西大寺靜然上人、腰かがまり、眉白く、誠に徳たけたる有様にて、内裏へまいられたりけるを、西園寺内大臣殿、「あな尊の気色や」とて、信仰の気色ありければ、資朝卿これを見て、「年のよりたるに候」と申されけり。後日に、むく犬のあさましく老いさらぼいて毛はげたるを引かせて、「この気色尊く見えて候」とて、内府へまいらせられたりけるとぞ。
口語訳 西大寺の静然上人が、腰がまがって眉が白く、ほんとうに高徳らしい気品で、皇居へ参内されたのを、西園寺内大臣殿(実衝、実兼の孫)が、「ああ、尊いご様子だ」と言って、上人を敬う信仰の様子があったところ 、日野資朝卿がこれを見て、「年を寄っているだけのことです」と申された。後日になって、むく犬の、みっもなく老いて、やせおとろえ毛のはげているのを、下人に引かせて「この様子は、尊く見えることです」と言って、内大臣のところへ、差し上げられたということである。
続いて、百五十三段に
為兼大納言入道召し捕られて、武士どもうち囲みて、六波羅へ率て行きければ、資朝卿一条わたりにてこれを見て、「あなうらやまし。世にあらん思い出、かくこそあらまほしけれ」とぞいわれける。
口語訳 為兼大納言入道が逮捕されて、武士たちがまわりを取り囲んで、六波羅庁へ引ったてていったところ、資朝卿が、一条大路のあたりでこの光景を見て、「ああ、うらやましい。この世に生きている思い出には、あのようでこそ、ありたいものだ」と言われた。
更に続いて、百五十四段に
この人、東寺の門に雨宿りせられたりけるに、かたはものどもの集まりいたるが、手も足もねぢゆがみ、うちかえりて、いづくも不具に異様なるを見て、とりどりにたぐひなき曲者なり、尤も愛するに足りと思ひて、まもり給ひて、まもり給ひけるほどに、やがてその興つきて、見にくく、いぶせく覚えければ、ただすなほにめづらしからぬ物にはしかずと思ひて、帰りて後、この間植木を好みて、異様に曲折あるを求めて目を喜ばしめつるは、かのかたはを愛するなりけりと、興なく覚えければ、鉢にうえられける木ども、皆掘り捨てられにけり。さも有りぬべき事なり。
口語訳 この資朝卿がある時、東寺の門に雨宿りなさったときに、不具者ども集まっていたが、手も足もねじけ曲がり、そり返って、からだのどこもかしこも不具で異様なのを見て、それぞれに類のない変わり者である。大いに珍重する値うちがあると思って、見守っておいでなるうちに、すぐさま、その興味がさめてしまって、醜く、いとわしく思われたので、ただすなおで、珍奇でないものには及ばないと思って、帰ってから後、近ごろ植木を好んで、風変わりで曲がりくねっているものを求めて、目を楽しませていたのは、あの不具者をおもしろがるのと同じであったと、興ざめに思われたので、鉢にお植えになっていた木々を、みな掘り捨てられたという。いかにも彼ならそうあるべきはずのことである。
ここは兼好が日野資朝に関するエピソードや行動を三段続けて紹介している。珍しく同一人物について三段費やして特集を組んだ感じである。さしずめ週刊誌風にいえば日野資朝・特集号とでもいったところであろうか。そこで容易に想像されるのは、彼の身辺に何か重大異変が発生したか或いは事件が起きたから、それに関連して同時代の好奇心の強い兼好としては無関心ではいられず思わず筆を執った次第ではないであろうか。
