人の才能は、文あきらかにして、聖の教を知れるを第一とす。次には手書く事、むねとする事はなくとも、是を習ふべし。学問に便あらんためなり。次に医術を習ふべし。身を養ひ、人を助け、忠孝のつとめも、医にあらずはあるべからず。次に、弓射、馬に乗る事、六芸に出せり。必ずこれをうかがふべし。文・武・医の道、誠に欠けてはあるべからず。これを学ばんをば、いたづらなる人といふべからず。次に、食は人の天なり。よく味を調へ知れる人、大きなる徳とすべし。次に細工、万に要多し。
この外の事ども、多能は君子の恥づる処なり。詩歌にたくみに、糸竹に妙なるは幽玄の道、君臣これを重くすといへども、今の世にはこれをもちて世を治むる事、漸くおろかなるに似たり。金(こがね)はすぐれたれども、鉄(くろがね)の益多きにしかざるがごとし。
口語訳 人間の才能や知識は、経書(四書五経つまり儒教の大學・中庸・論語・孟子と易経・書経・詩経・春秋・礼記の称)などに通じていて、聖人の教えを知っているのを第一とする。次に字を書くことが大切で、専門にすることはなくても、これを習うがよい。文字を習うことで学問につながろうがためである。次に医術を習うがよい。わが身を養生して、人を助け、忠孝にいそしむのも、医術を知らなくては果たすことができない。次に弓を射、馬に乗ることで、これらは六芸の中に数えられている。必ずこれらをたしなむがよい。以上の文・武・医の道は、ほんとうに、どれ一つ欠けてもすまされるはずのないものである。これらを学ぶような人を、無用なことをする人と言うべきではない。次に食物は人間にとって、天のように、最もたいせつなものである。上手に調味することを心得ている人は、大きな長所があるとすべきである。次に手細工は、いろいろなことに役立つことが多い。
これらのほかのさまざまな末技に多能であるということは、君子として恥ずかしいところである。詩歌を作るに巧みで、管弦の楽にすぐれているのは、深遠玄妙な道で、君も臣もこれらを重要視するけれども、今のような時代では、これらでもって世を治めるのは、しだいにおろかなことになってきたようにみえる。金は上等なものであるけれども、鉄の実益が多いのに及ばないようなものである。
この段は、兼好がこれまでにどっぷり漬かってきた貴族社会の伝統に懐疑の眼を向けた興味ある一文として注目してみたい。徒然草でも既に語ってきたように、曰く、「ただひとり、灯火のもとに書物をひろげて、見も知らぬ昔の人を友とすることこそ、何にもまして、心慰むわざである。」(十三段)として、書物に「文選・白氏文集・老子・荘子・わが国の博士たちの書いたもの」などの書物をあげたり、「和歌こそは、何といってもやはり趣の深いものである。身分の低い、賤しい者や山の木こりなどのすることも、歌に言いあらわしてしまえば趣があり、恐ろしげな猪も、『ふす猪の床』と言えば、優雅になってしまうものだ。」(十四段)として和歌を礼賛したり、「神楽というものは何といっても優雅なもので、また興趣のあるものである。」(十六段)として楽器の笛・琵琶・和琴などの音を聞きたいものだとしている。更に、「諒闇の年ほど感慨の深いことはあるまい。」(二十八段)として、朝廷の喪に服する期間でさえも、通常とは異なって特別な雰囲気の厳粛さが感ぜられて、感慨深いものだとしている。更に、「雪が趣きのあるさまに降っていた朝、ある人のもとへ、言ってやらねばならぬ用事があって、手紙をやるというのに、雪のことをひとことも言ってやらなかった、その返事に、『この雪を、どんな気持で見ているのかと、一筆もお書きにならないほどの、心のひねくれているようなお方の仰せになることを、どうしてお聞き入れすることができましょうか。かさねがさね、なさけない御心です』と書いてあったのは、実におもしろいことであった。」(三十一段)として、今は亡き人なので、これほどのことも忘れがたい思い出あるとしている。貴族社会に生きる双方の美意識が雪を介して火花を散らしている一文であると言えよう。このように徒然草の前半には、宮廷や貴族社会の思い出につながるような内容が随所に述べられていて、貴族社会の伝統を憧憬する強い思いが発散されている。正に貴族文化の原点たるべき幽玄の道を賛歌している。しかし、この百二十二段になると貴族社会賛美のトーンが一転してがくんと下がるのである。見事までにである。
