鯉の羹食いたる日は、鬢のそそげずとなん。… (百十八段)

鯉の羹食いたる日は、鬢のそそげずとなん。膠にも作るものなれば、ねばりたるものにこそ。

鯉ばかりこそ、御前にても切らるる物なれば、やんごとなき魚なり。鳥には雉、さうなき物なり。雉・松茸などは、御湯殿の上にかかりたるも苦しからず。その外は心うき事なり。中宮の御方の御湯殿の上の黒御棚に雁の見えつるを、北山入道殿の御覧じて帰らせ給いて、やがて御文にて、「かやうの物、さながらその姿にて御棚にゐて候ひし事、見ならはず、様あしき事なり。はかばしき人のさぶらはぬ故こそ」など、申されたりけり。

口語訳 鯉の吸い物を食べた日は、精気がついて鬢(びん)の毛がけば立たないという。鯉は、膠にも作るものであるから、きっと粘り気のあるものであろう。

鯉だけは、主上の御前においても、料理されるものであるから、特別上等の魚である。鳥では雉が、たぐいのない上等なものである。雉・松茸などは、御湯殿の上の間の棚に載っているのも差し支えない。そのほかのものが載っているのは厭わしいことである。中宮様の御殿の御湯殿の上の間の黒御棚に、雁の見えたのを、北山入道殿がご覧になって、すぐさまお手紙で、「こんな雁のような物が、そのままの姿で、御棚に載っておりましたことは、見なれない、みっともないことです。しっかりした人が、おそばに伺候していないからに相違ありますまい」などと、申されたということである。



時の権力者、関東申次で西園寺実兼が中宮である愛娘の禧子のいる御殿の御湯殿(台所か)で見かけた有るまじき見苦しいもの、即ち中宮の台所で雉ではなく雁が死んだままの姿で棚に無造作に置かれているのを見て、居ても立って居られなくて北山の邸に帰るや否や、直ちに文をしたためて苦言を呈したという次第であるが、単に愛娘に対するやさしい父性愛の発露と見るか、それとも内包するもっと深刻な問題を感知して堪らず手紙を出したのかどうか興味のあるところである。一般には、兼好が、この百十八段の鯉の話に基づく京の伝統文化の有り様と、続けて百十九段の鰹の食習慣が次第に定着して来た話題を基に、新たに台頭しつつある鎌倉の文化を取り上げ、更に百二十段では海を越えて滔々と流入する唐物を珍重する風潮を厳しく批判して、この三つの文化のせめぎあいを通して、迫り来る鎌倉末期の時代の変革を鋭く切り取って表現していると言われている三つの段章である。(『徒然草』の歴史学  五味文彦)時代の流れの変化を嗅ぎ取る事としては確かに指摘の通りであるが、西園寺実兼個人に焦点を合わせて時代を眺めていくと、また別の実相が浮び上がってくるのではなかろうか。百十八段は中宮に関する話なので、彼女が中宮になるのは元応元年(1319年)であり、後醍醐天皇即位の翌年のことである。しかし、西園寺禧子は、既に正和二年(1313年)に皇太子時代の尊治親王(当時二十六才)によって西園寺実兼の屋敷から略奪されて結婚させられている。彼女は十才のころか。父親の実兼は当初この事実を知って怒ったが、皇太子尊治親王の将来性を買って目をつぶることにした。いわば先行投資の思惑であったろう。天皇即位のときに女御になり、翌年に中宮に遇されているのを見て、父の実兼も怒りを収めたことであろう。関東申次という絶大なる権力を保持している上に、なおかつ天皇の舅という立場を手にすれば権力強化のためにはこれ以上の好都合な条件はないからである。しかし、事は実兼の思惑通りにはいかなかったのである。一つには後醍醐天皇自身の政治姿勢による。御存知のように倒幕に執念を燃やし、死ぬまで武家政権打倒を目指して波乱万丈の生涯をおくり静穏の日々とてなかった。その倒幕運動の影響を蒙って京都の朝廷は北朝・南朝の争いも激化して、両統の対立も決定的になり不安定な政治情勢を醸しだして、既存の勢力の権威・秩序は混乱、破壊されて失墜していった。公武交渉の朝廷側の窓口である関東申次の地位もさしたる重きをなさず例外なく低下していった。しかし、実兼は元亨二年(1322年)没だから幕末の貴族たちの没落を目の当たりにすることがなかったことだけは救いだったか。もう一つは禧子自身の問題である。後醍醐天皇との間に懽子という一人の内親王を儲けたか(増鏡)、或いは「一生空しく玉顔に近づかせ給はず」(太平記)と、愛情の乏しいことが記述されて子のないことが示唆されている。皇子はいなかったようで、いずれにせよどちらの資料によっても、彼女自身子宝にはあまり恵まれなかったことだけは事実である。一方、かつて中宮・禧子の女房だった阿野廉子は後醍醐天皇に見初められて、直ちに側室に取り立てられている。それは、「阿野中将公康の女に、三位殿の局と申ける女房(廉子)、中宮(禧子)の御方に候れけるを、君(後醍醐)一度御覧ぜられて、他に異なる御覚あり」(太平記)と書かれ、一目ぼれの体をなしている。