では、日野資朝を襲った重大異変とは一体何であったであろうか。ご存知のように彼は後醍醐天皇の股肱の臣として、天皇の意を受けて早くから倒幕運動に身を挺して奔走していた。特に倒幕の核になる信頼できる武士を獲得すべく偽装活動して勧誘している過程で秘事は簡単に洩れて発覚し、六波羅に捕らわれてしまう。いわゆる正中の変(1324年)である。六波羅は三千余騎を動員して(太平記)、土岐頼兼や多治見国長など連座した武士たちを討ち、資朝は捕らわれて佐渡に島流しされてしまう。ここで彼の政治生命は絶たれるのであるが、命はまだ永らえている。挫折しても諦めない後醍醐天皇の再度の謀反計画も側近の参議吉田定房の密告により六波羅の知れるところとなり、日野俊基をはじめ文観、円観、仲円などが捕らわれた。側近の吉田定房が幕府側に密告したのは、一向に倒幕運動を諦めない後醍醐天皇に幕府の糾弾の累が及ばないように先手を打って、謀反の首謀者は正中の変で助かった日野俊基はじめ僅かな人間に押かぶせて事態を収拾しようとしたとされている。巨象のような幕府を相手に無謀な反乱は到底勝算はありえないとこの老練な貴族は考えたのである。
いわゆる元弘の変(1331年)である。しかし、吉田定房が恐れていたような事態には動かなかった。時代は激しくはるかに大きくうごきだしたのである。二度目の逮捕となった日野俊基は鎌倉に送られ葛原岡で斬首される。一方、先の正中の変で佐渡に流されていた日野資朝も、これを機に俊基より先に佐渡で処刑されてしまう。後醍醐天皇は上洛してきた鎌倉の使者から処分を下される前に宮中を抜け出して笠置へ遷幸するという形で逃れた。現行の天皇の身分としては破天荒の行動であった。この企ては一見失敗に終わり、翌年捕らわれて隠岐に流されてしまうが、この天皇の勝利に向けての逃亡という抵抗があったからこそ楠木正成の挙兵に象徴されるように全国の反北条勢力や悪党の叛意に火をつけまたたく間に全国に広がり、最後には北条方の身内同然の最強御家人・足利尊氏の寝返りにより六波羅は五月七日にあっけなく攻め落とされ、その他にも同月二十二日に鎌倉の本拠が新田貞義の軍勢によって陥落し、同月二十五日は九州の鎮西探題が陥落して止めを刺された。元弘三年(1332年)五月のことで、あっという間の崩壊である。百五十年の長きにわたって続いた、全国に跨っていた大蛇のごとき鎌倉(北条)政権も最後は孤立した形で幕を閉じたのである。
それは、太平記に「六十余州悉く、符を合(あわせ)たる如く、同時に軍(いくさ)起りて、纔(わずか)に四十三日の中に皆滅びぬる業報の程こそ不思議なれ」と記されている。
政敵を周到に冷徹に次々と屠って、余りにも北条一族一辺倒で権力を独占してきた矛盾が一挙に噴き出たからである。全国の非御家人たちは見捨てて立ち上がったのだ。打倒北条で後醍醐天皇の元に結集したのである。
ここでまた日野資朝に話が戻るが、兼好が特集的に三段続けて徒然草に書いたときの動機であるが、正中の変(1324年)の失敗による佐渡への流刑の憂き目に遭ったときか、或いは後の元弘の変(1331年)の失敗による佐渡での処刑の報を聞いてからの衝撃からか書いたとするかであるが、事件の推移や時間的な流れからすれば前者の後に書いたとするのが妥当だろうし、事件後の社会への影響力の大きさ・広がりから考えるならば後者の元弘の変後に書いたとする考えも有り得るが、一般には正中の変に直面して兼好は書いたと考えられるべきであろう。しかし兼好の書いた動機を考えるとき、正中の変・元弘の変をセットで考えた方が理解しやすい。
元弘の変が起きたときの幕府の際立った姿勢は朝廷に対する果断さである。謀反の尖兵である資朝・俊基の命運を処断することであった。鎌倉では、執事・長崎円喜の息子、長崎高資「…(略)俊基・資朝以下の乱臣を一々に誅せらるるより外は、別儀あるべしとも存じ候はず」(太平記)と一人の強硬意見に押し切られるかたちで処刑の断を下し、佐渡の守護の本間入道に命じて殺させたのである。資朝の子・阿新丸(13才)との最後の対面も許さずにである。更に日野俊基も一日遅れで鎌倉で処刑されている。
