序段

つれづれなるままに、日くらし硯にむかいて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

口語訳 なすこともない所在のなさのままに、一日中机にむかって硯を摺って、心に浮かんでは消えてゆく、つまらないことを、とりとめもなく書きつけていると、我ながら何とも押さえようもなく変になり、もの狂おしい気持がすることではある。

作者は誰でも作品を書くに当たっては、文の冒頭には相当神経を使うものである。どんな書き出しにするのか、読者の心を掴むためには、いかに流麗な文章でもって興味のある内容を書き綴るのかに工夫を凝らす。徒然草も出だしには当然心を砕いたことであろう。しかし、序段の冒頭を飾る文章は彼の独創ではなく、王朝文学にはよく見られる文型スタイルで、彼も抵抗なく使用したものと考えられる。さまざまな作品があるが、例えば

「この草子は、目に見え心に思うことを、人やは見むとすると思ひて、つれづれなる里居のほど、書き集めたるに、……」(枕草子 三百二十一段)

「訳─この草子は、わたしに見え、またわたしの心に思うことを、よもや人が見ることはあるまいと思って、所在のない里住まいの間に、書き集めてあるのだが……」 (NHK教育セミナー 古典への招待 徒然草より)

同じく、

「つれづれなるもの 所さりたる物忌。馬おりぬ双六。徐目に司得ぬ人の家。雨うち降りたるは、ましてつれづれなり」(枕草子 百四十二段)

「訳─所在のないもの いつも住んでいる場所を避けてよそでする物忌み。さいころを振っても一向に駒が進まない双六。徐目(官の辞令)に任官しない人の家。雨が降っているのは、まして所在のないものだ」

更に

「つれづれなるままに、いろいろの紙を継ぎつつ手習いをしたまひ、めづらしきさまなる唐の綾などにさまざまの絵どもを書きすさびたまへる……」(源氏物語 須磨)


「訳─所在なさにさまざまの色の紙を継いではすさびにお書きになさったり、また珍しい地の唐の綾模様などにいろいろの絵を興にまかせてお書きになるが……」 (NHK教育セミナー 古典への招待 徒然草より)

など兼好は、王朝文学以降連綿と引き継がれているポピュラーな文型パターンでもって冒頭を飾り、今やつれづれなるままにと言えば徒然草を指す位の代名詞的な役割を果たすほどに名を高めるまでになっている。

これは、序段の結びの句─「あやしうこそものぐるほしけれ」があっての絶大なる効果だと思う。大方の解説書は、序段は原文の言葉とおりに訳して先を急ぐのが一般的であるが、ここは先ずは踏み止まりじっくりと吟味してもあながち無駄なこととはならないと思うので、いろいろと推量をして見ることにする。人間誰しも一日なり、半日なり机に向かいぱっなしの後には生理的に神経の緊張やら疲れで身体がもやもやして気が変になって、それを衝動的に発散するような気持で思いっきり背伸びをしながら奇声を発して畳の上に身を投げ出すことをまゝ経験するところであるが、徒然草を書くにあたって筆を持って机に向ったときの兼好の心境はいかばかりであったのであろうか。ただ単に生理的なものでしかなかったのであろうか。徒然草が成ったとも執筆を始めたとも言われているのが48才ごろと言われているので、西暦1330年あたりに相当し鎌倉幕府の晩期で、京都は後醍醐天皇の世に当たっていた。天皇の即位とともに社会は何故か騒然としてきて、各地の不満武士の蠢動が活発化してきて、きっかけさえあればいつでも倒幕の火が燃え上がる情況であった。騒然たる世の中で、彼の人生は決して平坦とは言えず挫折したり、俗世間の荒波に揉まれたりして、聖と俗の狭間を行き来してきた己の半生を振り返ったとき、─日暮れ、途(みち)遠し。吾が生(しょう)既に蹉跎たり─の心境ではなかったのではあるまいか。それが徒然草を書こうとしたときに知らずの内に湧き上がってきたときの狂わんばかりの感情でなかろうか。しかも、ありきたりの文型スタイルを踏襲しながら己の心理を極めて自然にわざとらしくなく吐露して読者と著者を一体化させているところに非凡な技を窺わせている。親しみ慣れた文型でもって深淵なる問題提起をさらりと示唆して、以後展開する多彩なる分野の話題に社会性や歴史性或いは文化を盛り込みながら説得力のある文章で読者の心を掴み、思わず徒然草の世界にのめり込んで行ってしまう。これが今までに長く人々に膾炙されて来た魅力ではいのか。

