宿河原といふところにて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、外より入り来るぼろぼろの、「もしこの御中に、いろをし房と申すぼろぼろやおはします」と尋ねければ、その中より「いろをし、ここに候。かくのたまふは、誰」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。おのれが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人にあひ奉りて、恨み申さばやと思いて尋ね申すなり」といふ。いろをし、「ゆゆしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。ここにて対面し奉らば、道場をけがし侍るべし。前の河原へ参りあわん。あなかしこ、わきさしたち、いづかたをもみつぎ給ふな。あまたのわづらひにならば、仏事の妨げに侍るべし」と言い定めて、二人河原へ出であひて、心行くばかりに貫きあひて、共に死にけり。

ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世にぼろんじ・梵字・漢字など言ひける者、そのはじめなりけるとかや。世を捨てたるに似て我執深く、仏道を願ふに似て、闘諍をこととす。放逸・無慙の有様なれども、死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしまま書き付け侍るなり。

口語訳  宿河原というところで、世捨人のぼろぼろが大勢集まって、九品(くほん)の念仏をとなえていたところ、外からはいってきたぼろぼろが、「もしや、この集まりの中に、いろをし房と申すぼろは、おいでになりませんか」と尋ねたところ、その中から、「いろをしは、ここにおります。そうおっしゃるのは、どなたですか」と答えたので、「しら梵字と申すものです。私の師匠の何某と申した人が、東国でいろをしと申すぼろに殺されたと伺いましたので、その人にお会いいたしまして、お恨みをはらいたく存じまして、お尋ね申す次第です」という。いろをし、「殊勝にもお尋ねておいでになった。そういうことがありました。ここでお相手いたせば、修道場をけがしましょう。前の河原へ参って、お手合わせいたしましょう。けっして傍輩衆よ、どちらにも助勢なさるな。大勢の人の迷惑になっては、仏事の妨げでございましょう」と話をつけて、二人で河原で立ち合って、思うさま刺し違えて、ともに死んでしまった。

ぼろぼろというものは、昔はなかったのではないだろうか。近ごろの世に、ぼろんじ・梵字・漢字などと言われたものが、その起源であったとかいうようである。ぼろぼろは、この世を捨てているかのように見えて、なかなか執着心が強く、仏道を願っているかのように見えて、どうして闘争を仕事としている。勝手気ままで、恥知らずのありさまであるが、死を恐れず、少しもこだわらないところが、小気味よく思われて、人の話した通りに書きつけておいた次第です。



まるで歌舞伎の荒事シーンを観ているような情景であるが、兼好が実際にあった話を聞いて書き記した次第であると述べている。衆人監視の中、互いに剣を結び合わせて間合いを取りつつ隙を狙って斬り込むといった映画で観る武士の決闘場面とは程遠く、ルールも作法もへったくりもなく、唯々刀か凶器を振りかざして相手めがけて矢鱈めったら突き刺して殺しあったのであろう。それを目撃した人たちが口々に周りに伝えて、周囲に広まっていったものである。新聞もラジオもない時代でも情報の伝達は意外と早く広がりを見せる。聞いた兼好は、ぼろぼろなる人種は昔はなかったと書いている。彼らは世捨て人で表向きは仏道修行者を装っているが、髪は伸ばし放題、襤褸を身につけ、護身用の刃物を(中には腰に刀をさしたか)身につけ、諸国を廻り歩いて、時には強盗・物盗り・殺人など状況次第で相当殺伐な行為にも及んだりもした。むしろ闘争を仕事としていると兼好も書いている。我欲も相当なものであり、勝手気ままで破廉恥な連中なのが普通で、いろをしとしら梵字の二人にはむしろ生死を超えたいさぎよさが感じられて、例外に属する部類かも知れない。

広辞苑によれば、ぼろ(梵論)とは虚無僧の旧称とある。深い網笠をかぶり、尺八を吹いて門付けをする修行者とあるが、兼好の昔はなかったとして説明する「世を捨てたるに似て我執深く、仏道願ふに似て、闘諍をこととす。」から受けるイメージとは大分かけ離れていて殺伐の匂いがしない。逆に兼好の頃の鎌倉末期の雰囲気の中にはかなり荒々しいものが社会に横溢していたことだけは確かであろう。