この二つの事変を通観すると、ジャーナリスティックな気質の持ち主の兼好の受けた衝撃も大きく、恐らく兼好の知る限りの資朝に関するエピソードを掻き集めて、いわば同情の念を持って書き贈った気持がよくわかるような気がる。兼好とは生き方も考え方も対極にある人物であるにせよ、鎌倉に対する京の鬱屈したさまざまな思いに心を寄せ、そこに息付く同時代の人間として共感を呼び起こしたに違いない。
百五十二段は静然上人に関する話で、このエピソードのときの資朝は持明院統の花園天皇の院庁に仕えており、西園寺(内大臣)実衡も同僚だった。彼は関東申次・西園寺実兼の孫で実力者のサラブレッドの将来は洋々たるものがあっただろう。資朝はこの貴公子に何かとライバル意識があったのであろう。ある時、内裏にやってきた西大寺の静然上人の腰が曲がり、眉が白く、いかにも高徳らしい気品を漂わせた様子を見て「ああ、尊いご様子だ」と言って(手でも合わせたか)信仰の気配があったのに対して、片や日野資朝は「ただ年が寄っているだけのことです」と一刀両断のもとに切り捨ててしまい、後日、やせ衰え、毛のはげたみっともない年老いたむく犬を内大臣の許に送り届けさせ、「これも尊く見えることでしょう」と口上させる念のいった嫌味をしている。高僧といわれる僧侶がしきりと内裏を伺う風潮があり、修行そっちのけで権力に擦り寄る宗教界の様を日頃苦々しく思っていた資朝は、姿だけでそれをむやみに有りがたがる実衡の態度にも許せないものがあったに違いない。資朝の勝気で一本気な性格が浮び上がってくる。彼なりの正義感が背後に貫いている。1318年に持明院統の花園天皇が退位して大覚寺統の後醍醐天皇が即位すると、資朝は引き続き新天皇のもとで仕える身となった。平行して彼の官歴も昇進の早さは目を見張るものがあった。花園天皇の代は従四位下が最後であったが、後醍醐天皇の代になると、直ぐに従四位上になり、二年後には蔵人頭になり、翌年1321年には参議に列せられ公卿の仲間入りをした。三十二才である。後醍醐天皇が抱く計画を実現するには最も頼りになる一人に目されたのである。日野家はもともと持明院統に繋がる学者肌の家柄であったが、資朝が大覚寺統の後醍醐天皇に深く肩入れすると、律儀な父の俊光は彼を勘当してしまった。日野家の桎梏から解き放たれた資朝は、いっそう倒幕計画に傾注していく。彼の昇進は更に続き、元亨三年(1323)正月には従三位に進み、検非違使別当に任命された。後醍醐天皇に仕えるようになってから実に早いスピードで昇進していく様子が見てとれる。これは天皇の倒幕計画と彼の密接なつながりを裏付けているのである。いわば見込まれて位打ちをされ、直情径行型の彼が天皇の意のままに手足となって動いたのである。
百五十二段の彼のエピソードに事寄せて、江戸の俳人与謝蕪村はつぎのような句を詠んでいる。
鶏頭の花のはぢ(恥)するいつまでも
前書きに、「徒然草」の西大寺静然上人の条を前書する、とあるからこれを念頭において詠んだことは間違えのないところである。──句の意味は、鶏頭の花はグロテスクでたくましくて、色あせても散らず、なかなか枯れない。その姿はあたかも老いてもいつまでも権力にすりよって身の恥をさらしているかのようだ。そうして老醜を引っ下げて参内する静然上人の姿を見てむやみに尊がる西園寺内大臣を皮肉ったもの── 江戸期の与謝蕪村も資朝に大いに共感して、俗物屋への皮肉を一句にして詠んでいる。
百五十三段の日野資朝に関するエピソードは、六波羅の武士に捕らわれた京極為兼を一条大路あたりで見送る話であるが、恐らく為兼が二度目の逮捕で六波羅に連行されたときの話であろう。
