鎌倉の海に鰹と言ふ魚は、かの境にはさうなきものにて、この比(ごろ)もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄りの申し侍りしは、「この魚、おのれら若かりし世までは、はかばしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は下部も食はず、切りて捨て侍りしもなり。」と申しき。
かやうな物も、世も末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。
口語訳 鎌倉の海岸で、鰹とか言っている魚は、あの(鎌倉)の地域では類のないものとして、この頃珍重するものである。それも、当地の古老が申しましたことは、「この魚は、私どもが若かった頃までは、身分の高い立派な人の前には、先ず出ることはありませんでした。また、頭などは、召使でも見向きもせずに食べずに、切って捨てましたものです。」と申しました。
このような物でも、世が乱れ衰えてきたものだから、しきたりがあやふやになり上流社会にまで、入りこむことでございます。
この話も前の章と同じく鎌倉に関係する話題であるが、兼好が二回ほど鎌倉に来ているが前回よりも前、即ち初めて鎌倉に来たときに見聞した話題だと思われる。この段に対する大方の解説書は、当時鰹節など加工したもの以外では食べなかったらしい鰹を鎌倉では堂々と生で食べている有様を見て食の変化にも現れる末世の乱れの様相を強く感じ取って批判したとものと説かれている。京文化の目から見れば世も末の絶望的な現世に写ったに違いない。短い文章ながらも驚きの中にかなりきつい語調で、「鰹と言ふ魚は」とか「かの境には」とか「さうなきもの」とか最後まで一貫して突き放した批判的な文言で終始している。兼好にとってはカルチャーショックの一事だったのであろう。鰹を生で食べることのみならず、鎌倉では庶民ばかりかじんわりと上層部の人々にまで広がりを見せている事実に驚きを隠せなかったのではなかったか。鰹は古くから干して堅くしたものを用いるのが普通で生では食べることはなかったか、あったとしても限定された漁村の周辺だけではなかったか。熱処理して食すとか調味料的なものとか塩辛類的な食べ物としての役割りを果たしていたのであろう。
ところが兼好のこの一文に対して、異説を唱えている人が居る。宮下章氏で自著の鰹節(法政大学出版局)の中で述べている。「平安時代には、都では天皇家をはじめとする『はかばかしき』人々の食膳に、生カツオが煮るか焼くか、ヒシオ(塩辛状)にするかして上せられていたものである。」として、兼好は太平洋側のたくさんのカツオの獲れる浦のある浦の一人の年寄りの思い出話を聞いて書いているに過ぎない。カツオ食のとくに「上ざま」の習慣ともなれば、京の町で尋ねるべきものであろうとしている。更に、『徒然草』は、とくに生食について言及しているわけでなく、昔のはかばかしき人はカツオ自体を食べなかったといっているのだから、兼好の書くところをまともに受け取れば、彼の認識不足だったということになる。としている。宮下氏によれば平安おろか奈良、それ以前の古代から生カツオは食べられていたと記している。神饌(神々に捧げる供物)の必須品目には鰹の製品は欠かせられないものとして重視されていたと書く。黒潮に洗われる海産国であれば古代よりカツオが食されていたことは想像がつく。しかし、天皇制のもと律令制がまだ生きていた頃ならいざ知らず、鎌倉時代になってから朝廷の権威が著しく低下してからはどうであったであろうか。ましてや兼好の時代は幕末の混乱期である。都までの租の品々の流通はスムーズに行っていたのであろうか。カツオのような日保ちのしない魚は生のままでは都に届きにくい状況にあったのではないか。宮下氏自身もページを変えて生カツオは焼くか、煮るか熱処理して食すると認識しているのであって、決して生のままで食するとは言及していない。その延長で兼好も生食に限定しているわけではなく、カツオ自体の食について書いているのであるから、カツオ自体を否定するようで認識不足と指摘しているのであるが、むしろ逆にカツオの生食を目の当たりに見聞したからこそ目を白黒させて仰天したのではないかと考える。兼好も若いとき数年ほど後二条天皇が急逝するまで蔵人として奉仕したことがあるから「上ざま」の習慣はある程度心得ていたであろう。神饌の品々の中にカツオがあることも、或いは焼いて、煮て、ヒシオなどで口にすることも知識では知っていたであろう。当時何かと経済的に不如意な宮中の台所には、傷みやすい生カツオが食膳に上がる機会がなかったとするのは穿ちすぎか。少なくとも兼好レベルまでには手間のかかる傷みやすい生カツオには手が届かなかったであろう。彼は恐らく鎌倉に来てカツオの生食を始めて知ったのではあるまいか。そうして食の乱れひいては世の中の乱れとして批判的に兼好は受け止めたのである。宮下氏のように兼好がとくに生食に言及しているわけでないと決め付けてしまうのは如何なものであろうか。