百二十二段では書いている。先ず前半では、従来通りの持論である四書五経などの書物に精通して、また文字を習い、医術を習い、養生して、人を助け、忠孝にもいそしむ。弓や馬術もならって文・武・医の道は不可欠のものであるとしている。貴族としてのたしなみなのである。詩歌を作るのに巧みで、管弦の楽にすぐれているのは、深遠玄妙な道で、君臣ともにこれらを重要視するけれども、今のような時代では、これらでもって世を治めるのは、しだいにおろかなことになってきたようにみえる。金は上等なものであるけれども、鉄(刀や槍などの武器)の実益が多いのに遠く及ばないようなものである。
いつの頃かさだかではないが、おそらく鎌倉幕府が倒れて、次は後醍醐天皇と足利尊氏の対立が顕在化して武家側がいっそう鮮明に貴族側を圧倒しだした情況をみつめての感慨ではなかろうか。雅の貴族時代の支配の終焉をかぎとったからであろう。それまでの鎌倉と京都の二極支配(秩序)が崩れて、武による一極支配がより明確になってきたからであろう。
太平記では、後醍醐天皇は念願のというか宿願の打倒鎌倉を果たして(1333年)、京都に還幸したものの、即席の寄り合い所帯の悲しさか早速にひび割れが生じてくる。それは天皇の皇子・護良親王の処遇にについて深刻に現れてくる。護良親王は出家し天台宗宗門に入り、法名を尊雲といった。尊雲は天皇の意向により天台座主として山門の僧兵をある程度組織化して倒幕運動に尽力した。後醍醐天皇が隠岐に流されて、倒幕運動が頓挫しかけたときも、河内の楠木正成や播磨の赤松円心らの力をかりて、倒幕の旗じるしはおろさなかった。尊雲座主は天皇が隠岐に流されたのを機に、還俗して再び護良親王となり、天皇の命令伝達たる令旨を親王の名により多く発給して、反幕府分子を倒幕勢力に転化させ、結集させるのに大いに役立った。親王は後醍醐天皇が捕らわれて隠岐より出雲に脱出するまでのおよそ一年間、倒幕諸勢力のエネルギーを高め・持続させて時間稼ぎをするのに計りしれない功労があった。天皇気取りで令旨を乱発気味で発給したとの評判もあるが、親王の突出がなければ各地での倒幕気運はしぼんでしまったかもしれなかった。倒幕の最大功労者の一人に十分数えられてよかった。しかし乱世のこの時期、さまざまな形での倒幕の功労者はたくさんいた。中でも抜きんでいたのは先の親王と足利尊氏(高氏)であろう。片や武門の実力者であり、片や天皇の皇子で公家方の代表であり、両者の利害は全く相容れなかった。親王は政権の中枢の側に居ていろいろなものが見え、自分の思い描く政権構想とは違った流れになっていく情況に焦りを深め、尊氏との対決は時間の問題であった。
元弘三年(1333)に鎌倉幕府を倒して後醍醐天皇が強力な中央集権をめざして晴の建武の新政がスタートしたが、先ず論功行賞をめぐってつまずいてしまった。露骨な分捕り合戦に終始したのである。公家一統の天下とはいえ全国規模での組織をどう立て直すかとの視点はぼやけ己の利害に走り回った。旧北条の広大な領地は、北条高時の分は天皇がとり、高時の弟泰家の分は護良親王がとり、北条一族の分は寵姫阿野廉子に、という具合に、大部分は天皇近辺で独占の状態であった。側近たちも多くの領地を分け与えられて有頂天になっていた。天皇は公家や僧に手厚い沙汰をした反面、武士には概して冷淡であった。尊氏の武蔵・相模・伊豆の知行国の任命、新田義貞の越後守となって、播磨・上野介の兼任、楠木正成の河内守の任命が例外的に武士の処遇として特筆されるぐらいである。特に、赤松円心も倒幕の功労者ではあるが、恩賞に与るどころか逆に根拠地の播磨の守護職を奪われて、佐用荘一か所を与えられたに過ぎなかった。大方の理解の苦しむ沙汰の与えかたであった。土地の分け前の不公平感が地方の武士たちに広がり、その分武家の実力者・足利尊氏に期待を寄せる声が日に日に高まっていった。共通の敵である北条氏が倒れると、内包していた矛盾が浮き彫りになり、新たな対立・抗争が生まれてくる。それに恩賞の与え方が極端な不公平さで対立が深刻化していった。そのあたりを太平記によれば、兵武卿(護良)親王は、「天下の乱向ふ程は、力無く(やむなく)その身の難を遁れんために御法体を変えらるるといへども、四海すでに静謐せば、元の如く三千貫長(天台座主)の位に復し、仏法・王法の紹隆いたしたまはんこそ、仏意にも叶ひ、叡慮にも違はせたまふまじかりしを、征夷将軍の位に備はり天下の武道を守るべしとて、すなはち勅許を申されしかば、聖慮(天皇)穏やかならざりしかども、(親王の)御望みにまかせ、つひに征夷将軍の宣旨を下さる。」そうして、親王は四海の依頼として征夷将軍の位にふさわしい慎重な振る舞いをするべきなのに、どいうわけか心は奢り極め、世の謗りを忘れて淫楽をのみ事として耽られたので、天下の人皆再び天下が乱れるであろうと危ぶんだ。親王の周辺には強弓を射る者、大太刀を使う者が大した功績がなくとも目をかけられ使われるようになった。