後醍醐は美しく才気のある廉子に魅せられて、以後深い愛情注ぐようになっている。それを裏付けるかのように廉子は、正中二年(1325年)に恒良親王、翌嘉暦元年(1326年)成良親王、同三年(1328年)には義良親王(南朝の後村上天皇)といった具合に次々と皇子を生んでいる。その他に祥子、惟子といった皇女ももうけている。廉子は中宮・禧子の女房として仕えていたところを後醍醐天皇に見初められて引き抜かれて側室になったのは元応元年(1319年)以降より後の時期と考えて間違えのないところである。中宮・禧子の女房たちのチームから、機転のきく廉子が抜けて恐らく裳抜けの殻の状態だったのではないか。天皇の寵愛も廉子が去るとともに彼女ほうに移っていったであろうし、残った女房たちは意気消沈していたのではなかろうか。朝廷の伝統も何もあったものではなかったか。

徒然草の百十八段は、正に中心的な存在の廉子が抜けてあまり機能していない禧子の女房たちの様子を暗示しているかの如く、御湯殿の黒御棚の有様を見て女房たちの実態を見抜いた実兼が危機と感じて、「かやうの物(雁)、さながらその姿にて御棚にゐて候ひし事、様あしき事なり。はかばしき人(しっかりした人)のさぶらはぬ故にこそ」とすぐさま手紙で注意をしたというエピソードを披露している。はかばしき人とは恐らく廉子を意識してのことだろう。単なる女同士の寵を得るための争いではない。父親としての私情よりも、公権力の頂点に立つものの本能的な防衛手段が中宮・禧子の立場をより覚醒させるための行動であったかも知れない。

西園寺家は承久の乱(1221年)で公経・実氏親子が幕府に協力して鎌倉から認められ、それを機に前関白九条道家の後任に関東申次に実氏がなって以来代々当主が世襲してきて一段と政治的な力を蓄えてきた。北条氏の鎌倉幕府が強力なるのと比例してである。西園寺実兼(1249~1322)は実氏の孫で正応二年に内大臣になり、正応四年(1291年)には太政大臣まで登りつめた。関東申次は一旦息子の公衝に譲り渡したが、彼の死(1315年)で再び関東申次に返り咲いた。都の政界は京都と鎌倉の関係に加えて朝廷も二つに分裂して、複雑で難しい時期に差し掛かっているために若年の経験の浅い実衝には関東申次は任が重く、再び実兼が任に就いたのである。その実兼も元亨二年には亡くなる。兼好がこの文章に書いた内容の時期は後醍醐天皇が即位(1318年)した翌年に禧子が中宮になってから以降で、実兼が亡くなる以前と比定されてよいのではないか。更に絞れば後醍醐天皇が院政を停止して親政に切り替えた頃(1321年)としても当たらずといえども遠からずではないか。つまり父後宇多上皇の桎梏から解放されて自前の政治カラーを積極的に打ち出す頃と敢えて考えてもよいかも知れない。後醍醐天皇の後ろ楯のつもりが次第に己から離れ自由且つ大胆な行為が鮮明になり、関東申次として天皇をコントロール出来ない焦燥感を実兼自身は感じ取っていたのかも知れない。