参考までに、徒然草と共に三大随筆とされている「枕草子」と「方丈記」の冒頭をそれぞれ読み比べて、時代の空気がそれぞれいかに反映されているかを僅かでも読み取ることができれば一興かと考える次第である。

<枕草子の冒頭>


1 春はあけぼの

春は、あけぼの。ようようしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。

夏は夜。月のころはさらなり、やみもなほ蛍飛びちがひたる。雨などの降るさへをかし。

秋は夕暮。夕日花やかにさして山ぎはいと近くなりたるに、烏のねどころへ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び行くさへあはれなり。まして雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆる、いとおかし。日入り果てて、風の音、虫の音など。

冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず。霜などのいと白く、またさらでもいと寒きに、火などいそぎおこして、すみ持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもて行けば、炭櫃、火桶の火も、白き灰がちになりぬるはわろし。

口語訳 春はあけぼのがよい。だんだん白んで行く山際が、少し明るくなって、朝焼けの紫がかった雲が細く横になびいているのがよい。

夏は何と言っても夜がいい。月のあるころはいうまでもないし、やみもやはり蛍が入り乱れて飛んでいるのはいい。雨などの降るのまで趣きがある。

秋は夕暮れがいい。夕日が華やかにさして山際にたいへん近くなっている時に、烏がねぐらへ行くというので、三羽四羽二羽など、飛んで行くのまでしみじみとした感じがする。まして雁などの列を作っているのが、たいへん小さく見えるのは、非常に趣きがあっておもしろい。日がすっかり落ちてしまって、風の音や虫の音などがするのもいいものだ。

冬は早朝がいい。雪が降っているのは、そのよさはいうまでもない。霜などがたいへん白く、またそうでなくてもたいへん寒い折りに、火など急いでおこして、炭火を持って廊下など通るのも、情景としてはたいへん似つかわしいことだ。昼になって、だんだん寒気がうすらいでゆるむ一方になってゆくと、いろりや火も、白い灰がちになってしまうのは何となく侘びしいものだ。

枕草子のほんの第一段だけであるが、先にも引用しているが、ご存知作者は清少納言で、彼女の仕えた主人中宮定子を中心とした宮廷生活の日常を核にして描き出した随筆である。時代は平安中期で十世紀末から十一世紀の初頭の頃にかけての主に朝廷を舞台にした出来事や話題を清少納言の目を通して綴られている。

中宮定子は関白藤原道隆の息女として一条天皇のもとに十四才で入内し、それに伴って清少納言が彼女に仕える形で宮廷に入るが、清少納言の宮仕えはほぼ八年ほどで、その間中宮定子の輝ける時期は初めのわずか一、二年だけで後楯である父の道隆の病没後、関白の座は伊周や隆家などの兄達ではなく叔父達の兼家や道長に奪われてからは定子の衰運も決定的なものになり、以後朝廷での光輝は復活することなく二十四才の短い生涯を閉じることになる。枕草子は中宮定子に大きく影響を及ぼした朝廷の政治的な争いには一切目も向けずに、清少納言が宮仕えの体験を通して中宮に対する明るく快い感動や賛美つまり「おかし」や「めでたし」などの語に代表される表現で作品全体のトーンを貫いている。定子の兄達と叔父達との政治的な暗闘、そうして政治的な敗北などは無縁のように明るい細やかな宮廷生活の世界を構築しているのである。しかし、水面下の語られない歴史的な暗い部分がどうあろうとも、宮廷を舞台にした別世界での藤原氏同族間の争いなのである。社会全体を揺るがすものではなかった。生々しい庶民感覚ではなく洗練された宮廷人の美意識に支えられた日常の生活が流麗に披露されている。この第一段について言えば四季折々の自然の特徴と季節の変化に合わせた生活振りを簡潔に細やかに、あたかも古今集の和歌の世界を散文調でリズミカルに奏でている様で、畢竟兼好の狂おしい心境とは全く縁のない優雅な王朝絵巻が繰り広げられている。今、時候挨拶の定番にもなっている。