毎夜京や郊外に出没して辻斬りをしかけて、路上で行き交う幼い男児や女児がここかしこに切り倒され、斬殺される者が絶えなかった。これも尊氏を討たんがための武技をみがく振る舞いであるとしていた。何とも無謀な動機であった。と同時に尊氏に親王追い落としの立派な口実を与えるようなものであった。親王が尊氏に対して深く意趣返しのような行動をとるようになったそもそもの根元は、去年五月の六波羅を攻め落としたみぎりに、親王側の殿法印(関白二条良実の孫・良忠)の家来たちが京中の土蔵を打ち破って、財宝を略奪して乱暴狼藉を働いているのを取り締まるために、尊氏側の兵がこれを召し捕って、二十人余りを六条河原で切って首を晒す措置に出た。そうして、高札に「大塔宮(親王)の候人(僧)、殿法印良忠が手の者ども、在々所々において、昼強盗をいたすあひだ、誅するところなり」と実名いりで書いて掲げた。面目を失った殿法印は、さまざまな讒言を大将である親王に訴え出た。親王もそれに同調して前々から尊氏を討とうと思っていた矢先で、密やかに諸国に令旨を撒いて兵を募った。
尊氏もこのことを察知して、内々准后の阿野廉子と連絡を取り合って、彼女を通して「兵部卿親王、帝位を奪ひたてまつらんために、諸国の兵を召し候ふなり。その証拠分明(明らか)に候ふ」とて、兵部卿が国々へ下されたところの令旨を取って、帝にお見せ申しあげて讒言したのである。帝は大層お怒りになって、この宮を流罪に処せよと命じ、清涼殿での和歌・管弦の御遊会に事寄せて大塔宮(親王)を呼び寄せたのである。まさか父帝から裏切られるとは夢にも思わぬ宮は十数人の僅かな共廻りで、忍びやかに御参内したところ、待ち受けていた結城親光、名和長年らにより勅命によって取り押さえられて、馬場殿の中に押し込められてしまった。無実の弁明の手紙を書くにも、(廉子のか)後難を恐れて帝に取り次ぐものは誰もいなかった。「龍駕(帝)まさに都に還り、鳳暦(天皇の治世)永く天に則ること、おそらくは微臣(親王)が忠功にあらずんばそれたれとかせんや」と宮の功績無くば今の天皇の座はないのだとばかりに血の吐くような思いで強調すれども空しく、忠義を致して賞を待つ宮の身内の候人三十余人も密かに処罰され消されてしまった。帝の少々の怒りを最大限に利用して、大塔宮に対立する勢力・尊氏はじめ阿野廉子らが結託して可能な限りの罰をくだしたのである。大塔宮は尊氏の弟・直義に託されて鎌倉送りとなるのであるが、これによって宮の命運は事実上決まったと言っても過言ではなかった。天皇は尊氏・阿野廉子の讒言を信じて、我が子たる大塔宮の忠誠心を踏みにじってしまった。天皇は尊氏の強大な武力や強力な人望を恐れていたのであろうか。
阿野廉子が同じ範疇に属する貴族の護良親王と手を組まないで敵対するはずの武家の尊氏と手を組んだのは何故なのだろうか。将来我が子の皇子を天皇に就けるためには護良親王が障害になると計算して尊氏と組んで、護良親王排斥に乗り出したとの観方がある。後の彼女の軌跡を辿れば例え縮小された南朝の世界とはいえ、吉野で南朝第二代目の天皇に即位したのは彼女所生の皇子義良親王であれば、あながち的外れの解釈でもないことは確かだ。しかし、別の目からすれば大きな過ちをしたといえる。護良親王の失脚は武家側には利することがあっても、公家方には利することは何もないからである。余りのにも狭窄な視野に立っての行動だったのである。折角苦労して復活した公家の政権を全国的な視野で再び構築するという理念はなかった。彼女にはある意味で北条政子のような政治的な役割を果たすことはできなかった。大きな利害より小さな利害にとらわれて、大塔宮を抹殺して公家側の力を大きく削いでしまった。建武の新政で阿野廉子が果たした役割で最大の功労は大塔宮(護良親王)を抹殺したことだとの指摘が皮肉ぽっく語られているが、これは皮肉でも何でもなく正解と言わざるを得ない。
兼好がこの段で語っている、「詩歌にたくみに、糸竹(管弦)に妙なるは幽玄(優雅で深遠)の道、君臣これを重くすといへども、今の世を治むる事、漸くおろかなるに似たり。金はすぐれたれども、鉄の益多きにしかざるがごとし」と、貴族の特権である詩歌管弦では武士の武器に敵う筈もないと喝破しているのだ。我が子をむざむざ敵である武家に手渡してもどうすることも出来なかったのだ。正に新しい南北朝時代の到来を予感しているのである。
参考文献
日本古典文学大系 太平記 岩波書店刊
太平記の群像 森 茂暁 角川書店刊
後醍醐天皇 森 茂暁 中央公論新社刊
最終更新:2008年07月07日 23:38