標題の和歌は、兼好が「修学院といふところにこもり侍しころ」という題のもとに四首詠っている内の一首である。兼好法師家集の五十五番目に、また「続千載和歌集」にも採られている。歌の意は、「どのようにして気をまぎらしているのかと、世の中を捨てないで過ごしている人に尋ねたいものだ」世俗であくせく暮らしている人に悩みなぞはなく心の安らぎはあるのかと聞いて見たい心境に駆られる…という気持を吐露したもの。前書きの修学院にこもるとあるから、隠遁生活初期の頃を詠んだ歌で、出家の覚悟がしっかりと固まらないからか、世俗ことが気になるのかしきりと出家と世俗の対比を詠っている。修学院は比叡山の西南の麓に位置して、叡山三千坊の一つで修行道場の場。他の三首の歌にも出家初期の気持が詠われている。これからの修行よりも現世の未練・不安などを覗かせている。家集五十二番「のがれても柴の仮庵のかりの世にいまいくほどかのどけかるべき」(意は、遁世してこのような粗末な庵に住んでも、はかない仮のこの世を、これから先どれほどのどかに過ごすことであろうか。)同じく五十三番「のがれこし身にぞ知らるヽ憂き世にも心にもののかなふためしは」(意は、出家の身になってはじめてわかったことだが、憂き世にも物事が思いどおりになることもあることが)という具合に、絶対の覚悟で憂き世を捨てたのではなく、未練たっぷりの思いを吐き出している。

それと云うのも、彼は十九才で後二条天皇の蔵人として希望に燃えて出仕したことであろうが、僅か七年後の二十六才のときに後二条天皇が二十四才の若さで崩御されてしまった。兼好はこれから官途の道で羽ばたこうとしていた矢先に頼みの綱の天皇が亡くなられて失意の底を味わったに違いない。天皇の死は彼個人にも、国政にも少なからず波紋を呼び起こし互いの運命を変えたと言っても過言ではないのではないか。国のほうでは後二条天皇の崩御で冷遇されていた尊治親王(後醍醐天皇)が大覚寺統派の皇位継承レースのエースとして急遽引っぱり出され、天皇即位の実現に道がひらかれる。一方の兼好は官途の道は閉ざされ隠遁生活の道を歩むことを余儀なくされた。出家の真意はわからないが(失恋説もある)、恐らくこれから官界を足場に(25歳ころ関東にも下向?)羽ばたこうとしていた矢先に、若い兼好には天皇の死は大きな打撃であったに違いない。勤勉で歌の才能もあり、頭脳も明敏で、前途洋々の将来をイメージしていただろうに、一転して有力な後ろ楯を失ったためにさして高くもない家格の生まれの兼好は己が才能一つで世俗の荒波を乗り越えていかねばならないことになる。また出家の時期も何時頃かはっきりしないが、修学院に篭ったのが三十三才ごろとされ、また三十一才ごろ田地の購入したときの宛名が「兼好御坊」と書かれており、既にそれ以前に出家したことが推定することができる。従って、二十六才以降三十一才前に出家したのであろう。恐らく心の整理や世俗の整理がついたところでの出家であろうから後二条天皇の崩御からあまり日数を経てないのではないかと思われる。しかし出家しても修行にどっぷり浸かるのではなく、貴族生活や文化に対して未練たっぷりであった。これは恐らく終生変わることのない生活スタイルだったであろう。これが徒然草を生み出す下地にもなっている。兎に角歌には精をだした。生きるための活路であったから。大覚寺統と二条派との結びつきが縁で、兼好も自然と二条為世の門下に属して頭角を現わし歌人として活躍するようになる。後に、浄弁・頓阿・慶運らとともに二条派の四天王の一人と称されるまでになる。歌会を通して都での貴族・顕紳との交流の輪を広げて行ったに違いない。