一度目の為兼の逮捕は永仁六年(1298年)で佐渡に流されるときで、九才の資朝では幼くて話の内容がそぐわないからである。二度目の逮捕ときは、正和四年(1315年)で土佐に流されるときで、資朝は二十六才で分別も充分につき為兼への憧憬の念も生じていたであろうから、このエピソードは整合性をもって読み手の第三者にも馴染んでくると考えられるからである。
先にも述べたように、日野家は持明院統につながりのある学者肌の家系であった。京極為兼は当代一流の歌人であり、政治家でもあった。伏見天皇の歌の師匠で信頼が厚く、持妙院統側のスポークスマン的な役割りを果たし、皇位継承問題を中心に大覚寺統側や幕府といろいろと渡り合っていた。したがって歌人の二条為世や関東申次の西園寺実兼、六波羅など敵も多かったことは想像できる。日野家も同じ持明院統に属するということで資朝も彼に何がしかの共鳴を感じていたのであろう。後に資朝は大覚寺統の後醍醐天皇にくみして立場を異にするが、為兼の日頃の政治姿勢にか、或いは縛についてもなお堂々たる態度にか、感銘した直情的な感激屋の片鱗を窺わせるに足る充分なエピソードであった。
なお、京極為兼の捕縛について、「金沢文庫文書」で触れている。
「六波羅数百人軍兵、毘沙門堂に馳せ向い、為兼を召し取る。其の罪科未だ実説を知らず候也」と、当時の世情の雰囲気を簡潔に伝えている。関東申次の西園寺実兼も持明院統に与していたのが、台頭する京極為兼との対立より、大覚寺統に鞍替えをして為兼追い落としを図ったものと考えられる。そうして後醍醐天皇即位の実現に向って動き出すのである。キングメーカーの面目躍如たるものがある。
百五十四段は、資朝がたまたま東寺の門に雨宿りした際に、そこにたむろしていた不具者の異様な形相をした一団を目撃して、初めこそ愛するに足れりとばかり眺めていたが、やがてねじれ歪んだいくつもの手足に興ざめて白けてしまい、逆に厭わしく不快になり嫌悪感を覚え、いかに平凡を拒否して非凡を好む気質の彼とても、ただ素直で尋常なものには到底かなわないことに気がつき、直ちに家に帰り日頃丹精を込めて手入れをしていた異様に曲折していた名品の盆栽を鉢からことごとく引き抜いて捨ててしまったというエピソードである。厭わしくなれば一刻も我慢ならず、直情径行に行動に移す彼らしい性格を描いている。そうして最後に兼好は、「さもありぬべき事なり」とこの段ばかりではなく、三段を通じて資朝のきっぱりとした行動を是認する感想で締め括っているのである。
対鎌倉との視点立てば、後醍醐天皇の股肱の臣として打倒鎌倉の一念に燃える資朝の姿に京都の文化に薫陶されて育った兼好には大いに共感を覚えたのであろう。
再三申しあげているが、正中の変では、資朝は佐渡の遠流、もう一人の日野俊基は鎌倉に召喚されたが赦免されたが、元弘の変では、一転して血の粛清が断行されたのである。長崎高資の強硬論に反対する二階堂道蘊の「…(略)御謀叛の事、君たとひおぼしめし立つとも、武威盛んならん程は、与し申す者有るべからず。これにつけても、武家いよいよ慎んで勅命に応ぜば、君などかおぼしめし直す事無からん。かくてぞ国家の太平、武運の長久にて候はんと存ずるは、面々いかがおぼしめし候ふ」(太平記)という穏健派もいたが、他の面々は態度を鮮明にせず長いものには巻かれろ式で声高の長崎高資に押し切られてしまう。いつのときでも落日の政権には軌道修正するエネルギーが残っていないのが常である。そうして、この強硬策が後に日本国中を大動乱に巻き込むきっかけとなるのでる。
果たして兼好が資朝に関する特ダネ記事を三段続きの文章で書いたのは、やがて来る大動乱を予兆していたのかどうかは今となってはわからないところである。
参考文献
太平記 後藤丹治・釜田喜三郎 校注 岩波書店刊
太平記の群像 森 茂暁 角川書店刊
「徒然草」の歴史学 五味 文彦 朝日選書 朝日新聞社
最終更新:2008年01月20日 12:07