また、与謝蕪村の句を引用して掲げるが、つぎのような句がある。

討ちはたす梵倫(論)つれ立て夏野かな

互いに相手を討ち果たすべき宿怨の梵論が二人、決闘の場を求めて黙々と暑い夏の野を歩む。(場面を夏と設定して緊張感を高めている)草いきれの中に殺気をはらんだ静謐感が漂う。何か西部劇の決闘の前の静けさを思わせるシーンである。蕪村は見事に十七文字に劇場仕立ての句に詠み込んでいる。ついでながら、蕪村は徒然草が気に入ったと見えて他にもいろいろと句を詠んでいる。二三あげてみると、

大根につゞく兵(つはもの)法師武者

六十段のひたすら芋頭を好んだ盛親僧都のエピソードの前に、六十八段に日頃薬用として大根を愛用していた筑紫の押領使が、賊に襲われたとき大根の化身が兵となって現れて恩返しとばかり撃退したことのエピソードを重ねて詠んだ句。

このあとはいわでや聞かん鹿の声

十一段は、風雅な佇まいの山家の庭にある実もたわわな柑子の木が垣で厳重に囲われている有様を見て、少し興ざめした思いを載せた話で、これを題材にして詠んだものである。前文で「かくてもあられけるよと、あはれに見るほどに」までで止め、残念な結末を省いて含みを持たせるなど技巧用いている。蕪村ならでは創意と並々ならぬ徒然草好きの一端が窺われる。その他にもいくつか句がある。

昔なかったとされるぼろぼろについて、二つのことを考えて見たい。一つは新聞・ラジオのない時代でも情報の伝達は意外と正確に早く伝わっていたのではないかと考えられること。しら梵字の師匠の何某が東国においていろをしに殺されて、その仇を果たすべく諸国を遍歴して宿河原にやってきて敵を探し当てたという事実から情報をどう考えるかである。二人の出会った宿河原は東国の武蔵国ではなく、京の近くと比定する(『徒然草』の歴史学 五味文彦著)意見があるが、文脈の流れからいっても自然だと思う。当時人が集まり佛教の修行をする宿河原的な場所は各地に散在していたのだろと考えられる。しら梵字は東国で師匠の何某が事件にあって殺され、その仇を追い求めてはるばる京近くの宿河原に辿りついて本懐を遂げたのである。東国を出てから各地でいろをしの所在の情報を聞きながら遍歴したものと思われる。宿河原は単に修行者の道場として拠点になっていたばかりでなく旅人の宿泊や休息の便にも役立っていたであろうし、食事類を提供することもあったのでないか。このようにこのように宿河原的な人々の集う存在が各地に点在していて、貴重な情報をもたらして発信する役割りをも担っていたのであろう。通信・情報のネットワークは想像以上に確立していたようである。でなければしら梵字がはるばる東国からやって来て仇のいろをし捜しあてることは出来ない筈である。彼の消息を聞き、足取りを辿りながら追い掛けて来たものであろう。鎌倉時代に佛教が拡大しより大衆と密着して関わりを持つようになってから、布教活動と関連して各地との交流が活発になり、情報の広まり、正確さ、早さがよりいっそう高まったことも影響しているであろう。

無論、官の情報伝達は古来よりあったが、民衆レベルでの情報交換がより広まり、活発になったのは鎌倉時代になってからと考えるが如何であろう。一遍上人絵伝の絵巻からも窺い知れるように、各地での布教活動が情報交換の有力な手段として役立っていたことは容易に髣髴される。