平安時代の末期から鎌倉時代の草創にかけての時代の証言者の一人に鴨長明がいる。三大随筆の一つ方丈記は彼の著作である。その有名な方丈記の冒頭部分の一節は次の通りである。

方丈記〔一〕ゆく河


ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。たましきの都のうちに棟を並べ、甍を争へる高き賤しき人の住ひは、世々を経てつきせぬものならど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或いは去年焼けて、今年作れり。或は大家ほろびて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中にわづかにひとりふたりなり。朝に死に夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞにたりける。知らず、生まれて死ぬる人いづかたより来りて、いづかたへか去る。
…(略)…

口語訳 往く川は涸れることなく、いつも流れている。しかも、水はもとの水ではなく絶えず変っている。よどんだ所に浮かぶ水の泡も、あちらで消えたかと思うと、こちらにできていたりして、決していつまでもそのままではいない。世の中の人々を見ても、そのすみかである住居を見ても、やはり同じ有様である。玉敷きの壮麗な京の町に競いあって建っている貴賎の住居は、一見時代を経て永久になくならないもののようだけれども、ほんとうにそうかと一軒一軒確かめてみると、昔からある家というものは稀なものである。去年焼けて今年建てたものもあれば、大きな家が没落して小さくなったのもある。住んでいる人とて、これと同じことが言える。所は同じ京であり、人口も相変わらず大勢だが、昔会ったことのある人は、二、三十人のうち、僅かに一人か二人になっている。朝死ぬ人があるあるかと思えば、夕方に生まれる子もいるのが人生の習いである。まさに淀みに浮かぶ儚いうたかたとそっくりである。あゝ、私は知る由もない、こうして生まれたり死んだりする人がどこからきて、どこへ消え去ってゆくのかを。
…(略)…

これも時代の激動を目の当たりした歌人にして下級貴族の座に列していた鴨長明の感懐である。透徹したリアリストの眼で当時の社会を写し取った貴重な資料であると同時に彼の強い無常観に裏打ちされた世界が展開されている。永らく栄華を誇ってきた摂関家藤原氏の衰退、新興階級の武士の平家の台頭、続く源平の合戦、西海での平氏の滅亡、源頼朝による鎌倉幕府の成立など到来する武家政権の幕開け等々、目まぐるしく変転する時代を肌で実感し、現実の認識として無常観にとらわれて日野の里で方丈の庵を結んで書いたものある。正に平家物語的な世界を実際に体験して記した記録であるといえる。しかし、方丈記には華ばなしい武士の活躍の記事は一切ない。社会的には武士の地位は未だ認知されて居なかったからだろうか、或いは身分は低くとも貴族の一員だかろうか、彼の向く眼はあくまでも貴族社会のものであり下賎の世界は全く欠落している。方丈記には、都の大火(安元三年 1177年)、つむじ風、遷都、飢饉、大地震などの自然災害や社会災害について書かれ、次に祖母の遺産を継げなかったことや後鳥羽上皇に目を掛けられながら実らなかった官途への道など己の身辺のままにならぬ人生の蹉跌の顛末が語られて、遂には方丈の庵を結ぶに至った事の次第と心境が綴られて終わっている。時あたかも武士の世がスタートしようとしている政治的変化については触れようともせず、ひたすら己の帰属する世界にとどまって、その殻の中からの価値観でもって変転する社会を照射し無常観を嘆じている。しかし、そこにはいかに彼が社会災害や自然災害を己の眼で確かめて書いても、また己に降りかかる不運をいかに嘆いて見ても貴族の範疇から脱却し得ぬ彼の限界があるのは見てとれる。方丈の中で遁世して風体は清浄だが心は世俗の濁りに染まっていると自省の弁は出来てもおよそ狂にはなれなかったのではないか。兼好よりおよそ百五十年ほど前の一知識人の時代の観察であり認識でもあった。逆に、兼好の時代よりもおよそ七十年も経て書かれた太平記の冒頭には、いかに軍記物とは言え以下のような厳しく容赦のない言辞でもって時の権力者を批判している。

