「随筆 幻想 つれづれなるままに」 兼好─太平記と現代を行く内検索 / 「いにしへのひじりの御代の政をもわすれ……(二段)」で検索した結果

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  • いにしへのひじりの御代の政をもわすれ……(二段)
    いにしへのひじりの御代の政をもわすれ、民の愁、国のそこなはるるをも知らず、万にきよらをつくしていみじと思ひ、所せきさましたる人こそ、うたて、思ふところなく見ゆれ。「衣冠より馬・車にいたるまで、有るにしたがひて用ゐよ。美麗をもとむる事なかれ」とぞ、九条殿の遺誡にも侍る。順徳院の、禁中の事ども書かせ給へるにも、「おほやけの奉り物は、おろそかなるをもてよしとす」とこそ侍れ。 口語訳 昔の聖天子の御代の政治の有様をも忘れ、人民の嘆き、国の疲弊してゆくのにも気づかないで、万事に華美をつくして、それを立派なことだと思い、あたり狭しと威張っている人こそ、何ともひどく思慮のないさまに見える。 「衣冠からはじめて、馬や車(牛車)にいたるまで、有り合わせのもので間に合わせて使うように。華美なものを求めることがあってはならぬ。」と、九条殿(右大臣藤原師輔、冷泉・円融両天皇の外祖父)が子孫に遺された訓...
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    ...れづれなるままに いにしへのひじりの御代の政をもわすれ……(二段) 紫の朱(あけ)奪ふことを悪(にく)む…(二百三十八段) 和歌こそ、猶をかしきものなれ…(十四段) 御国ゆづりの節会おこなはれて、…(二十七段) 諒闇の年ばかりあわれなる事はあらじ(二十八段) 一献にうち鮑、二献にえび、三献にかいもちにてやみぬ…(二百十六段) 鎌倉の海に鰹と言ふ魚は、…… (百十九段) 唐の物は、薬の外はなくとも事欠くまじ…… (百二十段) 鯉の羹食いたる日は、鬢のそそげずとなん。… (百十八段) 西大寺靜然上人、腰かがまり、眉白く… (百五十二段) 宿河原というところにて、ぼろぼろ多く集まりて… (百十五段) 或大福長者の言はく、「人は万をさしおきて、ひたふるに徳をつくべきなり。…」(二百十七段) 人の才能は、文あきらかにして、聖の教を知れるを第一とす (百二十二段) 人...
  • 序 ─ つれづれなるままに
    ...書店刊) 「いにしへのひじりの御代の政をもわすれ……(二段)」につづく 名前 コメント すべてのコメントを見る
  • 紫の朱(あけ)奪ふことを悪(にく)む…(二百三十八段)
    御随身近友が自讃とて、七箇条書きとどめたる事あり。皆、馬芸、させることなき事どもなり。その例を思いて、自讃の事七つあり。…(略)…一、当代、いまだ坊におはしましし比(ころ)、万里小路殿御所なりしに、堀川大納言殿伺候し給ひし御曹司へ、用ありて参りたりしに、論語の四、五、六の巻をくりひろげ給ひいて、「ただ今御所にて、紫の朱奪ふことを悪むと言う文を御覧ぜられたき事ありて、御本を御覧ずれども、御覧じ出されぬなり。なほよく引き見よと仰せ事にて、求むるなり」と仰せらるるに、「九の巻のそこそこの程に侍る」と申したりしかば、「あなうれし」とて、もて参らせ給ひき。…(略) 口語訳  鳥羽天皇時代の随身で中原兼武の子の近友(馬の名手)の自讃といって七か条書きとめてあることがある。それらはみな、馬術に関することで、たいしたことでもない諸事である。私もその先例を思って、私の自讃のことを七つ書きとめておい...
  • 御国ゆづりの節会おこなはれて、…(二十七段)
    御国ゆづりの節会おこなはれて、剣璽・内侍所わたし奉らるるほどこそ、限りなう心ぼそけれ。新院のおりさせ給ひての春、よませ給ひけるとかや、殿守のとものみやつこよそにして掃(はら)はぬ庭に花ぞ散りしく今の世のことしげきにまぎれて、院には参る人もなきぞさびしげなる。かかる折りにぞ、人の心もあらはれぬべき。 口語訳 花園天皇から尊冶親王(後醍醐天皇)へご譲位の儀式が行なわれて、神剣・神璽および内侍所の、三種の神器をお譲り申されるころは、まことに、このうえもなく心さびしいことである。 新院の花園上皇が位をお退きになさって、その年の春、次のような歌をお詠みになったとのことである。 ─主殿寮の下役人らが新院方のことはよそごととして顧みず、為に掃き清めない庭には、花が散り広がっていることである─ 新帝(後醍醐帝)の公務が忙しいのに紛れて、新院(花園院)のところには伺候する人...