太平記で、新田義貞が鎌倉幕府に対して追い詰められて蜂起した下りがあるが、先ず、幕府の二人の使者が来て西国の乱を静めるための軍費として高圧的に「六万貫を五日中に沙汰すべし」と即刻差し出すように命じられてので、怒った義貞は一人を拘束し、残りの使者の首を切って梟首したのである。これを聞いた北条高時は「使節を誅戮する条、罪科軽きにあらず」と怒って、武蔵・上野の両国の勢力に新田貞義と弟の脇屋義助を討つように命令する。義貞は主力となる一族を集めて相談するに、集った者の意見はまちまちでなかなか定まらず、その中にあって弟の脇屋義助が敢然と「相模守の使い切りたりし咎によって、他国へ逃げて討たれたりしかなんど、天下の人口(噂)の入らん事こそ口惜しけれ。(略)…先立つて綸旨を下されぬるは、何の用に当つべき。おのおの宣旨を額に当てて、運命を天にまかせて、ただ一騎なりとも国中へ打ち出でて、義兵を挙げたらんに、勢付きなばやがて鎌倉を攻め落とすべし。勢付かずんば、ただ鎌倉を枕にして、討死するより外の事やあるべき(あるまい)」と義を優先し、武勇を重んじる主戦論を唱えてその場の空気をリードする。当座にいた一族三十余人はたちまち賛同して、事の洩れぬうちに旗を挙げよと五月八日の卯の刻(午前六時頃)に、生品明神の御前にて旗を挙げた。このとき参集した兵は、僅か百五十騎に過ぎなかった。それがその日の夕方には、越後勢二千騎が馬烟を立てて合流した。義貞大いに喜び、参集した訳を聞くと、去る五日、お使いとて天狗山伏が一人、越後の国中を一日の間に触れ回って蜂起を告げたので、われわれは夜を日に継いで馳せ参じたと応えた。更に遅れて、五千騎ものおびただしい軍勢が参着する。翌九日には、足利尊氏の子息千寿王(義詮)が二百騎に守られて合流し、夕刻までには二十万七千余騎が冑を並べて控えるに至った、と記してある。四方八百里の武蔵野に人馬ともども満ち溢れていた。短期間の内に百五十騎があっという間に雪だるま式に万余を超える大軍と化したのである。後は鎌倉目指して押し出すだけである。太平記の数字には誇張があるにせよ、この社会現象ともいえる大軍の参集にはいろいろ理由はあろう。幕府への不満、不公平感、生活苦、一旗揚げ組みなどなどがチャンス到来到来とばかりに一気に動き出したのである。しかし、ここでは情報・伝達だけに絞って考えて見たい。天狗の面相をした山伏が一人が越後の国中を一日で触れ回って情報を伝えたとあるが、迅速さを考えれば恐らく何人かの山伏がリレー式で駆け回って伝えたのであろう。また、山伏だけではなく木こりや猟師などの山賤の類も一役買ったであろう。北条幕府に不満を持つ人々が各地に充満していたのがわかる。太平記の書き手は天狗に擬した超人的な山伏に集約させて、この劇的な動員の様子を描いたのではないか。でも実際には決して神がかり的な情報の伝播ではなく、確固たる情報伝達の手段を持っていたのである。一つには布教活動に伴う情報チャンネルもあり、一つには商業活動による情報の伝播もあった。特筆すべきは争い事(戦争)に伴う情報の交錯であろう。争いの度に情報手段の早さ・正確さもアップして発達していっている。同様に庶民のレベルでも情報の渦に無縁ではなく諸々の方法で広範囲の情報を共有・獲得する時代でもあった。ぼろぼろ同士の決闘も大海の中で海亀が流木に偶然当たるような低い確率ではなく、しら梵字は修行者社会特有の点と線を辿って、いろをし房をちゃんと捜し当てたのである。ある筋の情報チャンネルを頼りにしてこそ敵に巡り遇えたのだ。

この宿河原の決闘から感じるもう一点は、ぼろぼろの死を恐れぬ無法ぶりから鎌倉時代に大いに発生し、社会現象にもなっている悪党の跳梁跋扈との関連である。所謂、諸事悪事は人類の発生と共に昔からあるわけで、取りわけ鎌倉時代と限定することもないのであるが、一般に歴史書には鎌倉時代後半より、畿内周辺の大寺院などの荘園領主に対抗する地頭や、非御家人の新興武士たちが集団で武力に訴えて年貢の納入を拒否したりして、荘園領主に抵抗するようになり、これらを悪党と呼ぶようになったと記してある。当時の社会現象としてその動きは主に畿内・西国の各地に広大していき、荘園領主や幕府を悩ます事態までになっていた。悪党の生態や増殖していく有様を「峰相記」より紹介してみよう。

峰相記は、1348(貞和四)年に播磨国の峰相山鶏足寺に作者(公家か?)が参詣して旧知の寺の老僧と問答形式で取り交わした内容を記したものであるが、当時の播磨国の悪党の様子が窺える格好の資料となっている。以下、その悪党振り有様を抜粋して見ることにする。(悪党 小泉宜右著より)

