諒闇の年ばかりあわれなる事はあらじ
倚廬の御所のさまなど、板敷をさげ、葦の御簾をかけて、布の帽額(もかう)あらあらしく、御調度もおろそかに、皆人(みなひと)の装束、太刀・平緒まで、ことやうなるぞゆゆしき。
口語訳 天皇が父母の喪に服す諒闇の年ほど感慨深いことはないのではないか。天皇が服喪中にこもる仮御所の倚廬の有様など、床板を低く張り、粗末な葦の御簾をかけ、その御簾の飾りの帽額も粗末な木綿の布を用い、御道具類も質素で、廷臣たちそれぞれの装束から、つけている太刀や飾りの平緒にいたるまで、質素な色合いで正常と異なっているのは、いかにも諒闇中の雰囲気を醸し出していて、特別に厳粛さを感じることである。
兼好は、諒闇中の御所の様子をこまかく観察して、厳粛な雰囲気を伝えている。実際に体験しなければ描けない筆さばきである。そこで諒闇の主は誰であるかが問題となるが、兼好は自分の主人である後二条天皇を延慶元年(1308年)に亡くしているし、そのほか後深草・亀山・伏見法皇の死も見聞しているであろうが、この段の主は可能性としては後二条天皇の死も考えられるが、恐らく後醍醐天皇の母・談天門忠子の死を契機に書いたのではないかと推測される。後醍醐天皇が即位したのが文保二年(1318年)で、彼女も院号が宣下され、翌年元応元年(1319年)に五十二才で死去しているのである。徒然草の二十七段では後醍醐天皇践祚のときの、政権交代の際に起きる人情の移り変りの薄さについて描いており、二十八段では諒闇の厳粛さについて触れている。あたかも誕生と死に関する朝廷内の微妙な人間模様や厳粛な儀式を対として、人生の無常さを訴えたかったのではあるまいか。時間的なタイミングからいって、後醍醐天皇の即位と翌年の母の諒闇に関する儀式が兼好の目にはつながって捉えられ、筆にとどめたのではないかと思われる。それにしても、思うに母・談天門忠子は舅・亀山法皇の庇護を受けるという大胆な行動がなければ、後醍醐天皇誕生の芽は無かったかも知れないし、その後の天皇の鎌倉打倒という行動の凄まじいエネルギーの源泉も母から受け継いだ天与の健康な肉体に宿っていたかも知れない。現職天皇の母の諒闇に際して、夫たる後宇多院は表面的には喪に服して籠居した形にはなっていたが、実際には喪に服さず近辺に御所をなしてしていただけのことであったようである。「法皇御喪籠(おこもり)の儀にあらず。ただ近辺に御所なすなり」(花園天皇宸記)と、花園天皇が聞いたこととして注目すべき事を日記に記してある。(後醍醐天皇 森 茂暁著)
自分の皇妃が死んでも、院は心底から彼女を許せなかったようである。しかし、皮肉なことに後宇多院が忠子・親子と距離を置けば置くほど、院としては尊治を必要としてくる事態になってくるのである。期待をしていた長子後二条天皇始め、その系統にもあまり健康問題が優れず、ご存知後二条天皇は二十四才で早世してしまうし、その子の邦良親王にも何らかの健康に関する不安が生じていた。家格は低くとも、忠子出生の尊治は後宇多院の子孫の中では一番健康に勝れていた。だから後二条天皇急逝に際して、大覚寺統を受け継いで立太子の候補者は邦良親王(後宇多院の孫・三才)や恒明親王(亀山院の子・六才)と居ないわけでもなかったがいずれも一長一短で、喫緊の事態の受け皿としては健康で分別のある尊治が急浮上してきたのである。後宇多院の意向で一代限りの条件付きで、所領、寺院、文書等の一切を譲渡され大覚寺統の中心に据えられた。血統が物いう家格に拘る貴族社会の欠陥がはからずも露呈した結果である。後醍醐天皇も五十二才で亡くなっているから、平均的で格別長命というわけでもないが、後宇多院の子孫の中では早世するライバル達を圧倒する抜群の生命力を保持していたと言わねばならない。これも母・忠子から受け継いだ低い家格に勝る健康なDNAの遺伝子のお陰によるものである。
「とはずがたり」に描かれた世界の登場人物の人間模様、後深草院、亀山院、雪の曙(西園寺実兼)と愛人の二条との入り組んだ関係が物語通りに事実であるとすれば、亀山院が息子・後宇多院の皇妃と懇ろになっても、爛れた宮廷のモラルの尺度から言えばさして驚くことでないのかも知れない。そうして和歌を詠み、音楽を楽しみ、舞を演じ、蹴鞠を興じ、国は二度の蒙古襲来という大難に逢っているにも拘らず、あたかも宮廷は聖も俗も雅も併せ備えた妖気の漂う世界の如く別天地であった。そうして妖気の漂う壷の中からは魔法ではなく、強運と母の存在によって後醍醐天皇という巨大なモンスターが生まれるに至ったのである。祖父亀山院や父後宇多院の素志だけでは及ばない後醍醐天皇の健康体がライバル達の脱落によって皇胤継承レースを制したのである。偉大なる母の力・影響を思うべしである。
「増鏡」の秋のみ山には、談天門院の他界のことを事実だけを簡潔に述べている。
天皇の御母の女院(談天門院)は元応元年(1319年)十一月になくなられたので、天皇は御喪服を着用される。天下は一様に黒い喪服を着て、葦簾とかいう、不吉なものなどを掛け渡してあるのも、たいへん哀れ深く悲しく見える。五節の行事も停止になった。若い人々はそれを寂しく思ったのだった。と、淡々と述べている。彼女の死より、むしろ五節の舞が見られないのを残念がっている風にもとれないでもない様子である。
以上、徒然草・二十八段の諒闇の話から、後醍醐天皇の生母・談天門忠子の死についてあれこれ思いを広げた次第である。
参考文献
帝王後醍醐 村松 剛 中央公論新社
後醍醐天皇 森 茂暁 中央公論新社
増 鏡 井上 宗雄 講談社学術文庫
とはずがたり 日本の古典 小学館
最終更新:2006年12月05日 16:05