また、実兼に関する話題を兼好は二百三十一段に取り上げている。「百日の鯉」を切る話として有名な段である。話の大要は、園の別当入道基氏は、比類のない料理人との評判である。ある人のところで、みごとな鯉が出されたので、居合わせた一同が別当入道の包丁さばきを見たいと思ったが、軽々しく言い出せないでいたところ、その気配を察した別当入道が、自分は今、百日の鯉の修行(百日間にわたって鯉を切る修行)をしているところなので、ぜひとも私に切らせて欲しいと申し出て鯉を切った。その場にふさわしい興趣のある行為だと居合わせた人々は感じ入った様子で、この話をある人が北山の太政入道(西園寺実兼)に話したところ、聞いた北山入道は、その言い様は自分にはわずらわしく覚えるとして、切る適当な人がいないならば私が切りましょうと、もっと自然にいうべきであって、どうして「百日の鯉」を切るなどといったのか、と批判したという。兼好はその話題を受けて、「大方、趣向を弄しておもしろみがあるよりも、おもしろみがなくとも、素直で穏当なのがまさっているものである。」と評して、何かにかこつけて物事を行なったり、ついでを装うのはよくないことだと指摘して、たとい北山入道と別当入道の間に多少なりの確執があったにせよ、自然体がモットーの北山入道に軍配をあげている。この段の話の頃は、実兼は関東申次として幕府と朝廷の連絡役として充分機能しいて、京都の政界では「北山の太政入道」として重んぜられていた。充分な権勢を背景に貫禄もあり、悠揚迫らぬ自然な振る舞いが身についていたことの反映であろう。百十八段の娘である中宮・禧子に苦言を呈する父親の姿とは打って変わって大いなる相違がある。実兼は、当初伏見院の近くに仕えていて持明院統と深い関係があったものの、伏見院の懐刀である京極為兼と対立するようになってからは、大覚寺統の後宇多院に接近して乗り換え、関東申次の立場を利用して後醍醐天皇の実現に向けて幕府に働きかけをする。事実持明院統から大覚寺統への政権交代が成功して(1318年、後醍醐天皇即位)、北山の太政入道としての実兼の地位にも一層の箔がつくのである。そこまではよかったが、後醍醐天皇が誰からも差配されずに次第に朝廷内でモンスター的な大きな存在に化していくと実兼の関東申次としての重みが相対的に軽くなり変調が感じられるのである。つまり「百日の鯉」の挿話と「鯉の羹食ひたる日」の挿話の間には実兼自身の上に微妙な立場の差異が透けて見えてくるのである。更に、中宮・禧子の存在が絡んでくるとなると父親としての苦悩も倍増されてくるのではあるまいか。

尊治親王(後醍醐天皇)が皇太子になったのは二十一才(ふつうなら天皇の座から上皇になってもおかしくない年令)で、異常に遅咲きの立太子である。母の出自が低いのと次男坊であることがアキレス腱となって出世が遅れたのである。期待されていなかった証拠に尊治親王の周囲には有力な貴族の子弟がブレーンとしてついていなかった。天皇に即位する可能性の高い皇子の周辺には早くから有力貴族の子弟がお相手仲間として送りこまれ、将来即位した暁には廟堂に参内できる有力な一員となることを見越しての先物買い的な措置を取るのが一般的である。尊治親王の周囲には有力貴族の子弟がいなかった。確かな後ろ楯が欲しいとの思いは常に懐いていたであろう。先にも述べたように、皇太子時代に禧子を略奪(1313年、尊治親王二十六才)という穏やかならぬ手段で西園寺実兼の姫君を手に入れたのも、関東申次西園寺家と姻戚関係を結び不安定な立場を強化して確かな後ろ楯を確保するねらいがあっての冷徹な計算ではなかったか。実兼も当初は戸惑い怒りもしたが、尊治親王が皇太子として頭角をあらわし且つ天皇の座が約束されていること、禧子への扱いがそれなりに穏当なものであったから、しだいに態度も軟化して禧子の結婚を追認する形となった。文保二年(1318年)尊治親王が践祚して後醍醐天皇になると禧子は女御になり、翌年正室の中宮(十六才、太平記)になっている。中宮には先にも述べたように皇子はいなかった。後醍醐天皇は嘉暦元年(1326年)、禧子の御産御祈の名目のもとに七仏薬師・冥道供の祈祷をはじめて、元徳元年(1329年)まで続けたが、この祈祷のねらいは幕府転覆の調伏にあって、安産祈祷は隠れ蓑にすぎなかった。しかも、正中元年(1324年)には、いわゆる正中の変を起こして失敗したばかりなのにである。並みの神経の持ち主では出来ない話である。後醍醐天皇の行動は朝廷内では最早誰にも阻止することはできなかった。突出する天皇の行動を見かねて側近の一人吉田定房が苦悩の末、倒幕計画の責任を日野俊基に押し付けて六波羅に密告してしまう。いわゆる元弘の変(1331年)である。倒幕運動の幕開けである。スタート時は後醍醐天皇側の失敗で、天皇は同年九月に幕府に捕らえられると、禧子は幕府の指示で同じく十一月実家に戻された。幕府の後押しのもと即位した持明院統の光厳天皇の朝廷は、後醍醐天皇(自らは退位せず)が隠岐に流された後の正慶元年(1332年)五月、禧子に「礼成門院」という院号を贈っている。彼女は同年八月に出家した。仏門に入って仏の教えに帰依しようとしたが、時代は目まぐるしく動いて翌年(1333年)五月幕府はもろくも倒壊して、光厳天皇は余儀なく廃位に追い込まれた。隠岐を脱出して京都へ凱旋した後醍醐天皇により、仏門に入っていた禧子はふたたび中宮(1334年)として内裏に召し出され、皇太后宮の尊号が贈られる。正に激動の時代に翻弄された激しい変わり様であった。しかし、この頃は既に彼女は病に冒されており(「御心煩はせ給ふ」太平記より)、同年十月に没した。死の直前後醍醐天皇は、禧子の「礼成門院」という院号を停止して、あらたに「後京極院」という院号を贈った。天皇のせめての餞であったのだろうか。享年三十才(太平記)である。誠に彼女の短い生涯ではあるが後醍醐天皇によって翻弄されたといっても過言ではない。庶民の感覚からいえば、愚痴のひとつも言いたくなるところではあるが、後醍醐天皇が元弘の変に失敗して六波羅に捕らわれ、しばらくの間留め置かれた折に天皇と禧子との間に取り交わされた歌がある。(増鏡の「第十六 久米のさら山」、六波羅の先帝後醍醐の章より)長く六波羅に留まっている先帝に中宮よりお慰めになるかとて御琵琶を奉ったついでにちょっとした紙片に歌を書きつけている。