問うて云わく。どこの国でも同じといいながら、この播磨国では特に悪党が蜂起しているとの評判です。いつ頃から公然とのさばるようになったのですか。

答えて云わく。正安・乾元(1299~1303)の頃から、目にも余り耳にも一杯になるほどうわさが高くなりました。あちこちでの乱暴、あの浦この浦での海賊、寄取り(勝手な債権の取り立て)、強盗、山賊、追落し(追剥ぎ)をひっきりなしに行い、その奇怪で異様な姿は普通の人間とは異なって、柿色の衣(渋色に染めた一重の衣、罪人が着用した)に六方笠をつけ、烏帽子や袴をつけず、他人と顔をあわせず、人目をさけるようにして、数も不揃いの竹製の矢籠を背負い、柄も鞘もはげた太刀を持ち、竹の長い槍・撮棒(鋲を打ちこんだ長い木製の武器)を杖にするばかりで、鎧・腹巻を着るというほどの武具をさらさら持っていません。こいう連中が10人20人と、ある場合は城にたてこもるかと思えば攻め寄せる軍勢に加わり、ある場合は敵を城の中へ導き入れ主人を裏切るといったことを当然のこととしており、誓って引き受けた約束なども全く行動の根拠とはしないのです。ばくちや賭け事を好み、こそ泥棒を生業としています。武家方の命令や守護の取り締まりにもかかわらず、悪党は日に日に倍増していきました。

これに対して、幕府は元応元年(1319)の頃、使者を播磨に派遣し、地頭御家人とともに、悪党の在所を焼き払うなどして鎮圧したため、暫らくの間は静穏になりました。

ところが正中・嘉暦(1324~1329)のころになると、その行動は以前にまさって、世の人々に衝撃を与えました。上等の馬に乗って、50騎100騎と打ち続き、引馬(美しく飾って引連れて行く馬)・唐櫃・弓箭・武具類など、金銀ちりばめて、鎧・腹巻は美しく輝くほどです。彼らは党を結び契約を成し、自分の関係する論所(自分の関わる荘園)でなくとも一方の味方と称して所々を押領しました。このような輩の多くは丹波・因幡・伯耆からやってきました。

これに対して、警護の守護などは、彼等の権威を恐れ、追罰の武士も憚りをなす有様であったため、悪党の追捕狼藉・苅田・苅畠・打入奪取により、残る庄園もないような事態に立ちいりました。

幕府はたびたび鎮圧の命令を下しましたが、使者はあるいは悪党のまいないを受け、あるいは彼等の武勇を恐れて、命令を遵行しないので、国中の過半数が彼等に同意するにいたりました。

悪党が初期には人数から武具いたるまで小数で貧弱で、一時的には弾圧されながらも後期には人数から装備まで着実に充実・成長していく様が手に取るようにわかる。反面施政者の幕府や守護たちの無力さやモラルの無さがよくわかる。正中・嘉暦ころは丁度後醍醐天皇が打倒幕府に腐心していた時にあたり、鎌倉の弱体化を敏感に察知していたのであろう。天皇の倒幕計画もあながち無謀とは言い切れない面があった。政治や社会の治安がどんどん劣化していく状況にあって、正に庶民たるぼろぼろの世界では、彼等流の社会の流儀やルールがあり、白昼公然と決闘が行われたのも彼等流の解決法であった。昔は彼等のような者は居なかったと兼好は新現象のように書いてあるが、一方の悪党の出現および肥大化と相対的に無縁ではなかったのではないか。特に初期の頃の悪党は貧弱で異様ないでたちの小集団で主として海賊・山賊・強盗・小盗(こそ泥の類)を業としていて、ばくちを好み人目を避けて行動する節操のない恥じ知らずの輩であった。彼等は本拠地を持たない浮浪性の濃厚な集団でもあった。彼等悪党の発生源は没落荘園の人々や僧侶崩れとか圧政に堪えかねて逃亡した農民とか、或いは社会からドロップアウトした牢人・巡礼・乞食・河原者・非人とかいろいろな人種で構成されているが、ぼろぼろも悪党の構成員の片棒を担いでいたと想像してもほぼ間違いはないのでないか。そこに気の利いたリーダーでもいれば忽ち台風の目となって処々で荒らし回る悪党集団が発生するのである。ぼろぼろは各地を遍歴して歩いて紛争のある荘園に遭遇すれば、飯の種になるとばかり傭兵として分のいい方に忽ち加担して思いっきり暴れ回ったことであろう。

また、ことさら無理に悪党とぼろぼろを結びつけなくとも鎌倉末期の不穏な世相を考えるならば、上は都の後醍醐天皇の倒幕狂をはじめに武の棟梁・北条高時の権力渇望からの反動の狂気や各地の実力をつけてきた在地非御家人層、あるいは下は海賊・山賊・牢人・非人などの悪党たちの反幕勢力も社会秩序を破壊するに十分な狂気を持つ人々と並んでぼろぼろの狂気も鎌倉末期の世相を彩るに足りるエピソードであるといえる。上から下までが社会を変革するエネルギーを十分に蓄積していたのである。

最終更新:2008年01月20日 12:06