しかし、歌壇といえども決して優雅な世界ではなく権力闘争と抜き差しならぬ関係にあった。朝廷は、持明院統と大覚寺統の両統迭立の時代であった。持明院統には京極為兼の京極派がつき、大覚寺統には二条派がつき、兼好の師たる二条為世が指南していた。天皇が交代する度に歌壇の様相もがらりと変わる有様であった。勅撰集に自分の歌が載ることは大変名誉なことであったが、両統迭立の対立が激化してくると、勅撰集への歌の採用の在り方にも極端な偏頗が見られるようになる。例えば、「玉葉和歌集」は伏見院の子・花園天皇の代の応長元年(1311年)に京極為兼に院宣が下り、翌正和元年(1312年)に奏覧に供した。為兼の個性が存分に発揮できた勅撰集で、二千八百首の中、伏見院の九十三首を筆頭に藤原定家が六十九首、西園寺実兼が六十二首、京極為兼の姉・為子の六十首、為兼本人の三十六首などが収められており、それと対照的なのは二条派の為世の十首、子の為藤が五首という極端な少なさ。両統迭立の対立の構図が勅撰集にもはっきりと打ち出されている。当然、歌壇の本家を自認している二条派の為世は玉葉集を非難攻撃した。曰く、題名がよろしくない、曰く、作者、作品の選び方がでたらめだ、などなど悪口に近い批判を盛んにした。時勢が変わり、後醍醐天皇が即位して大覚寺統の御世になると、二条為世が天皇の父たる後宇多上皇から勅撰和歌集撰進の命を受けて、「続千載和歌集」を編した。これは玉葉集と打って変わって二条派偏重の選び方をしている。後宇多上皇は五十二首、西園寺実兼が五十一首、二条為世の父・為氏が四十二首、為世自身が三十六首といった具合で、京極為兼や姉の為子の作品は一首も採らなかった。まるで意趣返しのような措置である。京極派のみならず、冷泉派も冷遇している。ただ、西園寺実兼はどちらの勅撰集にもかなりの数の歌が収められているが、彼は関東申次という別次元の権力者で、鎌倉の威光を背負って京の政界では一目置かれた存在だったからである。事実京極為兼は後に一族を率いて南都での派手な振る舞いがたたり、実兼の不興を買って土佐に流されてしまっている。彼に睨まれては京の政界では生きていけないのである。勅撰集のいずれの選者も実兼には特別の配慮をしなければならない。現今、詩のボクシングという番組があったが、勅撰集編纂を挟んでの二条派対京極派の確執は朝廷の両統の対立を背景に詩のボクシング以上に熾烈を極めていたのである。朝廷を頂点としてそれを取り巻く貴族たち、さらにそれに連なる歌人たちも巻き込んで京都全体が対立する渦の中で情況を見ながら兼好も身を処していかねばならなかった。続千載和歌集に兼好の歌も一首載ったことは初めにも述べた通りである。これも両統迭立のあおりかも知れない。

兼好の生涯は折々に詠った和歌からおぼろげながら推察できるところもある。隠遁生活に入ったのも歌から窺えるし、鎌倉に下向したのも歌から知ることができる。例えば、家集七十三番に

「東にて、宿のあたりより富士の山のいと近う見ゆれば」

都にておもひやられし富士の嶺(ね)を軒端(のきば)の岳(おか)にいでてみるかな

(都であれこれ思いめぐらし想像していた富士の山を、今は宿の軒端近くの丘に出て見ることよ。実際に見る富士の山の素晴らしいことよ。)

初めて関東下向した際の歌とされている。その他にも東国下向関連の歌はある。家集七十六番に

「武蔵の国金沢といふところに、むかし住みにし家のいたう
荒れたるにとまりて、月あかき夜」

ふるさとの浅茅(あさぢ)が庭の露のうへに床はくさ葉とやどる月かな

(かつて住んだ家の庭の、生い茂った浅茅の葉に置く露の上に、わが寝床はこの草葉だと月が宿っていることよ。家は荒れても、月は相変わらず庭の浅茅の葉に宿っていることよ。)

武蔵の金沢には、称名寺や金沢文庫があり若いときしばらく住んだ経験がある。その時の感懐であろう。

和歌であるから、男女にまつわる歌も結構詠んでいる。家集の八十九番、

空にたつ名のみのこりてうき雲のあとなきものは契りなりけり

(根拠もなく立つ空しい噂ばかりが残って、浮雲のようにやがて跡かたなく消えてしまうものは男女の縁だと思われます。)