太平記 巻第一 序(はじめ)


蒙ひそかに古今の変化を採って安危の由来を見るに、覆って外無きは天の徳なり。名君これに体して国家を保つ。のせて棄つることの無きは地の道なり。良臣これにのつとって社稷を守る。もしそれその徳欠くるときは、位有りといへども久しからず。いはゆる夏の桀は南巣に走り、殷の紂は牧野に敗らる。その道違ふときは威有りといへども久しからず。かつて聴く趙高は咸陽に刑せられ、禄山は鳳翔に滅ぶ。ここを以って、前聖慎んで法を将来に垂るることをえたり。後昆顧みていましめを既往に取らざらんや。

口語訳 ひそかに古今よりの歴史の変化とは何か、戦争や平和はどのようにして齎らされるのかその原因をつらつら考えてみると、天がすべてを覆い尽くすように天の徳が行き渡り、大地がすべてをしっかりと受けとめて載せるように臣下が国を支えているときが理想の状態、つまり平和な時代といえるようだ。これに反して、君に徳が欠けていれば、位についていると雖も治世は長続きしない。かの中国における夏の桀王、殷の紂王がその例である。一方、臣下も道に外れた行いをすれば、いくら強くてもこれも永続きしない。かつてのこととして聴くが、中国の逆臣、趙高、安禄山にみるとおりである。昔の聖人はこの原理を後世にのために示してくれた。この歴史的教訓を我々もよく考えてみる必要があるのではないだろうか。

長編のほんの出だしだけであるが、儒教的倫理観をベースに中国の歴史的故事を引き合いに、よき治世とは何ぞや、君主の在りようとは、臣下の心構えとは何かを著者は直球勝負でストレートに訴えている。更に太平記の巻一の冒頭部分をもう少し続けることとする。

後醍醐天皇御治世の事 付けたり 武家繁昌の事

ここに本朝人皇の始め神武天皇より九十五代の帝、後醍醐天皇の御宇に当たって、武臣相模守平高時といふ者あり。この時、上君の徳に乖き、下臣の礼を失う。これより四海大いに乱れて、一日もいまだ安からず。狼煙天をかすめ、鯢波地動かすこと、今に至るまで四十余年、一人として春秋に富めることをえず。万民手足おく所無し。

……(中略)……

時政九代の後胤、前相模守平高時崇鑒が代に至りて、天地命を革むべき危機ここに顕れたり。つらつらいにしへを引きて今を見るに、行跡はなはだ軽くして人の嘲りを顧みず、正道正しからずして民の弊えを思はず。ただ日夜に逸遊を事として、前烈を地下にはづかしめ、朝暮に奇物を翫びて傾廃を生前に致さんとす。衛の懿公が鶴を乗せし楽しみ早尽き、秦の李斯が犬を牽きし恨み今に来たりなんとす。見る人眉ひそめ、聴く人唇ひるがえす。