  • 和歌こそ、猶をかしきものなれ…(十四段)
    和歌こそ、猶をかしきものなれ。あやしのしづ・山がつのしわざも、言ひ出(い)でつればおもしろく、おそろしき猪のししも、「ふす猪(い)の床」と言えば、やさしくなりぬ。この比(ごろ)の歌は、一ふしをかしく言ひかなへたりと見ゆるはあれど、古き歌どものやうに、いかにぞや、ことばの外に、あはれに、けしきおぼゆるはなし。貫之が「糸による物ならなくに」と言えるは、古今集の中の歌くづとかや言ひ伝へたれど、今の世の人の詠みぬべきことがらとはみえず。その世の歌には、姿・言葉、このたぐひのみ多し。この歌に限りてかく言ひたてられたるも、知りがたし。源氏物語には、「物とはなしに」とぞ書ける。新古今には、「残る松さへ峰にさびしき」といへる歌をぞ言ふなるは、まことに、少しくだけたる姿にもや見ゆらん。されどこの歌も、衆議判の時、よろしきよし沙汰ありて、後にも、ことさら感じ仰せ下されけるよし、家長が日記にはかけり。歌の道のみ...
  • 諒闇の年ばかりあわれなる事はあらじ(二十八段)
    諒闇の年ばかりあわれなる事はあらじ倚廬の御所のさまなど、板敷をさげ、葦の御簾をかけて、布の帽額(もかう)あらあらしく、御調度もおろそかに、皆人(みなひと)の装束、太刀・平緒まで、ことやうなるぞゆゆしき。 口語訳 天皇が父母の喪に服す諒闇の年ほど感慨深いことはないのではないか。天皇が服喪中にこもる仮御所の倚廬の有様など、床板を低く張り、粗末な葦の御簾をかけ、その御簾の飾りの帽額も粗末な木綿の布を用い、御道具類も質素で、廷臣たちそれぞれの装束から、つけている太刀や飾りの平緒にいたるまで、質素な色合いで正常と異なっているのは、いかにも諒闇中の雰囲気を醸し出していて、特別に厳粛さを感じることである。 兼好は、諒闇中の御所の様子をこまかく観察して、厳粛な雰囲気を伝えている。実際に体験しなければ描けない筆さばきである。そこで諒闇の主は誰であるかが問題となるが、兼好は自分の主人であ...
  • 西大寺靜然上人、腰かがまり、眉白く… (百五十二段)
    西大寺靜然上人、腰かがまり、眉白く、誠に徳たけたる有様にて、内裏へまいられたりけるを、西園寺内大臣殿、「あな尊の気色や」とて、信仰の気色ありければ、資朝卿これを見て、「年のよりたるに候」と申されけり。後日に、むく犬のあさましく老いさらぼいて毛はげたるを引かせて、「この気色尊く見えて候」とて、内府へまいらせられたりけるとぞ。 口語訳 西大寺の静然上人が、腰がまがって眉が白く、ほんとうに高徳らしい気品で、皇居へ参内されたのを、西園寺内大臣殿(実衝、実兼の孫)が、「ああ、尊いご様子だ」と言って、上人を敬う信仰の様子があったところ 、日野資朝卿がこれを見て、「年を寄っているだけのことです」と申された。後日になって、むく犬の、みっもなく老いて、やせおとろえ毛のはげているのを、下人に引かせて「この様子は、尊く見えることです」と言って、内大臣のところへ、差し上げられたということである。 ...
  • 一献にうち鮑、二献にえび、三献にかいもちにてやみぬ…(二百十六段)
    最明寺入道、鶴岡の社参の次(ついで)に、足利左馬入道の許へ、先ず使を遣して、立ち入られたりけるに、あるじまうけられたりける様、一献にうち鮑、二献にえび、三献にかいもちにてやみぬ。その座には亭主夫婦、隆弁僧正、あるじ方の人にて座せられけり。さて、「年毎に給わる足利の染物、心もとなく候」と申されければ、「用意し候」とて、色々の染物三十、前にて女房どもに小袖に調ぜさせて、後につかはされけり。その時見たる人の、近くまで侍りしが、語り侍りしなり。 口語訳 最明寺入道(第五代執権北条時頼)が、鶴岡八幡宮に参拝のついでに、足利左馬入道(足利家五代の当主・足利義氏、北条泰時の女婿)のもとへ、まず使いをやった上で、お立ちよりになったときに、足利入道がおもてなしをなさったことの次第は、一献のお膳に打鮑(のしあわび)、二献のお膳にえび、三献のお膳にかい餅(ぼたもちの類か、そばがきの類か)で終わってしま...