とか、さらに家集の四十八番に、

「つらくなりゆく人に」
いまさらにかはる契りと思うまではかなく人を頼みけるかな

(いまになって二人の仲が変わったと思うまでに、わたくしはいままであなたのことをはかなくもたよりにしていたことよ。じぶんは本気であなたのことを思っていたのに、今になって相手の心変わり気付いた悔いを残念と吐露している。)

男女の仲が旨く行かず、出家の一因にも目された兼好の失恋である。

「手枕の兼好」と後年異名をとった歌がある。

手枕の野辺のはつ霜さゆる夜の寝てのあさけにのこる月かげ

(初霜がつめたく冴える夜、野辺に手枕をして寝た明け方の空に、月が寒々と残っていることよ。)

百三十七番にも「月やどる露の手枕夢さめておくての山田あきかぜぞふく」というのがある。東山の里に遁世した後に詠んだもので、西行を意識して詠んだ歌であろうか。修行一途とばかり言えないことが窺える。有名にもなりたかったのであろう。

「薄暮帰雁」

 ゆきくるヽ雲路(くもじ)のすゑに宿なくは都にかへれ春のかりがね

(北へ帰る途中、行き暮れた雲路のはてに宿がなかったならば、また都に帰っておいで、雁の帰っていくのが惜しい。)

帰雁に寄せる惜別の情を詠ったもの。この歌に関連して、次のような評価がある。参考までに書くと「其比(貞和のころ)は頓慶兼三人いづれもいづれも上手といはれし也。…兼好は此中にちとおとりたるやうに人も存ぜしやらん。されど人の口にある歌ども多く侍るなり。都にかへれ春のかり金、此歌は頓も慶もほめ申き」(近来風体抄)とある。頓阿・慶運・兼好の三人の中で兼好はちと劣るが、それでも人の口にのぼる歌も結構あるという評価である。本歌どりが全盛のこの時代に兼好の歌が劣るとは、現代の目から見ればそれこそちと解せないものがある。貞和の年代は兼好六十才台のころであり、そろそろ晩年に近い年令である。

また、二条派の歌人として朝廷とのつながりを示す歌として家集百四番の歌が象徴的である、

「後宇多院よりよめる歌ども召され侍けるに、たてまつるとて
僧正道我に申つかはし侍ける」

人しれずくちはてぬべき言の葉のあまつ空まで風にちるらむ

(誰にも知らず空しく朽ち果ててしまうはずのこのわたくしの和歌が、院の御目にふれるのはどういうわけなのでしょう。夢のようで信じられません。)

兼好の望外の喜びが伝わってくる。兼好の歌が初めて勅撰作者に擬せられたときの歌で(標題の歌)、彼の心の弾む様子が窺われる。二条派の威光をバックに京の歌壇の仲間入りしたことを認める快挙であった。三十八才であった。また春宮の邦良親王(後二条天皇の子)のサロンに出入りして都の貴顕との交流を深めている。百八番の作品、

「正中二年、春宮より歌合の歌めされ侍りしに、山路花、
稀遭恋」

けふも又ゆくての花にやすらひぬ山わけごろも袖にほふまで

(日々桜の咲く山路を分けながら旅をつづけてきて、今日もまた行く手に花を見ながら休んだことだ。旅の衣の袖に花の香が移って匂うまでに。春宮が早く天皇になる日までお待ちしております。)

だが、兼好の願いも空しく春宮は翌年二十才の若さで薨去してしまう。父君の後二条天皇に次いで兼好は再び挫折を味わってしまったというところであろうか。時に四十四才であった。

歌壇の外では時代が大きく旋回し始めていた。鎌倉幕府が倒れたのである。巨木が朽ちるように百五十年の矛盾が溜まりに溜まって、遂に崩壊したのである。波乱万丈の夢を叶えて晴れての日本国の支配者となった後醍醐天皇を寿ぐ歌会が二条派をあげて朝廷で行われた。建武二年(1335年)のことである。兼好が課せられた歌七首のうち二首を記す。 