……(中略)……

口語訳 さて本朝始めの神武天皇より数えて九十五代の帝、後醍醐天皇の時代に当たって鎌倉幕府の執権は相模守北条高時であったが、このとき、上たる天皇は君徳に背き下の臣下は臣としての礼に欠けるという状態だったので国中は大いに乱れ、一日として安穏な日がなくなってしまった。戦いの烽火は天日を蔽い、閧の声が大地をゆるがして、今にいたるまで四十余年、当事者誰一人として命を長らえて春秋を謳歌することができず、一般庶民も安心して手足をのばすところがないという有様が続いた。

……(中略)……

口語訳 ところが、北条時政の九代の子孫、高時入道崇鑒の時代になって、革命の兆しがここに近づいてきた。

つらつら昔のことを引き合いに今を比べて見ると、彼は軽率で人の嘲りをうけるようなことを平気でやり、しかも政道正しからず、人の困窮にも思い及ばず、遊びにふけって、祖先の名を汚すような行いを重ね、朝夕珍奇なものばかりを集めて喜び、まさに幕府の崩壊を招こうとしていたのである。衛の懿公が士大夫より鶴を寵愛して臣下から見放されて滅びたように、また秦の宰相李斯が宦官趙高の讒言により処刑されるときの犬にまつわる嘆きのエピソードのように闘犬を偏愛する高時にも終焉の時期が近づいている。この有様を見る人々は眉をひそめ、噂を伝え聞いた人はこれを非難するという具合で、危機は一歩一歩近づきつつあった。

……(中略)……

太平記には、表現において多少の誇張やら親政体制擁護の著者の立場があり、当時の情況は全く記述通りではないにせよ、大筋において大体鎌倉末期の政治的・社会的な雰囲気は伝えているのではなかろうか。そうして更に太平記を概略すると、こうした情況は一朝一夕でなったのではなく鎌倉幕府の草創からの大筋を説き起こし、頼朝、頼家、実朝と征夷大将軍が三代続き、血統が絶えて以後武家の実権が源氏より北条氏に移り、実朝の死後鳥羽上皇に依って惹き起こされた承久の乱の鎮圧により北条氏の権力は全国あまねく行き渡り、北条義時以後、泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時の七代の間は仁政を敷き、しかも身をわきまえて礼儀を守り続けたので政情は安定を保ち、盈ちて溢れずといった状態が続いた。しかし、一方が輝けば、他方は影が薄れるのは道理で、武家の権力は日に日に強力になり、朝廷の力は年々衰えていったのは止むを得ない時の流れであった。代々の天皇は、承久の乱の恨みを晴らし、朝廷の衰退を挽回すべく、なんとかして幕府を滅ぼそうとして執念を燃やし続けてきたのであるが、力及ばず、また機熟さずで欲求不満のまま動くにも動けずで時間だけが空しく流れて行く状態が続いた。

ところが北条高時の執権就任で、幕府を打倒して朝廷の積年の怨念を晴らすチャンスが漸く巡って来たのである。先にも述べたような数々の失政で崩壊の機運は全国に沸き上がって、政局は流動化しつつあった。しかも、一方の朝廷側は、後醍醐天皇の登場で─皇位に就いたのは三十一才(1318年)の気力横溢のときであった─京都の期待は高まり、帝は儒教の影響を受け、中国の賢人の道に従い、政務を疎かにせず、聖帝の誉れ高い延喜・天歴の帝(醍醐・村上)の治世に倣うようにされたので、天下はこぞってこれを歓迎した。しかし、後醍醐天皇は不安定な立場からか功を焦り過ぎていた。理念がけが先行し、肝心の武力が伴わないまま事を起こし、倒幕だけは一応成功したものの目標の改革は─親政の確立─利害の異なる烏合の衆の寄り合い所帯の為、建武の親政は忽ちにして瓦解してしまった。天朝両統(北朝・南朝)の正統争いに加えて、朝廷対武家の権力争いが複雑に絡み合って、倒幕後七十余年の長きにわたって日本を二分しての大騒乱の火付け役になってしまった観が帝にはある。そうして皮肉にも貴族階級の没落と武家の覇権の確立の後押し役となってしまったことだ。

