすがろうとしているからである。兼好が描いているように、新天皇の回りに人々が群がるように、昔も今も権力になびく心理は全く変らないと見える。
参考文献として新たに加わったもの
帝王後醍醐 村松 剛 中央公論新社刊
後醍醐天皇 森 茂暁 中央公論新社刊
「徒然草」の歴史学 五味 文彦 朝日選書
増鏡 井上 宗雄 講談社学術文庫
最終更新:2006年10月02日 13:24