「建武二年、内裏にて千首歌講ぜられしに、題をたまはりて
詠みてたてまつりし七首」(その内の二首、家集百七十番と百七十六番)
「春殖物」

久方の雲居のどかにいづる日のひかりににほふ山ざくらかな

(大空にのどかにさしのぼる日の光をうけ、照り映える山桜の美しさよ。後醍醐天皇の御代の偉大さを最大限に詠いあげた。)

続いて家集百七十六番を披露する。

「雑地儀」

芹川の千代のふるみちすなほなるむかしの跡はいまやみゆらん

(芹川の千代の古道をの跡をたずねて、いまや正しい昔の政治が行われることであろう。かつての嵯峨上皇の行幸の復活を祝うがごとく、後醍醐天皇の建武の新政を寿ぐ。)

建武二年(1335年)、二条為定主導のもと作者三十余名で、その中に兼好・頓阿・浄弁らどこの寺院にも属さない法体の歌人も加わって、盛大に和歌をよみあげられた。華やかな歌会に比して作品そのものの評価は如何なものであったろうか。必ずしも兼好の代表作とは言いがたいのではないか。また、寿ぐ歌とは裏腹に現実の政局も厳しいものがあった。ほどなく後醍醐天皇は尊氏との争いに敗れ去り、建武三年には吉野の山奥に遷都──つまり逃れて南朝を建てる有様であった。長年の辛酸労苦に比べて極めて短命の政権であった。そうして京都に戻ることを切望しながら、延元四年(1339年)に吉野の地にて崩御する。享年五十二才である。波瀾万丈の一生であった。一方、天皇晩年の歌に次のようなのがある。


「こととはむ人さへまれに成りにけり 我が世のすゑの程ぞしらるる」

あの不撓不屈で剛毅な天皇の歌とは到底思えない、弱気な一面をさらけ出した歌である。健康を害したことが影響しているのだろうか。天皇としては稀有な戦う「主上」を貫き通した姿の裏面でもある。

和歌は朝廷の栄えと共にあった。兼好の華やぎも恐らく建武二年の歌会が頂点であったろう。尊氏が幕府を開き(1336年)、続いて征夷大将軍(1338年)になってからは、都での武士たちの跳梁跋扈が始まり、貴族文化に寄り添って生きてきた兼好のような文化人は没落し生活の手段を身につけていた教養を切り売りして食べていかねばならなかった。本来ならば最も忌み嫌う粗野な成り上がり者の武士に有職故実を教えて生活の糧としたのである。兼好は尊氏の執事・高師直に有職故実をもって仕え礼儀作法や文章などを教えたり、代筆したりして役立てたのである。正に彼もとことん鎌倉末期からの動乱期を生き抜いてきた人生であった。兼好が四天王の一人頓阿に送った歌に次のような歌がある。

「夜も涼し寝覚の仮庵(かりほ)手枕も真袖(まそで)も秋にへだてなき風」

(夜も涼しくなって夜半に目が覚めると、庵で手枕していた私の腕に秋の風が容赦なく当たることよ。)

という意であるが、歌にからくりがあって「よねたまへ(米給へ)」と「せにも欲し(銭も欲し)」を上からと下からと五七五七七の句に織り込んでいるとされている。半分冗談の半分切実の歌であると受け止めることができる。生活が窮乏して何とかやり繰りをして生計を立てているのが透けて見える。

没年は正確なところはわからないが七十才を少し過ぎたくらいで死んだと推測されている。生前頼みとする人の死に二度も見舞われながら、また時代の大変動にも屈せず「徒然草」というかけがえのない貴重な遺産を残こしてくれたことに対して、後世の我々は深く感謝をして以って瞑すべしである。

(了)

参考文献

中世和歌集 室町篇 兼好法師集 校注 荒木 尚 岩波書店刊
「徒然草」の歴史学  五味文彦  朝日新聞社刊
徒然草を解く  山極圭司  吉川弘文館刊
太平記の群像  森 茂暁  角川書店刊
最終更新:2008年09月07日 01:55