兼好(1283?~1352年?)は、正に騒乱に突入していったその時代に生きていた人である。後醍醐天皇、足利尊氏という巨魁も北条高時も、高師直も、鎌倉幕府の崩壊も、その他もろもろ鎌倉末期から南北朝の初期にかけてのことは人も事件も何もかも目撃し見聞したであろう。狂乱怒涛の時代を肌に感じて体験していったであろう。貴族の文化を十分に吸って生きてきた彼にとって価値観が一夜にしてひっくり返るような激変を身をもって体験しているのである。変転絶え間ない不確定な世情にしかも頼るところとて無い兼好のような者にとっては、如何にこの世を渡って行くかが最大の関心事なのである。

「建武二年、内裏にて千首歌講ぜられしに、題をたまはりて詠みてたてまつりし七首」の内の一首

久方の雲居のどかにいづる日のひかりににほふ山ざくらかな

歌の大意は、大空にのどかにさしのぼる日の光をうけ、照り映える山桜の美しさよ…後醍醐天皇の栄えある御代をたたえた歌である。(新千載集の雑の部に入集)

かと思えば、足利尊氏の弟義直の発案による「宝積経要品」(言わば多くの死者のための鎮魂の歌)に所望されて五首献じている。当代の各界の名士の一人として名を連ねていたのである。その歌の一つ、

むさしのや雪ふりつもるみちにだにまよひのはてはありとこそきけ

歌の大意は、はるか武蔵野の地の降り積もる雪の下の道に迷いの果てはあると聞くが、人間の道には迷いの果てはあるのだろうか。迷いは果てしなく続くことよ。…と後醍醐天皇に激しく敵対した足利兄弟に協力している。

更には、このような歌の代作もしている。

「こよひと頼めけるおとこの、あらぬかたへまかりにければ、女のよませ侍し」

はかなくぞあだし契をたのむとてわがためならぬ暮を待ちける

歌の大意は、その場かぎりの口先だけの約束を当てにして、わたしの所へ来てくださるのではなかった夕暮れを空しく待ったことでした。…約束を破った男に贈る女の歌を、兼好がアルバイトで代作した歌。

二条為世門下の四天王の一人と目されていた兼好が時代には逆らえずお呼びが掛かればどんな注文にも応じていたという図式ではなかったのか。しかし、人口に膾炙した歌が多かったと言われているので、望むとも望まざるともいわゆる職業的な(?)当代の人気歌人とでもいった所だったのだろうか。

それにつけても自分が今まで生きてきたのは何だったのだろうか。激変する世の中で一生懸命努力して学問を身につけたり、歌の道にも精進し、また出家して精神的に修養して営々と築いてきた己の存在や価値は一体何だったのだろうか、或いは人生の何の役に立ったのだろうか……と、現代風な自省のしかたはしなかったかも知れぬが、忸怩たる悔悟にも似た気分が息苦しいほど身体中に充満していたに違いない。それが、序の結び 「ものぐるほしけれ」と ─ 彼をして書せたのではないか。時代のあまりのもさまざまな出来事や多くの死が去来してどうにもならない運命に対して心の内奥から叫びに近いメッセージを発したものと、……私は想像する。

華やかな宮廷文化にどっぷり浸かっていた清少納言、貴族社会に拗ねながらも未練たっぷりの鴨長明、貴族社会の崩壊により留まりたくとも行き場のない狂おしい兼好と時代の相違による姿が浮かび上がってくるようだ。 
鎌倉幕府が崩壊したのは、ひとへに北条高時の失政のせいとされて、曰く度々の遊宴、闘犬、田楽に耽り、人々の困窮にも思いが及ばず浪費に身をやつして、祖先の名を汚し、悪政を重ねたと評価が固定されている。