現代でもチルドという冷蔵技術があまり発達しない頃までは、サバなどの刺身は水揚した産地以外では当たるからといって都会などの消費地では食することは敬遠された。冷蔵技術の向上と、それと輸送手段がきちんと整備されるようになってからチルド食品として産地からサバ・イワシ・サンマなどが都会に送られて、刺身として食べられるようになったのは最近のことでそう古いことではない。生ものの食の広がりは地域によってパラツキがあり、特に昔ほどその傾向が顕著であったと思う。「生堅魚」(生カツオ)の木簡が発見されたから、或いは神饌に大いにカツオが供せられたといって、現代のような刺身として広く一般に食したかどうかははっきりしないのである。
また、宮下氏は当時わがもの顔に振る舞っていた鎌倉武士(カツオ)─「おのれら若かりしころまでは、はかばかしき人の前へ出づること侍らざりき」として以前は天皇や公家の前に出ることはなかった─に対する痛烈な風刺が潜んでいるとの見方をしている人々がいると紹介して、徒然草の一文を正面から解釈しないとする説を援用しているが、鎌倉末期の武士社会の批判として捉えるのは同感できる。
鎌倉時代百五十余年の長き歴史の中に、初期・中期あたりまでは武士の食事は上級クラスでも質素で、平素はいわしの丸干し・梅干しなど一汁三菜が基本で一日二食と決まっていた。それが変化し出したのは後期である。鎌倉末期になると前章でも触れたように酒宴が頻繁に開かれ、メニューも八品、十二品、十五品、十八品、二十品…とエスカレートしていき、食の風景が豪華・華美に変化してきた。珍味・美味なるものを求めて食材の広がりも見せたであろう。カツオを刺身にして食するという伝統にとらわれない調理も過度の酒宴と連動して、漁港をお膝元に抱えた権力の中枢・鎌倉の地であったればこそ可能になったわけで、何事も京の文化の尺度で物事を測る兼好の嗜好からは到底受け入れられない食材であった。兼好の心底には鎌倉の洗練されない文化の後進性を感じていたかもしれない。帰洛するや、このことは書きとめるのは無論のこと歌や友人の仲間内で大いに吹聴してまわったであろう。何かと朝廷のことに干渉して天皇すらねじ伏せてしまうおぞましい存在の鎌倉幕府に一矢報いる気持があったのではないか。あの腐りやすいカツオを生で食するなんてグロテスクにも程がある。…というぐらいの感想は持ち、世も末だと嘆いたことであろう。
徒然草の影響もあってか鎌倉時代以前までは上流の人々の間では、鰹は生で食べなかったとする説が流布されていたが、時代がさがって江戸時代になるとカツオの評価も一変する。食の広がり・進化が見せた変化である。江戸の庶民はおろか上流の人々までが熱狂的に歓迎するのである。特に初鰹に対するこだわりは江戸っ子の気風と相俟って尋常でないものがあった。加えて徒然草が江戸時代に入って大いに読まれたことが影響して、兼好に対する反撥や皮肉もある。それを川柳や俳句で熱狂ぶりや反撥ぶりの一端を垣間見ることとしよう。
- 初鰹なに兼好が知るものか (徒然草の百十九段の文章に対する素直な反応である)
- つれづれに鰹は食ふな鯉を食へ (同、徒然草の百十八段の、鯉の羹(あつもの)食ひたる日は鬢そそけずとなん。…による)
- 鎌倉からの早乗りは初鰹 (鎌倉からの早乗りは、政治的・軍事的な重大な用件ではなく初鰹の輸送とは)
- 鎌倉を生きて出でけむ初鰹 芭蕉 (鎌倉のみなとを出たときはまだ生きていて、さぞ生きのいい初鰹が江戸に着くことだろう)
- 藤咲いて鰹食ふ日かぞへけり 基角 (藤の花が咲いてそろそろ初鰹を食べられる日を数えて、待ち遠しいことよ)
- 芝浦や初鰹から夜が明ける 一茶 (魚市場の芝浦は初鰹の入荷から夜が明けて活気づていく)
「目に青葉山ほととぎす初鰹」 (素堂) 初鰹を詠んだ代表作であるが、「初鰹むかでのような船に乗り」、「あてがあるようにかけ出す鰹売り」、「昼までの勝負と歩く初鰹」、「初鰹妻に聞かせる値ではなし」、「初鰹一両までは買ふ氣なり」、「初鰹女房食った上小言」などなど江戸市中は初鰹狂騒曲で包まれてしまう程のフイーバー振りで、地下の兼好もさぞかしびっくりの変貌である。鎌倉末期、食べ物に対する批判が出ることは、一方で食べ物がそれだけ多彩になり、それなりに豊かになってきて新しいものが出現してきた事の証しでもあるといえる。