思いやれ塵のみつもる四つの緒(琵琶)にはらひもあへずかかる涙を
後京極院(禧子)

(訳 思いやってください。(弾くこともなく、こんなに)塵ばかりが積もる琵琶に、払うひまもなく落ちかかるこの涙を。)

それにたいして、いかにももっともだと思いやられるにつけても、たいそう悲しくて、先帝(後醍醐)も涙を雨だれのようにこぼされる。…として、お返しの歌

かきたてし音をたちはてて君恋ふる涙の玉の緒とぞなりける
後醍醐天皇

(訳 その昔かき鳴らした琵琶の音も、すっかり絶ってしまって、その緒があなたを恋うる涙の玉を貫く糸になってしまった。)

後醍醐天皇は琵琶の名手としても鳴らした程の腕前ではあるが、倒幕という大博打にうって出て、琵琶なぞかき鳴らすゆとりはなかったのだ。それを見ての禧子の心配りなのであろうか。天皇によって自分の生涯がめちゃめちゃになったなどとはおくびにも出していない。天皇をお慕いしている切なさは訴えているものの、恨み言は述べていない。朝廷に連なる貴族の見事なまでの心根としかいいようがない、確固たる貴族の美学である。例え、後醍醐天皇に翻弄された生涯であっても貴族は貴族の世界(文化)に生きるしか術のなかった人のスタイルであったであろう。

なお、準勅撰集「新葉集」巻十八の雑下には次のように収められている。

「いかなる時にかありけむ、御琵琶を召されけるを、奉らせ給ふとて」の詞書のもとに

思いやれ塵のみつもる四つの緒にはらひもあへずかかる涙を
後京極院

御返し

涙ゆゑ半ばの月はくもるともなれて見しよの影は忘れじ
後醍醐天皇御製

新葉集は禧子の歌は増鏡と変らないが、後醍醐天皇の歌は大分変更になっている。増鏡の歌は女々しいとでも感じたからなのだろうか、新葉集の方はさりげなく追慕の念を打ち出して詠んでいる。

後醍醐天皇にとっては、禧子はある意味で大事な人の一人違いなかった。彼女の持って生まれた血筋がそれである。天皇が、一度仏門に入った禧子を内裏に呼び戻して再度中宮としているのも、実質の后である廉子では務まらない血統の高さがあっからである。かつて母の談天門院忠子が家格の低さから我が身が苦労しているのを経験しているにも拘らずである。血統の高貴さは何物にも変えがたい貴重なものであった。彼女は過酷な運命を強いられたのではなく、高貴なるが故の当然の帰結であったともいえのである。京の朝廷ではいかに美しく才気があったとしても廉子は中宮にはなれなかったのである。

兼好が開けた歴史の小窓から、西園寺実兼・禧子親子にスポットを当てて時代の風景を眺めたが、貴族世界の思わぬ人間模様を垣間見た思いがするが如何であろうか。



参考文献

増鏡  井上宗雄 全訳注  講談社学術文庫  講談社刊
「徒然草」の歴史学  五味文彦  朝日選書
後醍醐天皇  森 茂暁  中央公論新社刊
太平記の群像 森 茂暁  角川書店刊
最終更新:2007年09月30日 17:29