例えば、田楽(田の神事を祭る歌舞を芸能化したもの)を上方から鎌倉に招き昼夜を措かず田楽を舞わせ、褒美に与える衣装を執権以下家臣達が妍を競うが如く豪華なものにエスカレートして、貰う側が嘆息するほど止まるところを知らなかった。現代の常識を逸した浪費ぶりだったようだ。また、闘犬もたまたま高時が庭前で犬たちが集まって噛みあうのを目撃してからひどく興をそそられて、次第に闘犬に惑溺していったとある。早速諸国にふれを出して、大掛かりに犬を集めさせて闘犬に供させた。献上された犬は輿に乗り、その行列が道を通るときは通行人は跪いて見送らねばならなかった。大型犬で多いときには四、五千匹が鎌倉中に充満していたという。飼い方も贅沢で費用も莫大な大支出をせねばならなかったとある。前庭に百匹、二百匹の犬を一度に放して闘うさまを幕府の顕紳達が見物して楽しんだという。互い噛みあって組んずほぐれつの激しい動きとけたたましい鳴き声で天地をふるわせた。まるで戦場のようだと言って楽しんだ人がいる一方、心ある人は不吉だといって嘆いたとのことだが、これを月に十二回も行なわれ、とかく常軌を逸した娯楽であったようだ。しかし、高時の身体はあまり丈夫ではないと謂うのも確かなようである。称名寺に隣接する県立図書館金沢文庫の職員の方の話によれば、病弱な高時には放逸三昧を繰り返すほどのパワーはとても持ち合わせてなかった筈とのこと。たまに気分のいいときは田楽も闘犬も楽しんだことがあったかも知れぬが、それも短時間のことだったろうし、連日連夜のように乱痴気騒ぎに身をやつすなんて出来なかったし、考えられもしなかったとのことである。遊宴、田楽、闘犬は、多分彼の名を借りての側近の御内方(執権の血族)の武士達が権勢にまかせて好き放題やったことではないのか。しかし、名目的にも時の幕府のトップであれば、それらの放逸三昧を止めさせる責任は免れ得ないのも確かなことである。歴史は残酷である。すべて幕府崩壊の責任は彼に帰せられている。

しかし、それよりも幕府崩壊の真の原因は百五十年の長きにわたって専断してきた北条氏そのものにあるのだ。高時個人の器量などは問題ではないのである。鎌倉末期には、全国六十六か国のうち約三分の一の領国は、北条一族の七百余十人で押さえていたという。更に、鎌倉に所縁のある武士達も領地をいろいろと安堵されているだろうから、鎌倉に縁のない武士達に残された土地は全国に一体どの位残っていたのだろうか。数多くの寺院の荘園も考え合わせれば、更に心細くなってくる。主に西国の武士達の土地に対する不平・不満は、長年にわたり北条氏の専横に対して凝縮され、ちょっとしたきっかけさえあれば、忽ち導火線に火がつく過飽和の状態になっていたのである。北条氏が己の地位を安泰にするために、なりふり構わず長年にわたって強力なライバル達を次々と屠って、その領地を強奪して己の領国に組み入れて来たことが却って仇になったのである。権力を一手に永遠に握っていることは不可能なのである。見かけは強大でも人心が離れて土台がぐらついていれば、ちょっとした力でも倒れてしまう。

そのような情況に符号するかのように、後醍醐天皇サイドで幕府打倒の綸旨を出したときに、波紋は燎原の火の如く挙兵の動きは忽ち全国に波及し、無名に近い地方の小族の楠木正成や赤松則村などの活躍で、鎌倉は大軍を催して上方を攻めたものの軍の統制悪く、士気も上がらずもたもたしている内に、足利尊氏の裏切りもあって幕府は二年ほどであっけなく崩壊してしまった。最後は幕府を守るのは北条氏一族だけだったのである。