話題は飛躍するが、現代の食事情を兼好ばりに考察すると如何なことに相成るであろうか。食べ物が和風・洋風と多種多様にわたり豊富になることはいいことであるが、斬新さが常識を飛び越えて奇抜や過激になり過ぎると批判や反動が起きるものである。ある調査で、戦後二十世紀のメイド・イン・ジャパンの最大の製品は即席めん(インスタントラーメン)だとの説があるが意外と真面目に肯定する向きもあって広く支持されているそうである。ちなみに、第二位はカラオケで、第三位はソニーの開発したヘッドホンステレオ(ウォークマン)という結果が出たとのことである。どれも海外に輸出されて各国で支持されている品々である。
特に即席めんが世に出たときは賛否両論で、反対する側には食べ物ではないとの酷評も出たほどである。京都のある著名な老舗の料理家は「あんなもの食い物じゃないよ。食いたいと思わないね」と極めて悪し様にテレビで言ったのを覚えている。しかし、伝統的な和を重んじる料理家の反対の叫びにも拘らず、即席めんは確実に地歩を着々と固め、やがて絶大なる支持を得て国民食といわれるまでに成長をしている。
即席めんは、安藤百福氏によって開発された。昭和58年に発売されてから高度経済成長の波にも乗って、残業や受験勉強の夜食、単身赴任者、母親の社会進出よるカギっ子向け、登山やレジャーのお供に需要は急増して時代にマッチした手軽な食べ物と歓迎された。国際的にも広がりを見せ、平成17年度(2005年)のデータでは、世界の44国・地域で消費された即席めんの数は857億食(半数は中国・香港)で、日本からの輸出は8700万食及んでいるとのことである。(世界ラーメン協会)また、国内での総生産は54.4億食で、日本人一人当たりの消費は42.4食になる。(平成17年度、日本即席食品工業協会) 平均で一人42.4食であるから好きな人ならきっと毎日でも食べる人もいる勘定であろう。日本のラーメン狂騒曲は尋常ではないことを物語っている。
即席めんの生みの親である安藤百福氏は日清食品を創業し即席めんの更なる開発および普及に心を砕き、平成19年1月5日に会長職のままで亡くなった。享年96才である。即席めんに殉じ、戦後の闇市からスタートして食を通して昭和の時代に彩りを添えた生涯であった。もって瞑すべしである。 日本の即席的な食の変化はラーメンだけにとどまらず、その他の食べ物にも波及していった。宇宙食に象徴されるように湯を注ぐだけで食べられる食品は多岐にわたりほとんどの食べ物が可能になった。スープ類などは正にその典型である。
回転寿司も日本食の革命として名をとどめる出来事であろう。これも出現した当初は、衝撃的で喧喧諤諤(けんけんがくがく)の騒動で、特に寿司職人のアレルギー反応は激しかった。反対の理由は一言で突き詰めれば、「あれは寿司あらず」であった。機械がにぎって、不味くて別の範疇の食べ物であると言うのが理由であった。しかし、回転寿司側の挑戦も続く。機械の改良と味の改善をし、清潔感と値段の透明性を高めて、おいしさと廉価を目指した。庶民ではなかなか味わえない高級なネタも容易に味わえるようになり、サラリーマンやファミリー、若者などを中心にどんどんと浸透していった。そればかりではなく、日本食ブームに乗り欧米などの海外で回転寿司が意外と受け入れられ好評であった。今では、回転寿司もすっかり市民権を得て定着して全国的に或いは国際的に広がりを見せて、伝統のにぎり寿司とは違った世界を構築している。
兼好の鎌倉での鰹料理の話から始まって現代の新しい食べ物・食べ方の出現をほんの一寸垣間見たが、現在では即席めんも回転寿司も最早驚くことではなくゴク普通のこととして受け入れられていている。むしろこれからどんな新しい食べ物が出現して、人々がどんな好奇心で接するか否かが興味のあるところである。今も若者や女性が推進役となってトレンドな食べ物、奇抜な食べ物を次々開発して世上を賑わしているが、確たる国民的な支持を得るまでには至っていないが、挑戦は絶えることなく続いている。今後、百年後、二百年後の日本人はどんな新しい食べ物を口にしているのか、伝統をさして重んじない国民性のなせる技で兼好的な驚愕やショックがあるのか興味のあるところである。時代は絶えず変わって行くものであり、兼好が批判したような末法的な社会現象は招来するのか否か、ひとへにわれわれ自身かかっていることである。
■参考文献
鰹節 宮下章著 法政大学出版局
「徒然草の歴史学」 五味文彦著 朝日選書
■データー
世界ラーメン協会【IRMA】、日本即席食品工業協会
最終更新:2007年05月01日 13:57