  • 人の才能は、文あきらかにして、聖の教を知れるを第一とす (百二十二段)
    人の才能は、文あきらかにして、聖の教を知れるを第一とす。次には手書く事、むねとする事はなくとも、是を習ふべし。学問に便あらんためなり。次に医術を習ふべし。身を養ひ、人を助け、忠孝のつとめも、医にあらずはあるべからず。次に、弓射、馬に乗る事、六芸に出せり。必ずこれをうかがふべし。文・武・医の道、誠に欠けてはあるべからず。これを学ばんをば、いたづらなる人といふべからず。次に、食は人の天なり。よく味を調へ知れる人、大きなる徳とすべし。次に細工、万に要多し。この外の事ども、多能は君子の恥づる処なり。詩歌にたくみに、糸竹に妙なるは幽玄の道、君臣これを重くすといへども、今の世にはこれをもちて世を治むる事、漸くおろかなるに似たり。金(こがね)はすぐれたれども、鉄(くろがね)の益多きにしかざるがごとし。 口語訳 人間の才能や知識は、経書(四書五経つまり儒教の大學・中庸・論語・孟子と易経・書経・...
  • いかにしてなぐさむ物ぞ世の中をそむかで過ぐす人に問はばや(最終回)
    標題の和歌は、兼好が「修学院といふところにこもり侍しころ」という題のもとに四首詠っている内の一首である。兼好法師家集の五十五番目に、また「続千載和歌集」にも採られている。歌の意は、「どのようにして気をまぎらしているのかと、世の中を捨てないで過ごしている人に尋ねたいものだ」世俗であくせく暮らしている人に悩みなぞはなく心の安らぎはあるのかと聞いて見たい心境に駆られる…という気持を吐露したもの。前書きの修学院にこもるとあるから、隠遁生活初期の頃を詠んだ歌で、出家の覚悟がしっかりと固まらないからか、世俗ことが気になるのかしきりと出家と世俗の対比を詠っている。修学院は比叡山の西南の麓に位置して、叡山三千坊の一つで修行道場の場。他の三首の歌にも出家初期の気持が詠われている。これからの修行よりも現世の未練・不安などを覗かせている。家集五十二番「のがれても柴の仮庵のかりの世にいまいくほどかのどけかるべき」...
  • 鯉の羹食いたる日は、鬢のそそげずとなん。… (百十八段)
    鯉の羹食いたる日は、鬢のそそげずとなん。… (百十八段) 鯉の羹食いたる日は、鬢のそそげずとなん。膠にも作るものなれば、ねばりたるものにこそ。鯉ばかりこそ、御前にても切らるる物なれば、やんごとなき魚なり。鳥には雉、さうなき物なり。雉・松茸などは、御湯殿の上にかかりたるも苦しからず。その外は心うき事なり。中宮の御方の御湯殿の上の黒御棚に雁の見えつるを、北山入道殿の御覧じて帰らせ給いて、やがて御文にて、「かやうの物、さながらその姿にて御棚にゐて候ひし事、見ならはず、様あしき事なり。はかばしき人のさぶらはぬ故こそ」など、申されたりけり。 口語訳 鯉の吸い物を食べた日は、精気がついて鬢(びん)の毛がけば立たないという。鯉は、膠にも作るものであるから、きっと粘り気のあるものであろう。 鯉だけは、主上の御前においても、料理されるものであるから、特別上等の魚である。鳥では雉が、...
  • 或大福長者の言はく、「人は万をさしおきて、ひたふるに徳をつくべきなり。…」(二百十七段)
    或大福長者の言はく、「人は万(よろず)をさしおきて、ひたふるに徳をつくべきなり。貧しくては生きるかひなし。富めるのみを人となす。徳をつかんと思はば、すべからく、まづその心づかひを修行すべし。その心と言ふは、他のことにあらず。人間常住の思ひに住して、かりにも無常を観ずる事なかれ。これ第一の用心なり。次に万事の用をかなふべからず。人の世にある、自他につけて所願無量なり。欲に随いて志を遂げんと思はば、百万の銭ありといふとも、暫くも住すべからず。所願は止む時なし。財尽くる期(ご)あり。限りある財をもちて、かぎりなき願ひいしたがふ事、得べからず。所願心にきざす事あらば、我をほろぼすべき悪念来れりと、かたく慎み恐れて、小要をも為すべからず。次に、銭を奴のごとくして使ひもちゐる物と知らば、永く貧苦を免るべからず。君のごとく、神のごとく畏れ尊みて、従へもちゐることなかれ。次に恥に臨むといふとも、怒り恨むる...