ここで思い起こすのは鎌倉幕府初期の試練 ─ 承久の乱がある。頼朝以下源氏の血統が三代であっという間に絶え、将軍不在後は北条政子が政務を執ったのだが、後鳥羽上皇の朝廷は倒幕の好機と捉え幕府打倒の綸旨を各地の発した。動揺した鎌倉は幕府内にぎっしり詰めた武士達を前に尼将軍の政子は明快な演説でご恩と奉公の倫理で鼓舞して士気を大いに高めた。吾妻鏡によれば、政子の演説は以下の通りである。……

故右大将軍(源頼朝)朝敵を征罰し、関東(幕府)を草創して以降、官位と云い、俸禄と云い、その恩すでに山岳より高く、溟渤(深海)より深し。報謝の志浅からんか。しかるに今、逆臣の讒(訴え)により非義の綸旨を下さる。名を惜しむのの族(輩)、早く秀康・胤義(後鳥羽上皇側の武士)等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。

これを承けて義時以下の幕府は一つにまとまり、電光石火の如く息子の泰時を将に大軍を催して京都に迫り、一日足らずで後鳥羽上皇の野望を粉砕して事を納めてしまった。鎌倉幕府が若く団結力もありまだ健全な状態であった証拠と言える。しかし、権力が極端に北条へと寡占化して病んでしまった百年後の末期は、その北条のために戦うものは僅かで、抵抗も弱々しく攻めに攻められて空しく鎌倉の街に屍を累々と並べるだけであった。

高時の代に闘犬が流行ったと先に書いたが、鎌倉武士の特筆として平時の軍事訓練を怠らなかっことがある。

「犬追物」とか「笠懸」がそれである。馬上から騎射して犬を射たり、的を射たりして日頃鍛錬していた。その訓練が疎かになったのか、軍事訓練用の犬が闘犬用の犬と転化して各地から鎌倉へ容易に献上されたのであろう。その方が幕府の覚えも目出度かったからである。鎌倉武士の堕落・脆弱ぶりが窺える。 

兼好の生きていた時代は正にこの時代であり、歴史の証人でもあった。幕府の崩壊は混乱の序章に過ぎず、以後前代未聞の南北朝の出現など、更に混乱が長く広く続いていくことになる。知識階層に属していて、貴族の周辺に生きてきた兼好にとっては、社会の混乱と価値観の逆転はいかなる影響を与えたのだろうか。先は見えず、考えても考えても迷うだけで空しく堂々めぐりするばかりで、「問ひつめられて、え答へずなり侍りつ」の心境になっていってしまうのではなかろうか。混沌とした状況の中、出来ることは唯狂うことだけではなかったのか。

「あやしうこそものぐるほしけれ」…即ち、狂おしいことが時代に対する、また人間に対する兼好のメッセージであり、徒然草のキーワードであると感じる。太平記の後半も怨霊の跋扈する世界となっている。後醍醐天皇を始めとする怨霊が生の世界と摺り合わせて出てきて尊氏等を悩ませる。言わば狂の世界を妖しく描いているのである。そうでもしなければ、南北朝時代は生と死、正常と異常のバランスが取れなかったのではあるまいか。

同時に、現代の深刻なモラルハザードの中で著しく不安な精神を抱えながら生きているわれわれも、時として妖しく物狂おしい心境に捉われるのを覚える。親が子を殺し、子が親を殺し、弱きものものが大人に理不尽に殺され、不正は堂々と罷り通り、富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しく、悪徳が栄える仕組みが日常のようになっている。この狂気のような現代を見て、誰が中世の混乱、乱雑、崩壊を笑えようか。物質的には豊かで進歩しても、心は七百年前と何ら変りのない寒さがあるともいえる。

この章の参考文献は以下の通りである。

枕草子・方丈記・徒然草 (日本の古典 小学館刊)
太平記 (新潮日本古典集成 新潮社刊)
全釈 吾妻鏡 (新人物往来社刊)
兼好法師集 (新日本古典文学大系 岩波書店刊)


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最終更新:2006年05月13日 18:05