  • 唐の物は、薬の外はなくとも事欠くまじ…… (百二十段)
    唐の物は、薬の外は、なくとも事欠くまじ。書どもは、この国に多くひろまりぬれば、書きも写してん。唐土舟のたやすからぬ道に、無用の物どものみ取り積みて、所狭く渡しもて来る、いと愚かなり。「遠き物を宝とせず」とも、又「得がたき賃(たから)を貴まず」とも、文に侍るとかや。 口語訳 中国の物は、薬のほかは、なくとも不自由はしないだろう。書物の類は、既に日本の国にたくさん広まっているから、いくらでも書き写すことができよう。唐船が、困難な航路なのに、無用の諸物ばかりを積みとって、船いっぱいにどんどん運んでくるのは、たいそうばかげたことである。 「遠国のものを(ただ遠いだけで)宝としない」とも、また、「得難い財貨を(貴重だけで)尊ばない」とも、古典にも書いてございますとか。 この話も、恐らく鎌倉に下り京都で面識のあった六波羅探題・金沢貞顕のつてで、本貫地の六浦庄に滞在中に見聞...
  • 人ごとに、我が身にうとき事のみぞ好める。(八十段)
    人ごとに、我が身にうとき事のみぞ好める。法師は兵(つわもの)の道を立て、夷は弓をひく術知らず。仏法知りたる気色し、連歌し、管弦を嗜みあへり。されど、おろかなるおのれが道よりは、なほ人に侮られぬべし。法師のみにあらず、上達部・殿上人・上ざままでおしなべて、武を好む人多かり。百度戦ひて百度勝つとも、いまだ武勇の名を定めがたし。その故は、運に乗じて敵(あた)を砕く時、勇者にあらずといふ人なし。兵(つわもの)尽き、矢窮りて、つひに敵に降らず、死をやすくして後、始めて名をあらはすべき道なり。生けられんほどは、武に誇るべからず。人倫に遠く、禽獣に近きふるまひ、その家あらずは、好みて益なきことなり。 口語訳 誰もかれもが、自分に縁遠いことばかりを愛好している。法師は武士の道を専らにし、荒武者は弓を射る方法を知らないで、仏法を知っているふりをし、連歌をしたり、管弦などの音楽をたしなみあったりして...
  • 鎌倉の海に鰹と言ふ魚は、…… (百十九段)
    鎌倉の海に鰹と言ふ魚は、かの境にはさうなきものにて、この比(ごろ)もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄りの申し侍りしは、「この魚、おのれら若かりし世までは、はかばしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は下部も食はず、切りて捨て侍りしもなり。」と申しき。かやうな物も、世も末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。 口語訳 鎌倉の海岸で、鰹とか言っている魚は、あの(鎌倉)の地域では類のないものとして、この頃珍重するものである。それも、当地の古老が申しましたことは、「この魚は、私どもが若かった頃までは、身分の高い立派な人の前には、先ず出ることはありませんでした。また、頭などは、召使でも見向きもせずに食べずに、切って捨てましたものです。」と申しました。 このような物でも、世が乱れ衰えてきたものだから、しきたりがあやふやになり上流社会にまで、入りこむことでございます。 ...
  • 宿河原というところにて、ぼろぼろ多く集まりて… (百十五段)
    宿河原といふところにて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、外より入り来るぼろぼろの、「もしこの御中に、いろをし房と申すぼろぼろやおはします」と尋ねければ、その中より「いろをし、ここに候。かくのたまふは、誰」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。おのれが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人にあひ奉りて、恨み申さばやと思いて尋ね申すなり」といふ。いろをし、「ゆゆしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。ここにて対面し奉らば、道場をけがし侍るべし。前の河原へ参りあわん。あなかしこ、わきさしたち、いづかたをもみつぎ給ふな。あまたのわづらひにならば、仏事の妨げに侍るべし」と言い定めて、二人河原へ出であひて、心行くばかりに貫きあひて、共に死にけり。ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世にぼろんじ・梵字・漢字など言ひける者、そのはじめなりけると...
  • はじめに(トップページ)
    はじめに 「随筆「つれづれなるままに」 兼好─太平記と現代を行く を書くにあたって、以下のことをあらかじめお断わりしておきたいと思う。 先ず、「徒然草」そのものを全段解説なり批評しようとは思っていないこと。既に幾多の研究書や解釈に関する本は学者やら文学者や研究者の手で江戸の北村季吟より今日にいたるまであまた発表されて出尽されている感がある。それらの書物に伍して何かしかの本を出すことは無能な私には到底不可能なことであり望むべくもないことであるからである。徒然草はいろいろな引出しを持った箪笥に例えることが出来ると思う。その中から好きな引出しを出して、お好みの材料でその時代の歴史を考察したり、人々の生活振りを抽出してお好みの織物を紡ぎ、私なりの徒然草を語ることは出来ると思う次第である。 次に、兼好が生きた時代である。鎌倉幕府が衰退し、上は天皇家の兄弟による持明院統と大覚寺統に...
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